第2話 若いが、天然の不倫相手の不用意さが命取りに

文字数 3,301文字

「藤城ちゃんは?」
 カナンが怪訝(けげん)そうな顔で振り返った。
「馬鹿。一緒に出られるわけないだろ? 俺は時間差で出るから」
「え~。藤城ちゃんこれから赤坂のスタジオでしょ? 私も青山で雑誌の撮影だから、途中まで一緒にい行こうよ~。どうせタクシーでしょ? 通りで待ってるからさ」 
「だめだ。お前は一人で行くんだ」
 藤城はにべもなく言った。
「いいじゃ~ん! 中途半端な時間に記者はいないって、藤城ちゃん言ってたし」
 カナンが聞き分けの悪い幼子のように駄々をこねた。
「いない可能性が高いと言っただけだ。自宅から一緒に出るなんて、写真を撮ってくだ
さいと言ってるようなものだろうが。とにかく、だめなものはだめだ。また、連絡するから」
 心を鬼にして、藤城はカナンを突き放した。
 本当は、車に乗せて一緒に出たかった。
 信号待ちでカナンの胸や尻を触ったり、いちゃつきたかった。
 三年前までの自分なら、肉欲の誘惑に負けていたことだろう。
 だが、いまは違う。
 いい女にはこれからも出会うチャンスはあるが、次に好感度を失えば二度と取り戻すことはできない。
「わかったよ。じゃあ、お別れのチュウ」
 カナンが藤城の首に手を回し眼を閉じると、煽情(せんじょう)的な肉厚な唇を尖らせた。
「また、今度会ったときにかわいがってやるから、人がいないうちに早く出るんだ」
 鎌首を擡(もた)げそうになる情欲から意識を逸(そ)らし、藤城はカナンを促した。
「わかりました、行きますよ~。もう、邪魔者扱いして~」 
 カナンが頬を膨(ふく)らませ、藤城を睨(にら)みつけると外に出た。
 若くてかわいい子は、どんな表情をしても愛らしい。
 藤城は緩みかけた口もとを引き締め、ミニベンチに腰を下ろしふたたびタブレットPCのディスプレイに視線を落とした。
 遠ざかるカナン以外にカメラが捉えているのは、ゆっくりとした足取りで老婆の車椅子を押す男性だけだった。
 五分くらいモニターチェックを続けた藤城は、キャップとマスクをつけて腰を上げた。
 本当はもっと間を置きたかったが、「東亜(とうあ)テレビ」のバラエティ番組の収録が十三時から始まってしまうのでゆっくりはしていられない。
 藤城はドアを薄く開け、外の様子を窺(うかが)った。
 防犯カメラの映像から眼を離した数十秒の間に、記者が張り込まないとはかぎらない。
 怪しい人も車もないことを改めて確認し、藤城は外に出ると素早く施錠した。
 藤城は俯(うつむ)き加減に、旧山手(やまて)通りに向かった。
 五億の藤城邸が霞むような大豪邸が立ち並ぶ住宅街を足早に歩いた。
 藤城が要塞のような邸宅を右折したときに、人影が飛び出してきた。
「週刊秋冬(しゅうとう)です!」
 スマートフォンのカメラを向けた女性記者……いや、カナンだった。
「おいおい、なにやってるんだ……」
 左胸を押さえ、藤城は掠(かす)れ声を絞り出した。
一瞬で、喉(のど)がカラカラに干上(ひあ)がっていた。
「びっくりした? 藤城ちゃんを驚かせようと思って、ずっと待ってたんだ!」
カナンが、声を弾(はず)ませた。
 彼女のラテン気質の奔放(ほんぽう)なところに惹(ひ)かれたのも事実だが、限度がわからないのが玉に瑕(きず)だ。
「いったい、なにを考えてるんだっ。心臓が止まりそうになったじゃないか!」
「やったー!」
カナンが無邪気に喜び、藤城に抱きついてきた。
「馬鹿っ……離れろ! こんなところを、記者に見られたら……」
 背後に人の気配――藤城は言葉を吞(の)み込んだ。
「後ろに誰かいる。顔を伏せるんだ」 
 藤城は、カナンの耳元で囁(ささや)いた。
「大丈夫よ。記者じゃないから」
 あっけらかんとした口調で、カナンが言った。
「シッ! 声が大きい。どうしてわかるんだ?」
「だって、 藤城ちゃんがそう言ったんだよ」
 カナンが促すように、藤城の肩越しに視線をやった。
 藤城は恐る恐るカナンの視線を追い、首を巡らせた。
 視線の先……老婆の乗った車椅子を押す陽灼(ひや)けした男性を認め、藤城は安堵(あんど)の吐息(といき)を吐(つ)いた。
 ポロシャツ越しにもわかる隆起した大胸筋と太い二の腕はアスリートのようだった。
 介護は重労働なので、体力がなければ務まらないのだろう。
「あの、すみません。お訊(たず)ねしたいのですが、このへんにコンビニエンスストアはありませんか?」
 車椅子が藤城の横を通り過ぎようとしたとき、陽灼け男性が訊ねてきた。
「すみません、このへん詳しくないので……」
「コンビニなら、旧山手通りに出ればあるよ」
 心で舌打ち――嘘を吐いて立ち去ろうとした藤城を遮(さえぎ)るように、カナンが横から口を出した。
「旧山手通りをどっちの方向に行けばありますか?」
陽灼け男性が質問を重ねてきた。
「僕達、急いで……」
「初台(はつだい)方面に十数メートル行ったところに、『セブン-イレブン』があるから」
 ふたたび藤城を遮り、カナンが説明した。
「ありがとうございました」
「待ってくれんかのう。親切に教えてくれたお嬢ちゃんに、飴(あめ)ちゃんをあげたいんじゃ」
 礼を言って立ち去ろうとする陽灼け男性を引き止めた老婆が、膝掛(ひざか)けの下に手を入れごそごそし始めた。
「飴ちゃんって、キャンディのこと?」
「もう、いい加減にしないか。行くぞ」
 藤城がカナンの手首を摑(つか)んだ瞬間、老婆の膝掛けが宙に飛んだ――俊敏に立ち上がった老婆が構える一眼レフカメラに藤城は我が目を疑った。
 あまりにも予期せぬ展開に、カナンの手首を摑んだまま藤城は驚愕(きょうがく)の表情で固まった。
 老婆が連写するシャッター音に、我を取り戻した藤城はカナンの手首を離し、腕で顔を覆った。
「リカオン! 行くんじゃ!」
 老婆が叫ぶと同時に、藤城の前に躍り出てきた陽灼け男性がICレコーダーを突きつけてきた。
「藤城宅麻(たくま)さん、こちらの女性はモデルのカナンさんですよね!? お二人はお付き合いされているんですか!?
「な、な……なんなんだっ、君達は!?
 動転する藤城の顔前に、ICレコーダーを突きつけたまま陽灼け男性がもう一方の手で名刺を差し出した。
「『日光社(にっこうしゃ)』……『スラッシュ』……」
 名刺を受け取った藤城は、うわずる声で社名を読み上げた。
「ニュース部の立浪慎吾(たつなみしんご)と申します。彼女は記者のヨネさんです」
「マジに!?
 カナンが素頓狂な声を上げた。
「マジじゃよ! 齢八十歳、記者歴五十年じゃ!」
 言いながら、老婆が白髪を振り乱しシャッターを切り続けた。
「お婆ちゃん、イケてるぅ!」
 カナンが能天気に胸前で手を叩いた。
「馬鹿っ、顔を隠せ!」
 後の祭り――わかっていた。
 介護を装った編集者と記者……完全に、してやられた。
 無理もない。
 まさか、車椅子に座った八十歳の老婆を記者だと思うはずがない。
 まずい……まず過ぎる。
 こんな記事が出てしまったら、一巻の終わりだ。
 下種不倫の次は十七歳の未成年モデルとの淫行……今度こそ、完全に詰んでしまう。
 落ち着け、落ち着くんだ。
 絶体絶命――危機一髪。
 絶望的な四字熟語が、藤城の脳内で跳ね回っていた。
「君はもう行きなさい」
 藤城は、よそゆきの言葉でカナンに命じた。
「え……でも、藤城ちゃ……」
「いいから、早く行きなさい!」
 藤城が強い口調で言うと、渋々とカナンが旧山手通りの方面へ歩き出した。
 藤城は、胸を撫(な)で下ろした。
 これ以上カナンがいたら、いつボロを出すかわからない。
 現にいまも、自分をちゃん付けで呼ぼうとしていた。
「いまから包み隠さず事情を話すから、記事にするのは勘弁してくれないか?」
 藤城は、縋(すが)るような瞳で立浪をみつめた。
(第3話につづく)

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