大坂冬の陣 完全ガイド①

文字数 1,879文字

日本の歴史に残る有名な合戦を活写&深堀りして大好評の矢野隆さんの「戦百景」シリーズ

第7弾は、戦国時代の終焉を飾る大合戦を描いた『戦百景 大坂冬の陣』です!


「戦百景」シリーズとは…

第1弾『戦百景 長篠の戦い』は「細谷正充賞」を受賞!

第2弾『戦百景 桶狭間の戦い』

第3弾『関ヶ原の戦い』

第4弾『川中島の戦い』

第5弾『本能寺の変』

第6弾『山崎の戦い』

と、有名な合戦を深堀りしてリアルタイムで描く、矢野隆さんの人気シリーズ!

刊行を記念して、矢野隆さんにコメントをいただきました!


これから順次記事をあげていきますので、お楽しみに!

『誰のための戦なのか?』/矢野隆


 まったくの私見であることを断わっておいて、言わせてもらう。


 戦国時代は関ヶ原の戦から家康の将軍宣下と秀忠の将軍位の継承という流れによって、終焉を迎えたと私は思っている。理由は明快で、関ヶ原の戦以降、日本全土の大名たちが私欲によって干戈を交えることが無くなったからである。厳密にいえば、秀吉による惣無事令から東北仕置きまでの流れによって、大名同士の私戦は絶えているので、戦国時代は秀吉の元で終焉をむかえたという見方もあろう。


 だが私は、秀吉政権には家康という懸念材料があったことを無視できない。実際に秀吉はその死の間際に際して、家康を危ぶみ、秀頼の行く末を哀れなほど無様に頼んでいる。家康という天下を脅かす存在がいた時点で、豊臣政権はまだ戦国乱世に逆戻りする危険性を孕んでいたのである。


 しかし関ヶ原にて家康が勝利し、その二年後にみずから征夷大将軍となり、わずかな任期の後に息子、秀忠に将軍位を譲るという流れにおいて、天下は徳川の元に治まったといえよう。


 そう語れば、秀吉存命の頃の家康のように、徳川政権には秀頼とその母、淀の方が統べる豊臣家がいるではないかと返されるかもしれない。


 だが、もはや豊臣家には徳川幕府に抗えるだけの力はなかった。豊臣政権にあって家康は二百万石を越える群を抜いた所領を有していた。それに対し、豊臣家は畿内三ヶ国を領することを許されたのみである。恩顧の大名たちもすでに徳川に懐柔され、豊臣家のために死のうという者は皆無であった。


 天下は治まっていたのである。

 ならば何故、大坂の陣は起こったのか?

 冬、夏と二度にわたって、豊臣家を滅ぼすためだけに戦は行われた。


 いったい誰のために?

 いったい何のために?


 私は本作で、この問いに向き合った。


 今作は“冬の陣”だ。

 もちろんこの先も……。

 この国の侍たちの戦の終焉を、皆様にも見届けていただきたい。


戦国時代の終焉を飾る大合戦。

徳川vs豊臣、そして真田信繁、伊達政宗、上杉景勝、松平忠直らの戦場内外での陰謀や思惑を深掘り!

慶長16年(1611年)。関ヶ原の戦いから11年が経っていた。徳川家康は、後水尾天皇即位を口実に孫婿でもある豊臣秀頼を上洛させ二条城での会見を果たす。70歳になった家康は、19歳の秀頼に我が身の老いを思い知らされ、また世継ぎで二代将軍の秀忠との器を比較して心の闇に囚われてしまう。なんとしても豊臣家を滅ぼさねば。このときすでに、真の意味での大坂の陣ははじまっていたのだ。そして3年後の慶長19年(1614年)、豊臣家が家康を呪ったとされる「方広寺鍾銘事件」が起こる。なんとか東西の手切れを食い止めようとした、秀頼の傅役・片桐且元の奔走も空しく、徳川と豊臣の両勢力は戦への道を突き進んでいった。豊臣恩顧の武将たちも代替わりし、浅野や蜂須賀など豊臣のもとに参じる武将は皆無。他方、大坂城内は関ヶ原で敗れた西軍くずれの牢人たちで溢れていた。その中には真田信繁や後藤又兵衛の顔もあった。かくして天下の決着をつける大戦の火蓋は切られた……。

矢野隆(やの・たかし)

1976年福岡県生まれ。2008年『蛇衆』で第21回小説すばる新人賞を受賞。その後、『無頼無頼!』『兇』『勝負!』など、ニューウェーブ時代小説と呼ばれる作品を手がける。また、『戦国BASARA3 伊達政宗の章』『NARUTO-ナルト‐シカマル新伝』といった、ゲームやコミックのノベライズ作品も執筆して注目される。また2021年から始まった「戦百景」シリーズ(本書を含む)は、第4回細谷正充賞を受賞するなど高い評価を得ている。他の著書に『清正を破った男』『生きる故』『我が名は秀秋』『戦始末』『鬼神』『山よ奔れ』『大ぼら吹きの城』『朝嵐』『至誠の残滓』『源匣記 獲生伝』『とんちき 耕書堂青春譜』『さみだれ』『戦神の裔』『琉球建国記』などがある。

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