泣き腫らした目を冷まして。『海を照らす光』

文字数 2,903文字

溶けたピザ窯。そして、著者を‟喪失”した本の幸福。

無くなった家があります。祖父と祖母が建てた家で山の中にあるんです。

沢山の丸太を使って出来た家で、たまに蜂が巣を作り駆除には大騒ぎ。夜はしんと静かで暗くて怖いけれど、星はとにかく明るい。


タラの芽を採り、ブルーベリーを摘み、あるときは父の思い付きで家の前にピザ窯を作りました。父はサッシ屋で、何か物を作るのは好きだったのかと思います。セメントとレンガを買ってそれをベトベト塗り合わせ作った釜は第一回ピザ窯式で火を入れて数十分、必死にこねた小麦の塊とともにドロドロに溶けてゆきました(翌年は成功し見事な釜ができました)。


私はその家が今さら、愛しくて仕方がないのです。本書を読んでいっぱい泣いた後ふとあの家を思い出し、ひとりコンビニビールで近所の住宅街を歩きました。


作家の顔がまったく見えない本に出会ったのは久々です。コンビニで買ったビールで散歩しながら考えていたのは、物語の人々とその土地のことで、帰路に着いてやっと、あれ、あたし作家のこと一瞬も考えなかったじゃん!
誰!? とアホみたいに驚いたのでした。

この島には自分しかいない。裸で暮らすか、服を着るか?

 家は、住んだ所は、好きだろうと嫌いだろうと自分の根が張ってしまう場所ですよね。『海を照らす光』の主人公トムは、孤島の灯台守になりました。第一次世界大戦の戦場へ出た後再就職したのです。


トムは灯台のシンプルな、それでいて美しい機能性に惹かれながら淡々と灯台守ヵとしての業務を遂行します。毎日同じことの繰り返し。日誌を残す。3ヵ月に一回物資が届く。そして3年に一回、本土に降りるのです。灯台の美しさに浸透しながら、その孤独な時間はけしてトムにとって耐え難いものではないんです。


なぜかというと、彼は多くの人と同じように、戦場で傷付いていたから、心に狂いを感じてしまっていたから。兵士の痛みをそっくり抱えたまま、生き延びてしまった不安と闘いながら灯台守として暮らすのは、普通の人間よりははるかに楽だったかもしれません。


灯台に就任する道中に、ふたりの女性に出会いました。船上で出会ったおそらくお金持ちの一人旅の女性と、港でかもめにエサをやっている無邪気な女性、イザベル。やがてイザベルと恋に落ち、彼女の無邪気さも手伝って、彼らは結婚しともに暮らすことになります。灯台のあるヤヌスという小島で、他に人もなく、つまりたったふたりきりで。


 その孤独な島は、しかしイザベルとの愛を育むには十分な空間です。ふたりは否定し合うことなく仕事も遂行し、幸せな毎日を送っていました。ある日イザベルがパッと裸でトムの前に出てきます。人がいないんだから、つまり裸で暮らしても問題はないわよね?
って調子に。つまりそれくらい、誰もいないんです。


それに対してトムは「沖合いの灯台で生き延びるためにすべきことがいくつかある。普通のままでいること、決まった時間に食事をとること、暦をきちんとめくること…それから服を着ていること」と返答します。恥じてもじもじと服を着はじめるイザベルが可愛いく、孤独に狂わないために必要なルーティーンを誠実に理解している姿にトムの人柄が現れる素敵なシーンでした。


ふたりは子供を望みますが、島に医者を呼ぶこともなくイザベルは流産してしまいます。ベッドで、謝りながら、たったひとりきりで血を流し流産を伝えたイザベルはずっと自責の念にかられていました。


悲しみの癒えぬある日、孤島の浜で赤ん坊の泣き声が聞こえました。とうとう幻聴か、と。気落ちするもなかなかその音は止みません。現実のものだったのです。


奇跡がやってきました。赤子が、死んだ男と共に、船に乗って流れ着いたのです。もちろん、人としては、業務としては、すぐに本土に連絡すべきでした。どんな事情か知りませんが人がひとり死んでいるのですから。けれどもその赤ん坊の魅力が、傷心のイザベルの心を捉え、彼らの運命を、幸か不幸か変えていったのです。


流れ着いた赤ちゃんとの日々は完璧な幸福でした。私、その完璧な日々の描写はあっという間に読みました。小さな女の子の生きている様を通して登場人物たちが湧き立つシーンを読める幸せを何度も味わいながら、島で愛し合うトムとイザベルと小さな女の子の愛に心奪われました。その先にある苦痛が胸を締め付けるには十分なくらいに。


彼らは外の世界から目を背けていました。時間が経つにつれ、他者への想像力とある女性の存在が彼らに現実をつきつけます。善良なふたりが自分たちの子供だと「嘘」をついていたのだから仕方ありません。徐々に幸福な日々が不安に呑み込まれていきます。


そして真実は、あまりに悲惨なものでした。悲惨さに勝ってくれ、と何度も何度も願いながらページをめくったのは言うまでもありません。そして私の期待は、裏切られなかったのです。

「ナイロン100°C」の俳優さんからプレゼント。

 実はこの本をくださったのは、ナイロン100℃という劇団の女優さんであり私の所属する阿佐ヶ谷スパイダースのメンバーでもある村岡希美さんなんです。次の11月にある阿佐ヶ谷スパイダースの公演では主演。あ、先日NODA MAP『フェイススピア』にも出演されていて、本当にわくわくしながら観に行きました。演劇って最高ですよ!


期待を超える作品で、素晴らしい言葉、視覚、音、人の体、色々な迫力の渦に呑み込まれて演劇がさらに大好きになりました。その村岡さんが昨年のクリスマスに、お手紙付きでまとめて送ってくれたんです。お手紙の一番先頭に説明があったのがこの本でした。 


 私の無くなった山の家には、積み重ねてきた自然と家族との細かなやりとりの景色がありました。『海を照らす光』の登場人物たちは、戦争の経験から逃れがたい苦しみを知って、けれども苦しむのと同じくらい、いやそれ以上に生まれてしまった愛のためにたくさんのことに耐え、そして手に入れました。この手に入れる様が素晴らしいんです。「物語の力」のみでここまでの感動を生むのだから、やっぱり本はやめられません


「生きるために読むのか、読むために生きるのか」よく「食べるために〜」「演じるために〜」と言葉を変えて耳にしますが、どっち側の人間ですか?
なんて問われるのはなんだか寂しい気がします。「生きて読んで読んで生きて」で良いと思うんですよね。こういう物語を、生きた人間が書いているということ自体に救いがあるなとしみじみ、泣き腫らした目を冷やしております。

『海を照らす光(上・下)』M・L・ステッドマン/著(ハヤカワepi文庫)

木村美月(きむら・みつき)

1994年3月生まれ。劇団・阿佐ヶ谷スパイダース所属。俳優部。『MAKOTO』や『桜姫〜燃焦旋律隊殺於焼跡』などに出演。自身で脚本執筆や演劇プロデュースもしており、2019年の、ふたり芝居『まざまざと夢』では初脚本と主演を務めた。11月公演予定の阿佐ヶ谷スパイダースの新作にも出演予定。しっかり読書を始めたのは13歳。ラム肉と大根おろしが好き。

Twitter/@MiChan0315


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