その恋、叶えたいなら「野性」に学べ! 『パンダより恋が苦手な私たち』試し読み⑤
文字数 8,752文字
イケメン変人動物学者とへっぽこ編集者コンビでおくる、笑って泣けるラブコメディー「パンダより恋が苦手な私たち」がいよいよ6月23日発売されます! その刊行を記念して、試し読みを大公開!
今日は「第1話 失恋にはペンギンが何羽必要ですか? ④」をお届けします!
第1話 失恋にはペンギンが何羽必要ですか? ④
三十分ほどで大学に着く。校門の近くにあった校内マップを確認して、研究室のある建物を探す。アポイントを入れてくれた女性に教えてもらった場所は、B棟の二階……あれ?
電車の中で検索した。北陵大学は文系と理系の両方の学部がある総合大学だ。社会行動学はてっきり文系の学部だと思っていたけれど、B棟は生物学部になっている。
とりあえず、行ってみるしかない。
生物学部は隔離でもされているようにキャンパスの奥まった場所にあった。
正門近くにある煉瓦造りのオシャレな建物とはまるで違う、古い病院のような校舎。周囲を背の高いカエデの木に囲まれ、忘れ去られた古城のような雰囲気さえ漂っている。
校舎の中は味気ないながらも整頓されていて、大学というよりも中学校の廊下のような感じだった。椎堂准教授の部屋を探していると、後ろから声をかけられる。
「あ、もしかして、椎堂先生の話が聞きたいっていう記者さんですかぁ?」
少し語尾が間延びした特徴的な声。電話口で対応してくれた女性だった。
振り向くと、白衣に丸眼鏡の研究者風の女性が立っていた。
白衣の下はカンガルーのイラストと「首都はキャンベラ」という文字がプリントされた長袖シャツで、色あせたデニムにインしている。薄いメイクにバランスの悪いお団子ヘア。綺麗な顔立ちをしているけれど、服が決定的にダサい。大学の研究者はこんな感じなんだろうか。
「月の葉書房、リクラ編集部の柴田一葉です。宜しくお願いします」
「助手一年目の村上野乃花です。名刺はないですー。あ、それ、先生への手土産ですよね。先生、甘いものが苦手なので私がもらっておきますねー」
慣れた手つきでフィナンシェが奪われた。これ、いつもやってるな。
「『リクラ』の方でしたか、私も読んでますよ。ペットの記事もたまに載ってますよねぇ。先生に取材ってことは、デグーの記事ですかぁ?」
名刺を眺めながら聞いてくる。雑誌を知ってるのは嬉しいけど、最後の質問の意味がわからなかった。
「デグーってなんですか?」
「ネズミですよぉ。椎堂先生は、デグーの社会構造の研究をしてるので。今、ペットとしても人気がありますから、てっきりその関係で取材に来られたのかと。違いました?」
「今日、私が取材したいのは恋愛についてなんですけど」
「デグーの恋愛ですかぁ」
「まさか。ネズミが恋なんてするわけないですよね。聞きたいのは、人間の恋愛についてです」
冗談だと思って笑うけど、村上助手は変なことを聞いたように首を傾げる。ネズミも、恋をするのだろうか。
「先生は恋愛のスペシャリストと聞きましたので、そのあたりのお話を聞かせてもらえればと」
「まぁ、スペシャリストといえばスペシャリストですけど、なにか勘違いをしているような」
「どういう意味ですか?」
「あーと、先生の部屋、そこです。会えばわかりますよぉ」
急に面倒くさくなったように、斜め前のドアを指さす。そこには、椎堂司というネームプレートがあった。それに並んで「求愛ビデオ鑑賞中につきお静かに」と書かれたボードがぶら下がっている。
……求愛ビデオ? エロいやつじゃないよね。
私が固まっているあいだに、村上助手は乱暴にドアをノックする。
「椎堂先生、お客さんですよ」
返事の代わりに、唸り声が聞こえてきた。
猫や犬とは違う。動物園でしか聞かないような、低く喉を鳴らすような獣の声。なにがいるんだ、いったい。
「はい、これは聞こえてませんね。勝手に入りまーす」
村上助手は私に向けて説明するように言うと、ドアを開く。室内は、想像したよりもずっと密度の濃い空間が広がっていた。
両側の壁にびっしりと並べられた背の高い本棚。すべての棚に分厚い本が詰まっている。真ん中にはソファが置かれていて村上助手が勧めてくれるけど、両サイドの圧迫感が強すぎてとてもくつろげそうにない。
奥の壁には小さめの窓が一つ。その下にデスクがあり、大型のモニターが置かれている。こちらに背を向け、男性が一人、画面に見入っていた。
村上助手のような白衣じゃない。淡いブルーのシャツにグレンチェックのジレ、上品なグレーのパンツ、使い込まれた革靴、靴下にもジレに合わせたチェックがあり自然にまとまっている。後ろ姿からでも十分にわかるハイセンスな着こなしだ。
さっき、大学の研究者の服装にレッテルを貼ろうとしたことを後悔する。このままファッション誌に登場できそうなほどオシャレじゃないか。
肩越しに、モニターが見える。
そこでは、真っ白いヒョウが喧嘩していた。
ちらほらと雪が張りついている急斜面の岩場。二匹のヒョウが、お互いの顔を睨みつけたまま向かい合っている。風が強いのか、マイクに当たる風の音がバックミュージックのように流れていた。
「なにを、見てるんですか?」
椎堂先生は集中しているようだったので、村上助手に声を潜めて尋ねる。
「たぶん、ユキヒョウのオスがユキヒョウのメスに求愛しているところですね」
「求愛……もしかして、椎堂先生の専門って、人間じゃないんですか?」
「やっぱり勘違いしてましたか。うちの教授が、社会行動学なんて言葉作っちゃったんでわかりにくいんですよねぇ。正しくは、動物行動学です。動物の社会性にスポットをあてた研究を長らくしているので、名前を少し変えてるんですよ」
なんてことだ……すっかり勘違いしていた。
恋愛コラムのヒントになるかもと期待してやってきたのに。しばらくなにも考える気にもなれず、目の前を流れる映像を眺め続けた。
画面の中では、二匹のユキヒョウがくっついたり離れたりを繰り返している。体の大きさはそんなに変わらない。だけど、どちらがオスかはすぐにわかった。
一匹が、もう一匹の首を丹念に舐めている。気難しいお嬢様に傅く下男のようだ。きっと、彼がオスだ。メスはそれを振り払うように立ち上がると、さっき聞いた喉を鳴らすような唸り声を上げる。
「ユキヒョウの生息地は、チベットやネパールの高山です。生息数が少ないうえに、群れをつくらずに暮らしているのでなかなか見つけられない。ひと昔前まではちゃんと姿を捉えた映像も少なくて、幻の動物と言われてたんですよぉ」
「綺麗、ですね。それに、モフモフで可愛いです」
「そのモフモフを目当てに乱獲されて数が減ったんです。あなたのような人たちのせいで」
急に人類代表として責められた。納得いかない。
「動物の研究やってると、本当に人間が嫌になります。幻の動物にしたのは、人間なんですよね。そう考えると、この映像が、すごい貴重なものだってわかりますか?」
村上助手の言葉が、雪のように二匹が絡み合う映像に降り注ぐ。
気がつくと、目の前で繰り広げられる光景に見入っていた。
オスはあの手この手でメスの気を引こうとする。尻尾を乱暴に押さえたかと思うと、優しく耳を舐める。前足で背中を撫でたかと思うと、いきなり跳びかかって首に嚙みつこうとする。
メスは、唸ったり牙を見せたりしてオスを追い払う。最初は嫌がっているように見えた。けれど、完全に逃げ出そうとはしない。少し離れてはオスが追ってくるのを待つ。たまに、自分から体を寄せてみたりする。
それは、駆け引きだった。
求愛と聞かなければ、喧嘩をしていると思っただろう。だれど、その一言を聞けば、もう恋の駆け引きをしているようにしか見えない。
「ユキヒョウの求愛は複雑です。ああやって、オスは色んな方法でアピールを繰り返すんです。アピールの中で、自分がどれだけ優れているかを見せつける。メスは自分が育てる子の親となるのにふさわしいかを見極める。気まぐれに甘えたり怒ったりしてるように見えるかもしれないですけど、すべての行動に、意味があるんです」
岩を上り下りしながら繰り返される、ユキヒョウのダンス。だんだん、メスの嫌がる素振りをする頻度が減ってきて、甘えるような仕草が目立ってくる。けれど、オスが少しでも焦って跳びかかろうとすると、ぶるりと体を震わせて拒絶する。
それは、言葉を使わない美しいコミュニケーションだった。
人間は、あんな風に想いを語れるだろうか。言葉に頼らず、純粋に心をぶつけ合うことができるだろうか。
やがて、メスがオスにお尻を向けるようにして座り込む。受け入れる気持ちになったという合図らしい。オスがゆっくりと後ろからメスに覆いかぶさる。
そこで、二匹はピタリと動きを止めた。
静止ボタンが押されたらしい。モニターから流れていた風の音が止んで、急に辺りが静かになる。そのせいで、今まで聞こえなかった音が聞こえてきた。
ずっと背を向けていた男性が、鼻をすすっていた。
「ブラボー! ブラーボゥ!」
椎堂准教授は急に立ち上がると、力いっぱいの拍手をする。一流のオーケストラの演奏を聞いた後のようなスタンディングオベーションだった。
すぐにメールソフトを開いてタイプを始める。書いているのは英文だけど、感極まったように文章が日本語で口に出ていた。
「ジェイムズ、非常に素晴らしい映像を送ってくれた! 君は、天才だ。いま、俺が追っているツキノワグマの撮影が成功したら、まっさきに君に見てもらおう!」
タン、と送信ボタンを押す。それから、ポケットからハンカチを取り出して涙を拭い始める。
「先生、そろそろいいですかぁ?」
村上さんが声を掛けると、やっと気づいたように私たちの方を振り向く。
途中から、予感がしていた。
そんなこと期待していなかった。ただ恋愛コラムのヒントを聞ければよかった。動物の求愛行動を見てスタンディングオベーションをしている姿を見た後だと、なおさらいらない。
「村上君、いつからそこに?」
ちくしょう、やっぱりイケメンだ!
心の中で足を踏み鳴らす。
真っ直ぐ通った鼻にシャープな顎、綺麗な流線形の目に長い睫毛、銀縁の眼鏡がさらに知的な雰囲気を与えている。女性向けスマホゲームに登場しそうな、完璧なイケメンだった。
「ちゃんとノックしましたよぉ。こちら、先生にお客様です。朝、取材の申し込みがあったって話しましたよね。覚えてます?」
「あぁ……デグーの。覚えている」
椎堂先生は、さっきまでとは別人のように、露骨に面倒そうな様子で私に顔を向ける。
冷蔵庫の中で傷みかかってしわしわになった野菜を見つけたような冷めた視線。声の張りも急になくなって、わざとやってるのかと疑いたくなるくらい気怠さが滲んでいた。
「月の葉書房の柴田一葉です。お時間をとっていただいてありがとうございます」
「どうも、椎堂です。大学側からメディアの取材は受けるようにお達しがきているので、ただのポイント稼ぎで引き受けただけです。礼をいわれることじゃない。とはいっても、無駄なことに時間を割かれるのは嫌いなので、手短にお願いします」
私史上、いちばん最低な名刺交換だった。
「お忙しいんですね、わかりました。手短に──」
「忙しいのではありません。無駄な時間が嫌いなんです。わざと解釈をズラさないでください、不快です」
すみません、と謝りながらも、心の奥では爆発しそうなくらいイライラが膨らむ。
イケメンに生まれたら周りからチヤホヤされて、こんな風に自分中心になるんだろうか。
そんなことを考えていると、村上助手が横から慣れた様子で解説してくれる。
「柴田さん、気にしちゃだめですよ。椎堂先生は人と関わるのが嫌いなんで、誰にでもこの調子なんですよ。というか、動物の求愛行動と関係ないことで誰かと関わるのが嫌いと言うべきか」
そういうのは、部屋に入る前に教えて欲しかった。
「これは提案だが、質問の要点だけメールかなにかで送っていただければ、後で回答しておきますよ。お互いにその方が時間を節約できますから」
先生は、話すのも面倒そうな口ぶりになる。目の前にいるのにメールって、邪魔者扱いにもほどがある。
「せっかくここまで来たので、今回はこのままお話を聞かせてください」
「せっかく来たのは、そちらの勝手な都合だ。そもそも、デグーの話なら俺よりも教授に聞けばいい。俺は教授の研究を手伝ってるだけだ」
もう敬語ですらなくなった。一方的に距離を詰めるの早すぎだろ。
「あの──それなのですが、お話を聞きたかったのはデグーではないんです」
訂正しようとすると、村上助手が思い出したように補足してくれる。
「そうそう、そうでした。デグーのインタビューっていうのは私の勘違いでした。求愛行動についてお話を聞きたいそうですよぉ」
「……求愛行動の、取材?」
さっきまで気怠そうだった視線が急に鋭くなり、睨みつけるようになる。
なにか、気に障ることでも言っただろうか。
「えっと、恋愛の研究をされていると聞きました。その研究について、お話を聞かせていただきたくてきたんです」
ばん、と椎堂先生が机を叩いて立ち上がる。
条件反射で体がびくっとなる。やっぱり地雷を踏んだのかもしれない。
「どうして、それを先に言わないっ! 大歓迎だっ!」
感動したように両手を広げる。地雷じゃなかった。
「ついに、ついにか。俺のやりたかった研究が日の目をみるときがきたのか! 教授に認めてもらえず、講義開講の申請も毎年落ち続けていたが……ついに!」
「あ、あの、ご迷惑でしたらやっぱりメールで質問しましょうか?」
「なにを言ってる! せっかくここまで来たのだろう。求愛行動についてであればなんでも質問してくれ! 時間は惜しまない!」
危険を感じてちょっと引いてみたけど、瞬時に詰められる。
先生の目には、さっきまでの気怠そうな様子はどこにもなかった。それどころか、少女漫画の主人公のように煌めいている。均整のとれた顔に浮かぶ情熱、声はユキヒョウの動画を見た後と同じ張りのあるバリトンに変わった。さっきまでのイライラとは別腹で、思わずドキリとしてしまう。イケメンってずりぃ。
「取材の前に誤解がないように言っておこう! 俺の研究は求愛行動についてだ。交尾ではなく、そこに至るまでの過程にこそ、動物が生存競争を勝ち抜くための知恵が詰まっている。どうした? 話が急展開すぎて理解ができない、という顔をしているな」
「……急展開なのは、話の内容じゃないんですけど」
「イントロダクションとして、君の身近にいる動物について話でもしようか。その方が、理解しやすいだろう? 君の身近にいる動物を教えてくれ。ペットを飼っていたりしないか?」
「あーと、今は、レオパを飼っています」
レオパは、レオパードゲッコー、日本語だとヒョウモントカゲモドキという名前でペットとして人気の爬虫類だ。トカゲではないのだけど、見た目は手のひらサイズのちょっと大きめのトカゲ。爬虫類を飼っているというと引く人はいるけど、目の前の先生にはそんな心配はなかった。
「素晴らしい! レオパの求愛には、体を押しつけたり甘嚙みをしたりと様々な行動がみられるが──多くの場合は、オスが尻尾を震わせるところから始まる。メスにその気があるのなら、尻尾を持ち上げるなどのリアクションが返ってくる」
「へぇ。尻尾で求愛行動をするんですか」
飼っているレオパが尻尾を震わせているところを想像する。
「なんというか──省エネですね」
「一説では、彼らは外見ではオスメスの区別ができず、尻尾の動きでオスかメスかを判断するといわれている。決まった合図を送り合い、恋愛対象となる性別か確かめ合うそうだ」
「え? 性別がわからないんですか?」
「そうだ。だからこそ、効率的に恋ができるように種として合図を決めているわけだ。驚くべき合理性だろう!」
「驚いたポイントはそこじゃないですけどね」
「求愛行動は、動物によって多種多様だ。駆け引きの道具になにを使うのか。鳴き声か、雄々しい角か、七色に輝く翼か。オスはどうやってメスの気を引き、メスはなぜオスを受け入れるのか。その営みの中には、まさに生命の美しさが凝縮している! だからこそ俺は、求愛行動に惹かれるのだ!」
さらにテンションがあがったようで、TEDのように身振り手振りを交えた説明になっている。これがさっき言ってた、本当にやりたい研究なのだろう。
聞きやすいバリトンの声、巧みな会話運び。講義をすれば、夢中になる学生は大勢いるんじゃないかと思うけれど──大学からは、なかなか認められないらしい。
「あの、人間の恋愛は、研究してないんですか?」
思い切って、聞いてみた。
「……なんだと?」
先生は水を差されたように、露骨に顔を顰める。
「実は、今回、取材をしたかったのは動物の求愛行動ではなくてですね──」
思い切って、今日、ここに来た理由を話す。恋愛コラムのネタを探していたこと、知り合いに恋愛のスペシャリストがいると教えてもらったこと、椎堂先生が人間の恋愛を研究していると勘違いしていたこと。
話を聞いているうちに、椎堂先生からはさっきまでの熱が急速に失われていった。
「なんだ、それは。とんだ時間の無駄だったな」
激込みのスタバで店員さんにウザ絡みする客でも見かけたように不愉快そうな視線を向ける。
「人間の恋愛も行動学に含まれるものだが、俺は、そこに生命の美しさを見ることができない。つまり、興味がない。悪いが、そういう話なら他を当たってくれ」
「柴田さん、どうします? 取材はキャンセルってことでいいですか?」
村上助手が口をもぐもぐしながら聞いてくる。いつの間にかフィナンシェの包装が開いていた。
彼女の言う通りだ。せっかく来たけど、コラムの参考にはなりそうにない。これ以上、話を聞いても何のヒントも得られそうにない。
ユキヒョウたちの唸り声が、耳の奥に響く。
ほんの一瞬、幻覚が見えた。画面から飛び出したユキヒョウが、私の足元に絡みつく。顔を近づけたり、体を擦りつけたり、なにかを伝えるようにすり寄ってくる。
そのせいで、思いもよらない気持ちが浮かんできた。
白い獣たちの美しいコミュニケーションは、確かに綺麗だった。
私たちが失くしてしまったもののような気がした。
もう少しだけ動物たちの求愛行動について聞いてみたい。胸の奥から、子供のように無邪気な好奇心が顔を覗かせる。
それに、予感のようなものがあった。もう少し、この人の話を聞いておいた方がいい気がする。
「人間が対象外なのは、わかりました。でもせっかくなので、動物の求愛行動について教えていただけませんか? なにかのヒントになるかもしれないので」
それを聞いた途端、先生の瞳に光が戻った。
外国暮らしの人が久しぶりに母国語の通じる相手と出会ったように、まだまだ話をしたくて仕方がないという様子だった。
「動物の求愛行動なら、いくらでも話をしよう。自分が研究していることについて語るのは研究者の義務でもあるからな。それで、なにが聞きたい? なにから話せばいい?」
「素人なので、本当に入門からお願いします」
「ではまず、求愛行動とはいったいなにか、ということから話そう。なにをしている、村上君。コーヒーを淹れてくれ」
村上助手が、あなたも物好きね、と言いたげに目くばせしてから、手早くインスタントコーヒーを作ってくれる。それから、これ以上は付き合っていられないとフィナンシェを箱ごと持って部屋から出ていった。
「それでは──野生の恋について、話をしようか」
言いながら、眼鏡の縁に触れる。
その瞬間、先生の中で、バチンとスイッチを押したように何かが切り替わるのがわかった。
6月20日公開「第1話 失恋にはペンギンが何羽必要ですか? ⑤」へ続く!
今泉忠明氏(動物学者 「ざんねんないきもの事典シリーズ(高橋書店)」監修)、推薦!
ヒトよ、何を迷っているんだ?
サルもパンダもパートナー探しは必死、それこそ種の存続をかけた一大イベント。最も進化した動物の「ヒト」だって、もっと本能に忠実に、もっと自分に素直にしたっていいんだよ。
あらすじ
中堅出版社「月の葉書房」の『リクラ』編集部で働く柴田一葉。夢もなければ恋も仕事も超低空飛行な毎日を過ごす中、憧れのモデル・灰沢アリアの恋愛相談コラムを立ち上げるチャンスが舞い込んできた。期待に胸を膨らませる一葉だったが、女王様気質のアリアの言いなりで、自分でコラムを執筆することに……。頭を抱えた一葉は「恋愛」を研究しているという准教授・椎堂司の噂を聞き付け助けを求めるが、椎堂は「動物」の恋愛を専門とするとんでもない変人だった! 「それでは――野生の恋について、話をしようか」恋に仕事に八方ふさがり、一葉の運命を変える講義が今、始まる!瀬那和章(せな・かずあき)
兵庫県生まれ。2007年に第14回電撃小説大賞銀賞を受賞し、『under 異界ノスタルジア』でデビュー。繊細で瑞々しい文章、魅力的な人物造形、爽快な読後感で大評判の注目作家。他の著作に『好きと嫌いのあいだにシャンプーを置く』『雪には雪のなりたい白さがある』『フルーツパーラーにはない果物』『今日も君は、約束の旅に出る』『わたしたち、何者にもなれなかった』『父親を名乗るおっさん2人と私が暮らした3ヶ月について』などがある。