第14話

文字数 8,660文字

 22 代 役

「その坂を、ゆっくり上れ。──そうだ。猿たちの方を見ながら……。そのまま、曲って切れる……。OK!」
 と、(まさ)()が満足げに言った。「カット!」
 ()()()はホッと息をついた。
「いいですね、猿山の猿たちって」
 と、(はし)()に言った。「もちろん、中じゃそれなりに苦労があるんでしょうけど」
「ボスが入れ替ったりすると大変らしいよ」
 と、橋田が言った。「サラリーマン社会みたいだな」
「そうですね」
 と、亜矢子は笑って、猿山を元気にはね回っている若い猿たちを眺めていた。
 ()(さき)の入院先へ駆けつけて行った五十嵐(いがらし)()()の代役で、橋田と動物園の中を歩くロングショットに出ている。
「──よし、場所を変えるぞ」
 と、正木が言った。「ライオンが外にいるか、見て来い」
 助監督が駆け出して行く。
「監督、ライオンが引っ込んでたら、どこで?」
「そうだな。キリンか象だろ」
「パンダじゃなくていいですね」
 と、亜矢子は念を押した。
 助監督が戻って来て、
「今、表で寝ています」
 と、息を弾ませて言った。
「よし! ライオンへ移動!」
 と、正木が声を上げ、スタッフが一斉に動き出す。
「──さすがだね」
 と、橋田が歩きながら言った。
「何ですか?」
 と、亜矢子が訊く。
「いや、君がちゃんと彼女の歩き方を見てるんだな、と思ってね」
 と、橋田が言った。「歩幅とか、歩いてるときの手の位置とか」
「それは……。だって、スクリプターですもの。見てるのが仕事です」
「しかし、誰でもそうできるわけじゃないだろう。正木さんが君を頼りにしてるのも分るよ」
「やめて下さい。照れます」
「君、役者になる気はないのか?」
 亜矢子はびっくりして、
「そんな……。無理ですよ!」
「そうかな。素質はあると見たけどな」
「スクリプターをクビになったら、使ってもらいます」
「うん。僕のよく知ってる劇団に話してあげるよ」
 橋田は結構本気のようだった。
「──いいか」
 正木が二人の方へやって来て、「ライオンのカットは撮ってある。二人の立っている後ろ姿と、その奥にライオンだ。前より少し互いに近寄ってくれ」
 と指示する。
 ライオンは幸い同じ所で寝ていた。
「よし、カメラを回すぞ」
 と、正木が言ったときだった。
 外が何だか騒がしい、と思ったのかどうかライオンがむっくり起き上り、歩き出してしまったのだ。
「ああ……。いい構図だったのに」
 と、カメラの(いち)(はら)が言った。
「ライオンに文句言ってもね……」
 と、橋田が苦笑した。
 ライオンは画面に入らない辺りをウロウロすると、コンクリート製の岩山のかげに入ってしまった。
「尻尾だけ見えてますけど」
 と、亜矢子は言った。
「だめだな」
 と、正木はため息をつくと、「よし、ライオンは後回しだ。を先に撮ろう」
「どこですか?」
「木かげのショットだ。分ってるな」
「あ……。はい」
 ちょっと緊張する。
 主人公の男女が、連れて来た子供たちと離れてできたほんのわずかの時間。
 人目のない木かげに隠れて、激しく抱き合う。──熱烈なキスをする、とシナリオにはある。
 アップのカットは、二人の気持の盛り上りも必要なので、別に撮った。胸から上のバストショットだから、ここでなくてもよかったのだ。
 しかし、引きのショットもどうしても必要だ。
「橋田君、頼むよ。亜矢子は何しろ奥手なんだ。リードしてやってくれ」
 と、正木が言うと、亜矢子はムッとして、
「三十過ぎの女に向って、それはないでしょ!」
 と言い返した。
 木かげに入ると、
「いいな? じゃ、本番行くぞ」
「監督、ちょっと……。ちょっと待って下さい」
 と、髪を直すと、「おかしくない?」
 と、葛西(かさい)の方へ訊く。
「大丈夫だ」
「それじゃ……」
 咳払いして、亜矢子は橋田と向き合った。
「その前からだ」
 と、正木が言った。「せかせかと木のかげに入って、思い切ってパッと──」
 言うは易しである。
「では、よろしく」
 と、亜矢子は橋田に言った。
「これからキスをしようというのに、『よろしく』はないだろ」
 と、橋田が言った。
「でも、代役ですから」
「いや、僕は君を恋人だと思ってるからね」
 橋田の表情がガラリと変った。亜矢子は、これが役者というものか、と感心した。
「よし、木かげに駆け込んでから抱き合うタイミングがある。一度だけテストしよう」
 と、正木が言った。
 何かに追われるように木かげに駆け込む二人。そして──今はキスしないで、抱き寄せられるだけだ。
 しかし、ギュッと抱きしめられて、亜矢子は男の力強さを感じた。これ以上強い力で抱きしめられたら、息ができなくなる。
「──うん、今のタイミングでいい」
 と、正木は(うなず)いて、カメラの市原へ、「いいな?」
「OKです」
「よし。──用意。スタート!」
 カチンコが鳴る。
 亜矢子は橋田に腕をつかまれ、木かげへと引きずるように連れて行かれる。
 危うく転んでしまうかと思うほどの勢いだった。カメラの方に顔をまともに向けるわけにいかないので、一瞬焦った。
 橋田の力に、振り回されそうだったのだ。
 立ち直る間もなく、抱きしめられ、キスされる。──亜矢子だって恋ぐらいしたことはある。
 でも、橋田のキスは、今まで亜矢子が経験したこともない、激しいキスだった。
 え? こんなにしなくたって──。
 ロングショットだ。しかも亜矢子の顔は見えていない。
 だが、それどころではなくなってしまった。
 息のできないほど抱きしめられ、本当に唇を「奪われる」と、亜矢子は何だか分らない熱い流れに投げ込まれたようになって、自分も橋田を抱きしめていた。
 いつまで? まだ続くの?
 長い時間のような気がした。もうこんなに……。
「カット!」
 正木の声が聞こえた。
 それでも、橋田は亜矢子を離さなかった。何秒間か、キスし続けていたのである。
 やっと、橋田の腕が緩んだ。
「OK! 良かった!」
 正木の声が、ずいぶん遠く聞こえた。
 亜矢子は喘ぐように息をして、
「橋田さん……」
 と、上ずった声で言った。
「すまん」
 と、橋田は言った。
「謝らないで下さい」
 小声で、亜矢子は言った。「こんなキス、初めて」
「いや、つい……」
 その先、何と言おうとしたのか。
 正木が、
「おい、亜矢子」
 と呼んだので、駆けつけなくてはならなかった。
「次のカットですか?」
「いや、今のでもういい」
 と、正木は言った。「市原も、日の当り方が変って来たと言ってる。今日はここまでにしよう」
「分りました」
 ともかく衣裳を脱がないと。行きかけた亜矢子へ、正木が言った。
「おい、今のは熱がこもってたな」
「はあ……。使えませんか?」
「いや、使わないでどうする! エンドクレジットに入れたいくらいだ。〈キスシーンの代役、()()亜矢子〉とな」
「からかわないで下さい」
 正木のことは相手にしないことにした。

 亜矢子が、三崎の入院している病院に向ったのは、もう暗くなってからだった。
 いかに元気なスクリプターでも、さすがにくたびれていて、バスに揺られながら、暗い外の風景へと目をやっていると、ウトウトしてしまう。
「あ……。大丈夫かな?」
 フッと気が付いて、乗り過していないことを確かめると、ホッとした。
「でも……何だったんだろう」
 と、つい呟いていた。
 今日の、あの橋田のキス。──亜矢子は別にキスについて詳しいわけではないが、あの烈しいキスには、ただの「演技」を超えた何かを感じないわけにいかなかった。
 考え過ぎか? でも、後で橋田が洩らした、
「すまん」
 というひと言。
 あそこには、逆に亜矢子をびっくりさせたこと以上の意味があった。
「まさかね……」
 つい、考えてしまうものの、即座に否定して、また「もしかしたら」と考える。
 橋田さんは私が好きなんだろうか?
 年齢からいえば、橋田はもう五十歳、亜矢子とは十八も違う。
 それでも、五十で恋をする人だって珍しくないだろう。ただ……私は?
 亜矢子としては、もし橋田が本気だったら、と考えること自体、「図々しい」話に思える。
「あ、次だ」
 亜矢子は我に返った。
 ともかく、いつになく亜矢子が動揺していたことは事実である。
 病院前でバスを降りると、欠伸(あくび)しながら夜間出入口へと向う。
 三崎の容態についての連絡はなかった。どうなっているのか……。
 病院の中へ入って、様子を訊こうと思ったが、救急の患者がいるらしく、看護師が忙しく駆け回っていて、声をかけられない。
 困っていると、
「亜矢子さん!」
 と呼ぶ声にびっくりした。
今日(きょう)()ちゃん! 何してるの?」
 (おち)(あい)今日子が廊下で手招きしていたのである。
「だって、心配だから来てみたの」
 と、今日子は言った。「それに、どうせ亜矢子さんが必ず来るって分ってたから」
「それで、三崎さんの容態は?」
 と、亜矢子が訊いた。
「今、手術中」
「え? そうなの?」
 手術室のあるフロアでエレベーターを降りて、亜矢子はびっくりした。
 今日子だけではなく、()(ばた)弥生(やよい)()()()もいる!
 しかも、(みず)(はら)アリサまでいたのである。
「──真愛さんは?」
 と、亜矢子が訊くと、
「あちらの奥のソファで」
 と、アリサが言った。
 見れば、少し照明が落ちている隅の方のソファに、真愛と、娘の(れい)()の姿があった。
「もう手術、五時間くらいかかってます」
 と、佳世子が言った。
「戸畑さん、大丈夫なんですか?」
 と、亜矢子が訊くと、
「ええ、それより、真愛さんが──」
「そこは何とかしますよ」
 と話している声を聞いた真愛が立ってやって来た。
「──亜矢子さん、すみません」
「いえ、大丈夫。撮影は順調にすみましたから」
 と、亜矢子は言った。「心配ですね。礼子ちゃんは大丈夫?」
「ええ、一人で帰らせるわけにもいかないので……。ただ、何も食べてないんです。私はいいんですけど、礼子には何か……」
「そうですよね。今日子ちゃん、礼子ちゃんと一緒に、何か食べるものを買って来て」
「うん、分った」
 礼子も、ここから長く離れていたくないだろう。とりあえずサンドイッチのようなものでもお腹に入れておけば……。
「私も行くわ」
 話を聞いていた佳世子もやって来て、今日子と礼子を連れて、近くのコンビニへと出かけて行った。
「──ずいぶん時間がかかってるんです」
 と、真愛は言った。「こちらは、もうただじっと待っていることしかできないので……」
「こんなに大勢の人が見守ってるんですもの」
 と、亜矢子が言うと、真愛はちょっと口もとに笑みを浮かべて、
「そうですね。──きっとあの人も頑張ってくれます」
 と、手術室の方へ目をやった。
 そして、亜矢子と一緒に長椅子にかけると、
「撮影、問題ありませんでした?」
 と訊いた。
「ええ。外見が、どうしても私じゃ似てないですけど、大丈夫、市原さんがうまいポジションで撮ってくれています」
「正木監督が本当に気をつかって下さって……。お返しには、一生懸命お芝居するしかないですね」
「それで……。ちょっと気になったことが」
「何ですか?」
「橋田さんとのキスシーン、アップで撮りましたよね」
「ええ、亜矢子さんも見てらしたでしょ?」
「見てました。それで、アップの前のロングショットを、私が代ってやったんですけど」
「ご苦労さまでした。うまく行ったんですよね?」
「ええ、確かに」
 と、亜矢子は肯いて、「で──変なこと訊きますけど、橋田さんのキスですが、どれくらいでした?」
「どれくらい、って……」
「つまり、熱烈なキスだったのかどうか……」
「ああ、そうですね。ほんのわずかの間しか二人になれないので、橋田さんはかなり力が入ってました。もちろん私も」
「そうでしょうね。でも……」
「気になることが?」
「ええ。私、スクリプターですから、人の演技をとやかくは言えないんですけど……」
 亜矢子は、橋田のキスが、想像もしていなかったほど熱烈だったことを話した。
「──それは大変だったわね」
 と、真愛は言った。
「いえ。別にいやだったわけじゃないんですよ」
 と、亜矢子は急いで言った。「ただ、スクリプターとして、ちゃんとつながるのか、気になって」
 本当はそれだけじゃないのだが、まさか、
「橋田さん、私のことが好きなんですかね?」
 と訊くわけにもいかない。
「問題があれば、監督が何かおっしゃるでしょう」
「ええ、そうですね。──でも、珍しい経験でした」
 と、亜矢子は言って、「あ、手術中の明りが消えましたよ」
「本当だわ」
 真愛は立ち上って、じっと手術室の扉を見つめていた……。

 23 影の中

「ご心配かけました」
 と、撮影所で、真愛はまず正木に礼を言った。
「やあ、手術はうまく行ったそうじゃないか」
「はい、おかげさまで」
「それは良かった」
 と、正木は言ったが、「ところで、今日のシーンだがね、セリフを少し削りたいところがある」
 もう頭の中は「撮影モード」に切り換っている。
「亜矢子さんにもお礼を──」
「うん? ああ、代役のことか。いいんだ。あいつは何でもやってみるって好奇心の持主だからな」
 亜矢子が近くにいて、ちゃんと聞いていると分って言っているのだ。
「真愛さん、セリフの直しです」
 と、亜矢子は、コピーを真愛へ渡した。
「何だ、手回しがいいな」
 と、正木が言った。
「好奇心旺盛なんで」
 と、分ったような分らないようなことを言って、「今日の場面に流す音楽ですが、何にします?」
「どうせ後から入れるんだ。考えとく」
 こういうことはしばしば忘れられる。──亜矢子はシナリオの隅にメモした。
「おはよう」
 橋田がスタジオに入って来た。
「昨日はどうも、お世話になりました」
 と、亜矢子はわざと冗談めかして言った。
「僕も楽しかったよ」
 と、橋田は気軽な口調で、「今度はいつ代役をやるんだい?」
「もうキスシーンはありませんよ」
「そうだな、残念だ」
 と、橋田は笑って言った。
 亜矢子には、その言い方に、どこか無理があると感じたが、考え過ぎと言われたら、そうかもしれない。
「橋田君」
 と、正木が手招きして、「今日のシーンの動きなんだが……」
 また一日が始まる、と亜矢子は思った。
 そう、正木の「用意、スタート!」と「カット!」のくり返しの中に、あの「謎のキス」も埋れていくのだろう……。

 昼食になって、亜矢子がケータイの電源を入れると、すぐに()()(くら)ひとみからかかって来た。
「どうしたの? 何かあった?」
 今、ひとみは(かのう)(れん)()(すけ)と二人で、行方の分らない落合()(さく)を捜している。
「誰だか分らない人から、私の部屋の留守電にかかって来たの」
 と、ひとみが言った。
「何か吹き込んであった?」
「うん。男の声でね、『これ以上捜すな』って。それだけ」
「どこからかけたか分らないのね?」
「公衆電話だった」
「その録音、消さないでね」
「もちろん。でも、喜作さんを捜すのって、手掛りもなしじゃ、大変よ」
「そりゃそうだね、荷物は?」
「私の所で預かってる。でも、今の居場所までは……」
「分ってる。もし連絡できる状況なら、今日子ちゃんにしてくると思うんだよね」
「今日子ちゃんは?」
「今日はどこかへ出かけると言ってた。帰りに撮影所に来ることになってるから、またゆっくり話してみるわ」
 亜矢子も、撮影が波に乗って、忙しくなって来ていた。
 夜、今日子とじっくり話す余裕がなくなりつつあったのだ。
 学校があるのに、家に帰ろうとしない今日子だが、喜作が姿を消してしまって、何といっても十六歳の女の子だ。一人で帰る気になれないのはよく分る。
 昼食をとっていると、当の今日子からかかって来た。
「──今日、帰りに待ち合せて」
 と頼まれて、
「いいわよ。ただ、何時にきっちり終るとは限らないけど」
「うん、分ってる」
「どこかで買物?」
 と訊くと、今日子は少し間を置いて、
「ちょっと会いたい人がいたの」
 と言った。
「誰のこと? おじいさんのことと、何か関係があるの?」
「もしかすると」
「それって、どういう意味?」
 今日子のどこか曖昧な言い方に、亜矢子はそう訊いたが、
「〈正木組〉お願いします!」
 という助監督の声が食堂に響いて、
「ごめん、今日子ちゃん、撮影が始まるから」
 と、亜矢子は言った。「じゃ、撮影所に来たら、どこかで待ってて」
「うん、分った」
 今日子の言い方は、どこかホッとしているようだった。
 亜矢子はともかく食べかけのランチを一気にかっ込んで、スタジオへと駆け出して行った……。

 その夜、撮影は予定より一時間以上長くかかった。
 順調にいかなかったわけではない。逆に、三崎の手術が成功して、安堵した真愛が一段と熱のこもった演技を見せて、正木も興奮気味。
 そのせいで、予定のカットを撮り終えたとき、
「この勢いだ! あと二、三カット撮るぞ!」
 と、正木が宣言したのである。
 気持が乗っているときに、どんどん撮りたい、その正木の気持は、亜矢子にもよく分った。
 一本の映画を撮っていると、ときどきこういう瞬間がやってくる。
 いつもセリフを憶えて来ない役者が奇跡のようにスラスラとセリフを言えたり、ロケ先で、パッと雨が上って、美しい夕景が撮れたり……。
 むろん、その逆に、一日かかってワンカットも撮れない日だってある。そのためにも、
「撮れるときに撮っておけば、遅れを取り戻せる」
 というわけだ。
「監督」
 と、こんなときでも、スクリプターは冷静でなくてはならない。「このシーンのセリフは、今朝の直しと矛盾してますから、直さないと」
 と、正木に注意する。
「おお、そうか。よし、今ここで直す!」
 正木が口立てでセリフを伝え、真愛も橋田もその場で憶える。二人の額にはうっすらと汗が浮んでいた。
「──よし、OK!」
 正木が丸めたシナリオでポンと膝を叩いた。
「おい、亜矢子、もうワンカット、撮れないか?」
「無理です」
 なぜなら、次のカットに出演しなければならない役者が、今日は来ていないのだから。
 さすがに正木も納得したようで、
「よし、今日はここまで!」
 こういうとき、スタッフは文句を言わない。ドラマの中の人物と一体化して、結構熱くなるのだ。いや、正木組だからこそ、とも言える。
「──おい、亜矢子」
 と、正木がスタジオを出て、「〈坂道の女〉はいい映画になるぞ」
「今さら何ですか?」
 と、亜矢子は苦笑して、「私なんか、初めから分ってましたよ」
 ()め方にも工夫がいる。
 自信たっぷりに見えて、その実、監督は誰かに賞めてもらいたいのだ。
「そうか。──うん」
 と、正木は肯いて、「これは俺の最高傑作になるかもしれんな」
 いつまでも相手はしていられない。
 もちろん、外はもう真暗だが、スタジオの近くに今日子の姿はなかった。
 亜矢子はケータイの電源を入れて、今日子へかけた。
「──あ、今日子ちゃん? ごめんね、遅くなっちゃって。今、どこにいるの?」
「──スタジオ」
 と、今日子が言った。
「え? スタジオの中にいた?」
「別のスタジオ」
「別の?」
「使ってないスタジオ。〈3〉って番号が」
「〈3〉ね? 分った。すぐ行くわ」
 どうしてわざわざ使っていないスタジオに?
 首をかしげたが、ともかく行った方が早い。
〈3〉のスタジオのドアが細く開いている。
「──今日子ちゃん?」
 と、中へ入ると、照明が消えているので、ほぼ真暗だ。
〈非常口〉の表示だけが、闇の中にポッと浮かび上がっている。そして──。
「亜矢子さん……」
 その〈非常口〉の明りの下に、ぼんやりと今日子の姿が見えた。
「今日子ちゃん──」
 と、歩き出そうとすると、
「来るな!」
 と、男の声がして、亜矢子はびっくりして足を止めた。
「誰?」
 今日子のそばに、大人の男の姿が、うっすらと見えている。
「今日子ちゃん、大丈夫?」
「うん」
「誰ですか? 今日子ちゃんに何かしようとしたら、私が許しませんよ!」
 と、にらみつけると、
「勇ましい女だな」
 と、その男が言った。
「誰なの? どうしてここに?」
 男は答えなかった。
 代って今日子が言った。
「亜矢子さん……。この人、私のお父さん」
 亜矢子は立ちすくんだ。

 (つづく)

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