美しい書店

文字数 1,040文字

 初めてその書店の前に立ったときのことは、よく覚えている。20年前のことだ。
 赤茶けたレンガの壁、緑色の木製ドアと窓枠、その前に並ぶアンティーク調のベンチと植木鉢。大きな窓を通して薄暗い店内をうかがうと、いくつものオレンジ色の丸いランプが、天井からぶら下がっていた。それは、まるで風船が空中を漂っているように見えた。
 中に入ると、人気作家の新刊本や大手出版社の雑誌などは置かれておらず、いったい誰が読むのだろうと疑うようなマニアックな本が目についた。棚の前に立つ客たちは、お気に入りの本を手に、ただ静かに本のページをめくっていた。紙ずれの音だけが、静まり返った店内に響いていた。
 外に出て、改めて外観を眺めた。なんて素敵な書店だろうと思った。
 それが、恵文社一乗寺店との初めての出合いだった。
 恵文社(以下「一乗寺店」は省く)は、2010年に、イギリスのガーディアン紙によって「世界で最も美しい10の書店」に選ばれている。ただ、店自体は、京都市の中心から離れた街の、ごく普通の商店街の外れにぽつんと建つ、街の小さな本屋さんである。それが、なんだか嬉しい。
 光文社文庫編集部から「実在する街を舞台にした短編ミステリ」を依頼されたとき、すぐに恵文社が頭に浮かんだ。ストーリーより前に、恵文社が登場する話にしようと、まず決めてしまった。
 そして、この短編集が出来上がった。
 恵文社の中で何かが起きるわけではないけれど、「恵文社がなければストーリーが成り立たない」。そんな話ばかりになった。
 前作『二十年目の桜疎水』が「第8回京都本大賞」を受賞したこともあって、京都を舞台にした作品を発表するのは、今までとは違ったプレッシャーがある。でも、大好きな一乗寺と恵文社を舞台にした作品集を刊行できて、今はとても幸せだ。



大石 直紀(おおいし なおき)
1958年静岡県生まれ。’98年第2回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞した『パレスチナから来た少女』でデビュー。2003年『テロリストが夢見た桜』で第3回小学館文庫小説賞、’06年『オブリビオン~忘却』で第26回横溝正史ミステリ大賞テレビ東京賞、『二十年目の桜疎水』収録の「おばあちゃんといっしょ」で第69回日本推理作家協会賞短編部門、’20年『二十年目の桜疎水』で第8回京都本大賞を受賞。TVや映画のノベライズも多数手がける。

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