〈6月22日〉 榎本憲男

文字数 1,221文字

きぼうのうた


 シュージがリクを殴って、あいつが叩くのならもう俺は歌わない、とリクが言った。せめて最後にライブをやろうぜ、と俺はふたりを説得しにかかったが、こんどは世の中が妙なことになってしまった。なし崩し的に解散かなと思っていたら、不思議な仕事が舞い込んだ。

 ドラムだと苦情が出かねないからさ、カホンとシンバルでやらせて欲しいんだ。シュージが電話してきた。いいよ、と俺は言った。似たようなことは、曲を書く前に、リクからも言われたよ。夜中に録音するから、シャウトしなきゃなんないような曲は書かないでくれって。シュージはふんと鼻を鳴らしただけだった。
 次の朝起きたら、もうクラウドに上がっていた。夕方にはイトちゃんがベースのトラックをアップした。それを聴いた俺はテレキャスターに手を伸ばす。それから、ミックスしたオケをアップして、できてるぞ、とリクにLINE。明け方に電話が鳴った。あのさあ、この「明日はきっと」ってとこ、「明日はたぶん」のほうが歌いやすいんだけど。リクは言った。じゃあ、それでいいよ。とにかく希望を持てるようなものならなんでもいいんだそうだ。へえ、誰がそう言ったんだ? 誰だったかな、とにかくネットの会社の人だよ。
 昼頃に起きて、トーストを齧りながら、ALEXAでリクのボーカルを聴いた。コーヒーを淹れ、パソコンの前に移動して、歌とオケを合わせた。これをクラウドのフォルダーに放り込み、みんな3日以内に映像をくれよ、とLINEのグループアカウントにメッセージを残した。
 やることがないからだろう、翌日には、オケに合わせて弾いたり、叩いたり、歌ったりしている映像ファイルがフォルダーに収まっていた。俺もこうしちゃいられないと、音に合わせて手を動かし、カメラに収まった。
 いつもビデオを作ってくれてる高橋さんが編集して、次の日には完パケがYouTubeに上がっていた。四分割された画面の中の俺たちは、それぞれの自宅で、ひとつの曲を奏でているように見え、バラバラの場所でもちゃんとつながれるぞ、なんて幻想をばらまいていた。一月後、ギャラはちゃんと振り込まれていたけれど、まだ解散ライブの目処は立ってない。




榎本憲男(えのもと・のりお)
1959年和歌山県生まれ。西武セゾングループの文化事業部、東京テアトルにて映画事業に携わり、劇場支配人、番組編成担当、プロデューサー等を務める。2011年、映画監督デビュー作『見えないほどの遠くの空を』公開とともに、同作の小説を執筆。’16年『エアー2・0』が大藪春彦賞候補に。他の著書に『巡査長 真行寺弘道』、同シリーズで『ブルーロータス』『ワルキューレ』『エージェント』がある。

【近著】

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