自由

文字数 1,034文字

 わたしは何度か転職しているのだけれど、そのうち一社で、なぜか人事部に配属されたことがある。
 人事部とはいえ海外の担当で、国内の人事業務は管轄外だったので、わたしは日本本社の慣習に疎かった。副業禁止の規程も知らなかった。小説家であることを職場で黙っていたのは、規則違反を隠そうとしたわけではなく、なんとなく気恥ずかしかったからだ。
 他の会社に勤めているときも、そうしていた。「今にバレますよ」と担当編集者には心配されたが、大丈夫だと自信があった。ペンネームだし、幸か不幸か売れっ子でもない。文芸誌に顔写真が載る機会はたまにあるものの、同僚の目にふれる確率は限りなく低い。
 誤算だったのは、とある出版社で新刊を出すにあたり、著者近影入りの広告ページが作られ、それが同じ版元のファッション誌でも使われたことだ。
 人事部長に呼び出され、わたしはクビを覚悟した。よりにもよって直属の部下が人事規則を破るなんて、彼にとっては厄介な事態に違いない。
 だから、思わぬ提案を受けて驚いた。
 連載中など、すでに進んでいる仕事は大目に見る。でも、今後新しい依頼は受けないと約束してほしい。
 約束はできません、とわたしは答えた。ほとんど即答だった。今考えれば、迷うふりくらいはしたほうがよかったかもしれない。
 結局、仕事の中身も給料も変わらないまま、ただし正社員ではなく契約社員として、引き続き雇ってもらうことになった。部長はわたしに非正規雇用で働くデメリットを説き、後悔しないかと念を押した。しない、とわたしがまたもや即答すると、彼はため息まじりにつぶやいた。
「自由だなぁ」
 何年も後になって、人事にまつわる物語を書こうとしたとき、記憶の底からまっさきに浮かんできたのはその一言だった。彼は褒めたつもりではなく、ただ呆れていたのだろう。それでも、「自由」という言葉の軽やかな響きは、わたしをずいぶん勇気づけてくれたのだ。
 おかげさまで、ありがたいことに、わたしは今でも自由に小説を書いている。



瀧羽麻子(たきわ・あさこ)
1981年兵庫県生まれ。京都大学卒業。2007年『うさぎパン』で第2回ダ・ヴィンチ文学賞大賞を受賞し、デビュー。’19年『たまねぎとはちみつ』で第66回産経児童出版文化賞フジテレビ賞を受賞。近著に『女神のサラダ』、『あなたのご希望の条件は』などがある。

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