オレンジとコーヒーどっちも食べたいお年頃/『悲しみよこんにちは』

文字数 3,499文字

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「1人前食堂」を運営する、料理・食材愛好家のMaiによる初書評連載。


動画に映り込む本棚、そこに並ぶ数々の本。

Maiによって選び抜かれた1冊1冊に秘めた想いが明かされる。


第6回で取り上げたのはフランスの不朽の名作、フランソワーズ・サガン『悲しみよこんにちは』について。

フランスの首都パリを離れ、南仏の海辺でヴァカンス中の主人公セシル(17歳)は、コーヒーカップとオレンジひとつ持って、”朝の楽しみ”にとりかかった。


“まずオレンジをかじる。口じゅうに甘い果汁がほとばしる。続いて、やけどしそうに熱いブラックコーヒーを一口。それからまた、さわやかなオレンジ。……”


寝起きの胃袋にちょうど良いオレンジと珈琲をいったりきたりして悦に浸るセシル。そんな時、”かの女性”の一言により彼女の優雅で抒情的な(はずだった)朝のひとときは、子どもじみていて空しい時間へとすり替えられてしまう。


”バターを塗ったパンを取っていらっしゃい”


痩せ細ったセシルにもっとカロリーの高い食事を摂るよう強制するのはやもめの父・レイモンと恋愛関係にある美しい中年の女性アンヌだ。


このアンニュイでどこかぎこちない朝食が印象的な小説「悲しみよ こんにちは」は、執筆当時の作者と同い年くらいの思春期の娘と彼女の父、そして彼の恋人や愛人らにより繰り広げられる恋愛劇だ。


中学受験を控えた15歳の夏休み、おそらく今年最後の休暇になるだろう3日間のヴァカンスにーーといっても南仏ではなく和歌山県白浜にーー出かけた。

親が息抜きにと旅行に連れ出してくれたのだったが、このあと待ち受けている勉強漬けの毎日のことが四六時中頭をもたげ心置きなく楽しめるはずもなく、まるで3日後に死刑が執行される死刑囚のような気分だった。


偶然というべきか、”地獄”へのカウントダウンのようなヴァカンスで気晴らしに参考書以外の本でも読もうと持っていったのがまさにこの本だった。

予備校帰りに寄った本屋で夏の文庫フェアの前をぼーっと歩いていると”サガン”という外国の人の名前にグッと引き込まれた。その人物がフランスの女性作家であり、サガンというのはペンネームで同国の文豪マルセル・プルーストの小説の登場人物から取っていると知ったのはかなりあとになってからだ。


記憶というのは、まったく単純なもので、今もなお海水浴場の真白に輝く砂浜と河野万里子氏の軽やかで小気味のいい翻訳文がセットで思い出されるのだ。

太陽にじりじり焼かれた砂浜の上に寝そべって海の潮の香りにうっとりしながらあの冒頭のセシルのモノローグに遭遇したことを鮮明に覚えている。

小さな文庫本越しに見える、途方もなく広がる海が、将来読書という体験が私の人生にもたらしてくれるだろう無限の可能性を予感しているように思えた!

お金持ちで(遊び人だけど)優男な父レイモンはセシルにとって何でも打ち明けられる親友のような存在であったーー私も一度はこんなイカした父の娘になってみたかったーー。付き合ってきた女性には単発的な関係しか求めず独身街道まっしぐらかと思われたレイモンだったが、ある日突然、亡き妻(セシルの母)の旧友であるアンヌと結婚し身を固めることを約束する。


元来享楽的な生き方を拒み、自らの規範を重んじるアンヌは、セシルと恋人の逢瀬を禁止したり……むっずかしい哲学書を勉強させるため彼女を部屋に閉じ込めたりと容赦ない。

心置きなくくつろげるヴァカンスを奪われたセシルの喪失感は、ちょうど受験生で、旅行かばんの奥底で眠る日本史の暗記シートに怯えていた私の心境にシンクロした。


学生時代、最終学年にもなると周りはいっせいに受験や進路のことを考え始め、あれだけ反抗していたクラスメイトたちも学校教師のいうことに従順になり風紀を守って勉学に励むといった感じで校内はすっかりお受験モードで静まり返っていた。

そんななかクラスの担任は「合格するには自分のレベルや模試の判定に合う現実的な志望校を選びなさい」といい、予備校講師たちは「周りが遊んでいるときに塾に通って努力している君たちは報われる」といい、みな「あれこれ考えないで私たちのいう通りにしていれば必ずうまくいく」と口をそろえていうのだった。


半人前の子どもの私はそんな大人たちの言葉を信じて安心したいと思う反面、心のどこかで何かに縛られたり、誰かの枠にはめられたりすることにどうしようもなく居心地の悪さを感じていた。

実際、私は大人を前にすると異議を唱えるどころかガチガチかたまってしまい口ごもってしまうような内気な女子だったが、頭の中ではセシルと同じように“これから私はどんな形にでもなっていく素材だから型にはめられるのはお断りなのだ”と絶えず逃げ回っていた。


小説では、アンヌという美しい闖入者により幸福な生活が破壊されてしまうという強迫観念に囚われたセシルがふたりの結婚を妨害する計画を企てる。

17歳の彼女は、自分を従属させようとするわからず屋のアンヌたち世間から“自由”ーーつまり自分自身で人生を選びとる自由ーーを死守しなければならないと反抗心を燃やし、彼らの失望する顔みたさに小悪魔的な少女の役まで買って出る。


思春期真っ只中の私は、セシルのなかに自分を見出し、それもちょっぴり美化し大人めかした自画像に酔いしれ、まるで自分自身の運命のように固唾を飲んで彼女の行く末を見守るのだった。

かつて若くて勇敢な少女だった私たちは、大人たちの経験や知恵によって整備された道を無傷で歩くよりも誰も予期しない不規則で余分なものに溢れた日々を欲し、酸いも甘いも全て味わいたいと思っていた。


とはいえ10代の感情が移ろいやすい季節、セシルも当時の私も型にはまらない生き方を望む一方で安心感や充足感がつい恋しくなり、自分の人生を誰かにゆだねたい、人生の先輩であるアンヌの腕の中に飛び込みたいという衝動に幾度も駆られた。

そして私も現在に至るまでセシルそして作者が思い描いているような自由の精神を行動に移せてきたのかと問いただされたら不甲斐ない学生時代を回想してムッスリと黙り込んでしまうだろう。

というのも私たちは、現実世界のしがらみから解放され“自由“になるのとひきかえに今まで持っていたもの、いわば心の拠り所になっていたものを手放し、一生涯付き合っていくことになるであろう”孤独”を引き受けることになるからだ。


ここでいう孤独は、”おひとりさん”のような物理的孤独ではなく、大勢の人、友人や恋人や家族が周りにいても感じる、彼らからこの身が引き剥がされるような孤独。(映画版『悲しみよ こんにちは』でセシル役ジーン・セバーグのこちら側(スクリーンの前の観客)に向ける眼差しが見事にその”孤独”を表現している!!!) こうして一足先に孤独との邂逅を果たした私だったが、その時ほんの少し味見した、そしてこの先きっと味わうことになるであろうまだ名のない感情に”悲しみ“と名付ける。

ちょうどこの小説のことが思い出される夏の終わり頃、熱が失われてゆく外気の匂いに喉の奥が締め付けられるような気持ちにさせられる。

それは過ぎ去った季節に置いてきてしまった瑞々しい真夏の果実のように生命力溢れる魂への憧憬、そしてそれを再び取り戻すことはできないのだという刹那さからくるものだろうか。


ほとんど10年ぶりにこの小説を読み返して、ふたたび夏の光が照りつける海辺のきらめきが頭に浮かんだりはしたが、あの時の情熱的な自己陶酔にも似た気分に浸ることはなかった。

とうとうあの頃の少女は私の記憶のなかだけの存在となってしまったのだが、大人になった今も、たまに15歳の少女にあれこれ助言を求めたくなるときがある。


それにしても青春期に生じた命題すなわち自由を謳歌し自分の人生に責任を持つか、誰かに身を任せて孤独から解放されるか(実際はもっと複雑で白か黒かで決められないの現状だが……)が一層リアリティを帯びてきた今日この頃、たしかにあの束の間のヴァカンスに読んだ物語が私の人生にもたらす影響は当時眼前に広がっていた海のようにとめどなく膨らみ続けている。

Mai

料理・食材愛好家。Youtubeで料理動画投稿チャンネル「1人前食堂」の運営をしている。

著書に『私の心と体が喜ぶ甘やかしごはん』『心も体もすっきり整う! 1人前食堂のからだリセットごはん』など。


Twitter:@ichininmae_1

Instagram:@mai__matsumoto

Youtube:1人前食堂

近日、次回公開予定!

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