『赤糸に縫いとじられた物語』寺山修司/ひとり という鳥(岩倉文也)

文字数 2,504文字

次に読む本を教えてくれる書評連載『読書標識』。

月曜更新担当は作家の岩倉文也さんです。

今回は寺山修司『赤糸に縫いとじられた物語』をご紹介していただきました!

書き手:岩倉文也

詩人。1998年福島生まれ。2017年、毎日歌壇賞の最優秀作品に選出。2018年「ユリイカの新人」受賞。また、同年『詩と思想』読者投稿欄最優秀作品にも選出される。代表作に『傾いた夜空の下で』(青土社)、『あの夏ぼくは天使を見た』(KADOKAWA)等。

Twitter:@fumiya_iwakura

ぼくの世界を決定づけた作家を三人挙げろと言われたら、ぼくは迷わず太宰治、チェーホフ、寺山修司と答えるだろう。太宰治からは生きることの絶望と輝きを、チェーホフからは生の限りない退屈を、寺山修司からは言葉の魔術と可能性を教えられた。これらはみな、ぼくが中学生から高校生までの間に愛し、生きるよすがとしていた作家たちである。


今回はその中から、今なおぼくが愛してやまない寺山修司の一冊を紹介したいと思う。


だが本題に入る前に、もうしばらく雑談に付き合ってもらいたい。


告白するが、ぼくは寺山修司になりたいのである。いや、これでは語弊がある。ぼくは、寺山修司のような詩人になりたいのである。いや、これでもまだなにか違うような気がするが、とにかくぼくは、ずっと、寺山修司に憧れていて、日本において「詩人」とほんとうに呼べるような人は、これまでに寺山修司ひとりしかいなかったのではないかとすら思っているのである。


詩人とはなにか? という問いをここでぶち上げるつもりはないが、ぼくは寺山修司ほど詩人を志向し、それを最後まで演じきった人をほかに知らない。いったい何人の人間が、寺山修司の存在に憧れて詩人を志したことだろう。ぼくは詩人と呼ばれるようになってなお、「詩人」になりたいと願い続けている。詩人とは職業でも肩書でもなく、思想なのである。寺山修司はそのことを、全生涯をもってぼくに示してくれた。


だからだろうか、ぼくが目指す詩人とは、決して専門詩人ではあり得ない。詩人とは詩を書く者のことではなく、世界から「詩」を見つけ出す者のことなのだ。それがいわゆる詩の形で表れるか、それとも短歌俳句で、小説で、あるいは映画や演劇といった形式で表れてくるかは、本質的な問題ではないのである。


寺山修司はジャン・コクトーなどと同じく、詩の可能性を極限まで推し進め、それが示す範囲を拡大させた人だ。本当の詩人は、あらゆるものを詩に変えてしまう。


『赤糸に縫いとじられた物語』は、そんな寺山修司の童話を十二編あつめた作品集である。


寺山修司を愛読する方ならご存じだろうが、寺山修司の作品には繰り返し登場するモチーフがいくつか存在する。消しゴム、小鳥、かくれんぼ、海、サーカス、母親、ふるさと、孤児、飛行機、書物……。これはそのほんの一部だが、こうして思いつくままに列挙してみると、どの言葉からも子供時代の記憶へと繋がるような、ある「さびしさ」みたいなものが感じられる。


本書においても、すべての童話に通底しているのはこの「さびしさ」である。


たとえば巻頭に置かれた「壜の中の鳥」は、こんな短詩からはじまる。

なぞなぞ たてろ

同じ鳥でも飛ばないとりはなあんだ?


それはひとり という鳥だ

この作品は、あらゆる人間が見境なく鳥へと変わっていく世界を舞台としたお話で、愛し合う少年と少女の悲劇が語られる。


また、次に置かれた「消しゴム」では、なんでも消すことのできる不思議な消しゴムを手に入れた少年水夫の恋と、そのかなしい顛末が描かれる。


そう、ひとつふたつの例外をのぞいて、本書に収められた物語はみな、バッドエンドなのだ。恋人同士のすれ違いが、信じていた者の嘘が、ちょっとした誤解が、登場人物たちを取り返しのつかない喪失に追い込んでいく。語り口はあくまでおだやかで、作中に差し挟まれた詩の効果もあり、ますます悲しみは胸底へと染み入る。


本書の解説で角田光代は、

この作品集のなかに、たとえば明白な意志を持ってだれかがだれかに向ける悪意というものは存在しない。存在するとするならばそれは作者の登場人物たち(もしくは読者である私たち)への悪意にほかならず、恋人同士が永遠にすれ違い続けたり、初恋が決定的にみのらなかったり、記憶をすりかえたさびしい男と女が幸せそうに寄り添うのは、物語の必然ではなくこの作者のささやかな悪意によってである。

と、物語に見え隠れする寺山修司の悪意を指摘する。

 

しかしぼくがこの作品集から感じるのはただ、寺山修司の果てのない孤独である。


書斎で、カフェで、ありとある場所で、寺山修司は目だけを子供のように輝かせながら、言葉を書き飛ばした。その大きくてさびしげな背中が、本書を読んでいるぼくの目にはありありと浮かんでくる。

ひとはだれでも、実際に起こらなかったことを思い出にすることも、できるものなのです。

そう寺山修司は本書の最後に書いている。ならば彼にとって、彼自身のほんとうの記憶が持つ意味とは、一体なんだったのだろう。


言葉の自由こそが寺山修司の孤独の本質だったと、ぼくは思わずにいられない。寺山修司の腕をもってすれば、言葉で自らの記憶を書き換えることも、童話の登場人物を不幸のどん底に陥れることも、共に造作なかった。それはどこか、無邪気な子供の遊びにも似ている。


本書が恐ろしく、また美しいのは、そんな寺山修司の想像力が孕み持つ本来的なさびしさが、期せずして顔を出しているところだ。


教訓もなく、成長もなく、言葉の流れるままに愛し合い、そしてふしあわせになる登場人物たち。人は鳥へと変わり、消しゴムが存在すら消し去ってしまう、不安定な世界。赤糸で縫いとじられているのは、寺山修司が見つめていた、想像力という名のかなしみなのである。

『赤糸で縫いとじられた物語』寺山修司(ハルキ文庫)
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