『心臓抜き』ボリス・ヴィアン/「鳥籠の中で」岩倉文也

文字数 2,159文字

本を読むことは旅することに似ています。

この「読書標識」は旅するアナタを迷わせないためにある書評です。

今回は詩人の岩倉文也さんが、ボリス・ヴィアン『心臓抜き』について語ってくれました。

全てのものは仮初めであるという意識が絶えずぼくを脅かす。


小学生の頃、ぼくには仲のいい友達がいた。学校が終われば毎日かれの家に遊びに行き、飼われていたウサギに餌をやったり、漫画雑誌の回し読みをしたりした。親同士の仲もよく、夏休みなどにはお互いの家族同士で一緒に遊園地に行ったりもした。


だけどある日、なんの理由もなく、ぼくはかれに対する興味の一切を失った。一切の友情をかれに感じなくなった。いま思い返してみても不思議である。


それ以降ぼくはかれに素気無い態度を取るようになり、ほとんど会話もしなくなった。その時のかれの困惑を想像すると、ひどく気の毒なことをしてしまったと思う。


そんなことがぼくの人生では度々起こる。


ぼくにとって、極度の熱中と極度の無関心とは同じものなのだ。


だからぼくは、あるひとつの物事に興味を集中させることをしなくなった。あるいは何かに熱中していても「この興味が持続するのもせいぜい半年だろう」などと考えてしまう。そして実際その通りになるのである。


だが『心臓抜き』の主人公ジャックモールは、そんなぼくとは比べ物にならないほどの虚無を抱えていた。なにせかれには欲望というものが全くないのである。ジャックモールの身分証明書にはただ《精神科医。空(から)。満たすべし》とだけ書かれており、さらにそれによるとかれは一年前、大人のままの姿で生まれてきたという。

「わたしは空(から)なんです。身ぶり、反射、習慣などしかありません。わたしは自分を満たしたいんです」


「種々の情熱が存在することを知りながら、それを感じないのは恐ろしいことですよ」

だからこそかれは、精神科医としてひとつの村を訪れた。人びとの心を、その奥の奥まで分析し尽くして、相手の欲望を己のものとするために。


しかしそれもなかなか上手くはいかない。かれが訪れた村というのが、不可思議な習俗と血なまぐさい暴力にいろどられた、さながらボドロフスキー映画の舞台のような場所だったからだ。


老人市、見かけるたびに子供を殴る大人、動物への拷問、村中の恥を一身に引き受ける男など、言葉にするだけでも異様な村人たちの行動に、ジャックモールはたじたじになる。


ジャックモールとは完全な大人であると同時に、この世界に生まれたばかりの無垢な子供でもあるのだ。この歪さ、ちぐはぐさは物語の最後まで一貫している。何ももたない、透明に近いかれの存在は、村での生活をつづけるうちに表面上は奇妙な習俗に染まっていく。しかしかれは村の住民が見向きもしない自然や、空飛ぶ鳥などにどうしようもなく心惹かれてしまう。


そうしたジャックモールが不完全な無垢を体現する存在であるとすれば、完全な無垢を体現しているのはかれの滞在先の一家で生まれたジョン、ノエル、シトロエンという三つ児たちだ。


母親のクレマンチーヌは最初この子供たちを毛嫌いしていたものの、やがてかれらを保護し、危険から遠ざけることに熱中するようになる。村からは隔離された断崖の家で、子供たちは外の世界を知らぬまま、病的なまでに過保護な母親のもとで成長していく。

 「でも死んでしまいますよ、鳥は、鳥籠のなかでは」

あまりにもエスカレートしていく過保護ぶりを見かねてのジャックモールのこの言葉は、本書の主題をひとことで要約している。家という鳥籠、習慣という鳥籠、村という鳥籠、愛情という鳥籠。他の何に置き換えてもいい。この世界に存在する無数の鳥籠の中で、無垢なるものは日々損なわれ、その命を失っていく。あるいは無垢ならざる何かへと、ことによってはその全くの対蹠物へと、無残にも変えられてしまう。そしてそれを避ける手立ては、どこにもないのである。


本書が提示する結論は暗澹たるものだ。


しかし読後、ぼくの心は不思議な静寂に満たされていた。何か腑に落ちる、という感じがしたのだ。この村はきっと、もう何人もの空虚な存在をのみ込んできたであろうし、数えきれぬほどの子供たちを、鳥籠の中に閉じ込めてきた。そのゆるやかな円環が、一見残酷な不条理にあふれた村の世界を、どこかで救っている。

背後で、たぶん空気の流れに押されたのだろう、格子の門が重い音をたててしまった。風が格子のあいだを吹き抜けていた。

読者が去った後も、あらゆる束縛を逃れて風は村に吹きつづける。そのことにわずかな希望を見出してしまうのは、ぼくのセンチメントに過ぎぬのだろうか。

『心臓抜き』ボリス・ヴィアン/滝田文彦 訳(早川書房)
岩倉文也

詩人。1998年福島生まれ。2017年、毎日歌壇賞の最優秀作品に選出。2018年「ユリイカの新人」受賞。また、同年『詩と思想』読者投稿欄最優秀作品にも選出される。代表作に『傾いた夜空の下で』(青土社)、『あの夏ぼくは天使を見た』(KADOKAWA)等。

Twitter:@fumiya_iwakura

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