諸田玲子・軽妙洒脱な大師匠 「池波正太郎」

文字数 1,761文字




 池波正太郎さんには、小説を書くとき何度となく助けてもらっている。といっても残念ながら、あの優しそうにも気むずかしそうにも見えるお顔も、鋭敏な舌と同じくらい審美眼に優れた眼鏡の奥の双眸も、写真で拝見しただけだ。私が小説を書き始めたときにはもう逝去されていたから。

 初めて小説誌に連載を掲載することになったとき、江戸といえば長屋の人情物が多いので、私は違うものを書きたいと思った。なにを? はっと思いついて『剣客商売』を読み直した。主人公の秋山小兵衛は鐘ヶ淵で隠棲している。四十も年下のおはるとの長閑な暮らしは鄙ならではの情緒がたっぷりで、豊かな水運に恵まれた江戸の四季折々が生き生きと描かれている。浅草に生まれて人生の大半を下町で過ごした池波さんだからこそ描けた世界だ。私にはとても真似などできないが、江戸のはずれの自然豊かな土地を舞台に定めたことで無事スタート、楽しく書きつづけることができた。池波さんのおかげである。

 同時期に書いたもうひとつの連作も、池波さんの人気シリーズから発想を得た。設定や登場人物は全く異なるものの、『鬼平犯科帳』や『仕掛人・藤枝梅安』を愛読していなければ、小悪党を主人公にするアイディアはおそらく思いつかなかっただろう。

 池波さんの「悪」との向き合い方には叡智があふれている。『鬼平犯科帳』の一篇「蛇の眼」の中に「悪を知らぬものが悪を取りしまれるか」という台詞が出てくる。悪人には悪人の理屈があり、悪人なりの葛藤や焦燥がある。いや、だれもが自分の中に、多かれ少なかれ悪のカケラを秘めている。その理解があるからこそ、池波さんはケチな泥棒であっても残虐非道な盗賊であっても、悪事にたずさわるようになるまでの経緯をていねいに描く。人間の弱さ愚かさ悲しさを見つめるまなざしは温かい。

 映画やテレビドラマになっている作品以外にも、私にとって感慨深いものが多々ある。たとえば『雲ながれゆく』という長編。手篭めにされた若後家お歌の仇討にからむ愛と生きざまを描いたものだが、お歌は決してなよなよとした、か弱い被害者ではない。お歌に限らず池波さんの描く女性は図太く逞しい。肝がすわっていて小気味よいほど生気にあふれている。運命に弄ばれているようでいながら運命を切り拓いてゆく女たちは、従来の歴史時代小説の型にはまった女性像をあっさりくつがえした。女性たちの多様さも、私が池波さんに教えてもらったことのひとつだ。

 実は某新聞で忠臣蔵を書くことになったとき、とても悩んだ。多くの作家が取り上げている国民的人気を誇る題材に、どうしたら独自性と新鮮さを盛り込むことができるのか。そこで私が読み直したのも池波さんの長編『おれの足音』だった。大石内蔵助を主人公にした本作は画期的な忠臣蔵である。なぜなら吉良上野介を討ち取る場面もなければ、泉岳寺の浅野内匠頭の墓所へ首級を捧げる場面も、赤穂浪士たちの切腹も描かれていない。討ち入りの際、床几に掛けている内蔵助の耳に上野介を見つけた快哉を叫ぶ声が聞こえてくる。と、そこですとんと幕が下りてしまうのだ。けれど、これぞ池波さんの真骨頂だとよくわかる。内蔵助を等身大の人間として、長所も短所もある愛すべき男として描いているために、滑稽にも思えるラストが利いている。そう。どれだけ名作が書かれていようとそれはそれ、自分なりの忠臣蔵を書けばよいのだと池波さんは背中を押してくれた。

 このように、私は池波さんに励まされながら小説を書いてきた。池波さんを手本にしている作家は数多いようが、池波さんにはだれの追随も許さない凄技がある。それは「洒脱さ」――「独特のリズム」と言ってもよい――ではないか。簡潔な文章の弾むような息づかいや、舞台の場面転換のようにリズミカルに展開するストーリー、俯瞰することで軽妙に見せる手際など、池波さんの江戸っ子気質、つまりシャレっ気がなにより読者を魅了する。

 池波さんと一緒なら、名所歩きも食べ歩きもとびきり愉しいに違いない。私は座右に池波さんの『江戸切絵図散歩』を置いて、事あるたびに眺めている。

「小説現代特別編集二〇一九年五月号」より

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