『五匹の子豚』アガサ・クリスティ/いかにして回想されたか(千葉集)

文字数 1,627文字

今週の『読書標識』、木曜更新担当はライターの千葉集さんです。

先週に引き続きクリスティの名作『五匹の子豚』(早川書房)について語ってくれました。

千葉集

ライター。はてなブログ『名馬であれば馬のうち』で映画・小説・漫画・ゲームなどについて記事を書く。創元社noteで小説を不定期連載中。

いまさら『五匹の子豚』について世評や『アガサ・クリスティー完全攻略』(霜月蒼)以上のなにを付け加えればいいのかとも思いますが、そうしたこちらの呻吟とは関係なくカーラという女性は名探偵エルキュール・ポアロの前に現れ、こう言います。

「母の潔白をはっきりさせなくてはなりません、ムッシュ・ポアロ。それをお願いしたいのです!」

カーラは幼いころに両親から引き離され、おじ夫婦の家で養育されていました。しかし結婚を前に、実の両親について驚愕の秘密を明かされます。遡ること十六年前、母であるキャロライン・クレインが夫である画家のエイミアスを毒殺し、自らも獄中死した、というのです。


一方でキャロラインは娘に無実を訴える手紙を残していました。母を信じるカーラはポアロの十六年越しの再捜査を依頼します。


ポアロは依頼を快諾し、事件当時現場付近に居合わせた五名の人物を訪ねます。エイミアスの親友フィリップ、フィリップの兄でクレイル家の隣人だったメレディス、エイミアスの不倫相手エルサ、キャロラインの妹アンジェラ、アンジェラの家庭教師セシリア・ウィリアムズ。


五人はこつ然と現れて十六年も前の事件を訊き出そうとするベルギー人探偵に戸惑いつつも、自分の視点から見えた記憶を話します。


聴き取るポアロはあまり事件そのものには深く突っ込みません。むしろある人物が別の人物とどういう関係だったか、どういった印象を抱いたか、について掘り下げます。もちろん、人物像の話ですから、各人で一致しません。キャロライン一人をとっても「悪女だった」「気性の激しい女だった」「勇気ある、嘘をつかない女性だった」と評価が二分されます。

「いまのところ」ようやくポアロは答えた。「まだ何も考えておりません。みなさんの印象をきいてまわっているだけです。キャロライン・クレイルはどんな人だったのか。エイミアス・クレイルはどんな人だったのか。当時、屋敷に泊まっていた人々はどうなのか。あの二日間にどんなことがあったのか。そうしたことを知る必要があります。」

ポアロに印象を与えるのは人だけではありません。五人の家の細部は住人のキャラを反映していますし、エイミアスの遺したキャロラインとエルサの肖像画は「エイミアスから見た妻と愛人」に関して貴重な証言となります。


徹底的にクレイル夫婦と五人の関係者についての印象を溜めこみ、ようやくポアロは事件発生当時の行動を五人全員に手紙という形で書き起こさせ、詳らかにするのです。


そんなにも声に溢れた作品なのに、被害者以外で声を与えられていない人物がいます。キャロラインです。ポワロは他者からの評価やぼんやりとした手紙を通じてでしか死者であるキャロラインの印象にアクセスできません。


しかし、実はポワロは彼女に会っている。彼女についての印象をすでに得ている。序章の地の文を注意深く思い出してみましょう。彼女はそこにいたのです。なんとなれば、その第一印象があったからこそ、ポアロは解決済みだった事件の捜査に乗り出した。


多くの人から得た素描をもとに、ポアロ自身のキャンバスに一枚の絵として完成させていきます。その絵は見た目とは異なっているかもしれませんが、確実に物事の真の姿を捉えています。だからこそ、エルキュール・ポアロの推理は芸術なのです。

『五匹の子豚』アガサ・クリスティ/桑原千恵子訳(早川書房)
★こちらの記事もおすすめ

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色