『西條八十』筒井清忠 / 忘れられた巨人(岩倉文也)

文字数 1,789文字

本を読むことは旅することに似ています。そして、旅に迷子はつきものです。


迷えるあなたを、次の場所への移動をお手伝いする「標識」。

この「読書標識」はアナタの「本の地図」を広げるための書評です。


今回は、詩壇の若き俊英・岩倉文也さんが、『西條八十』(筒井清忠)について語ってくれました。

ぼくは表現ジャンルの垣根を越えて活躍する詩人というものに弱い。たとえば寺山修司であったり、ジャン・コクトーであったり、北原白秋であったり。ぼくはそういった、所謂スター詩人の存在にどうしようもなく惹かれてしまう。かれらの伝記を読んでは、寺山は十八の頃には新人賞を取っていたのか、いやいやコクトーは二十歳で詩集を、そして白秋は……などと、自分と比較してはつい溜息をついてしまう。

ただひとつ不思議に思うのは、かれらの名前からまず真っ先に想起される作品が、必ずしも詩ではないということだ。寺山修司であれば短歌や映画、演劇について思い浮かぶだろうし、コクトーであれば小説、白秋なら童謡を、といった具合に、かれらはどうしようもなく「詩人」であるにも関わらず、他ジャンルの表現に、詩が圧倒されているといった印象を受ける。
ならかれらは「詩人」ではなかったのだろうか?


そうした疑問に答える糸口のひとつが、今回紹介する評伝、『西條八十』にはあると思う。

西條八十という詩人について、ぼくはこの本を読むまであまり知らなかった。ただ漠然と、『砂金』という詩集で評価された、近代の象徴詩人。といった程度の、教科書的な知識があるばかり。詩にあまり関心のない人は、そもそも名前すら聞いたことがないかも知れない。

だからぼくはこの本を読んで、愕然とした。どうして今まで、こんなに多面的に活動し、非常な人気を博していたスター詩人の名を、ぼくは意識することがなかったのだろう、と。

本書ではまず西條八十の生い立ちからはじまり、その多彩な活躍ぶりを、作品の豊富な引用を交えながら跡付けていく。


それを見ていくと、西條八十が童謡、純粋詩、訳詩、抒情詩、作詞、少女小説、幻想・怪奇ミステリー小説、晩年には詩人ランボーの研究など、言語に関わる多数の領域で成果を残していたことが分かる。特にかれと歌謡曲との関わりについては多くの紙幅が取られており、西條八十と言えば作詞家、というイメージがなぜ定着したのかについて、直接にはかれのヒット曲の多くを聴かずに育ったぼくのような世代の人間にとっても、詳しく窺える内容となっている。

だがぼくが一番興味深かったのは、なぜ西條八十のようなスター詩人が「忘れられた巨人」となってしまったのか、について考察されている部分である。

著者はまず「重要なことは、露風の側に立ったことが八十の詩人としての生涯に不利益をもたらした可能性が高い」と指摘する。ここでいう露風とは、童謡「赤とんぼ」で知られる詩人・三木露風のことであり、大正初期には北原白秋と並び称され「白露時代」と呼ばれる二大流派対立の時代を形成していた。

様々な経緯から西條八十は露風の陣営に身を投じることになるのだが、結果、詩史的に見て露風陣営は白秋陣営に敗れ去り、詩壇の表舞台から姿を消してしまう。そうした詩壇政治に巻き込まれる形で、「八十ら露風に近かった人々の評価が低下していった」のではないかと著者は考察する。

ぼくはこれを読んで、そうか、詩史というのも勝者の歴史なのか、と奇妙に腑に落ちる感じがした。当然と言えば当然、なのであるが、今までそのことを意識にのぼらせることはなかった。

また著者は言う。
「大衆社会」によって与えられる「名声」には抗しがたい「魅力」があった。だからこそ「ビッグな逸脱者」はより多く「非難」され、不自然な「無視」が行なわれた。このように見た方が実相に近いのかもしれない。

うんざりすると同時に、「詩人」も、それを取り巻く者たちもみな人間であることを改めて思う。それに、忘れられたのなら思い出せばいい。


本書には、思い出す楽しみが満ちている。

岩倉文也

詩人。1998年福島生まれ。2017年、毎日歌壇賞の最優秀作品に選出。2018年「ユリイカの新人」受賞。また、同年『詩と思想』読者投稿欄最優秀作品にも選出される。代表作に『傾いた夜空の下で』(青土社)、『あの夏ぼくは天使を見た』(KADOKAWA)等。

Twitter:@fumiya_iwakura

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色