坂上 泉が選ぶ「戦後史、昭和を描いた傑作小説」10選!

文字数 4,143文字

今注目すべき作家がいる――坂上 泉氏だ。

戦後に実在した「大阪市警視庁」を舞台とするサスペンスフルな警察小説『インビジブル』(文藝春秋)で直木賞候補となり、大藪春彦賞と日本推理作家協会賞(長編及び連作短編集部門)をW受賞した。

時代のディティールにこだわりながら読み手の心を揺さぶるエンタメ小説を生み出す坂上氏に、戦後の日本史を振り返る小説10作を選んでいただいた!

 先日終わった東京五輪には様々な意味が込められた。震災復興の象徴、都心再開発の起爆剤、コロナ禍からの復活……その根底には、前回の1964年五輪の成功を知る世代の「あの夢よ再び」という思いがあった。大阪でも4年後に万博が開かれるように、この国は戦後の成功体験を未だにリアルの社会の基盤とすらしている。だが平成生まれの私から見ると、昭和の戦後は「時代小説」の枠なのだ。実際の社会を動かす根拠には些か古臭すぎるが、時代劇としては赤穂浪士に勝るとも劣らぬ魅力的な舞台だ。そして先達の小説家たちもそういう思いからか、近年多くの「戦後史小説」が世に出されている。今回は、平成以降に戦後期を舞台としてフィクションに軸足を置いて執筆された小説の中から、戦後史の流れの中に位置づけながら、私の独断と偏見で十冊を選んだ。戦後史を辿るきっかけにしてもらえればと思う。

 1945年の敗戦でこの国は未曽有の混乱を迎えた。焼け跡に広がる闇市的自由と背中合わせの、剥き出しの欲望が渦巻く世界だ。窮乏に伴う盗みや暴力だけでなく、社会崩壊でくびきを解かれ暴走する猟奇殺人、そして国内外の政治的ヘゲモニーをめぐる左右勢力の謀略めいた事件も数多く発生した。デイヴィッド・ピースTOKYO YEAR ZERO(文藝春秋、2007年)は戦後直後に発生した連続婦女殺害事件である小平事件をモチーフとし、警視庁の刑事が自身も闇を抱えながら捜査に当たる物語だ。続く占領都市で帝銀事件、そして先日刊行されたTOKYO REDUX 下山迷宮では下山事件と、占領期東京で未解決に終わった事件に焦点を当てた「東京三部作」として、この国の形が定まらぬ中で秩序を守ろうとする警官の目線で占領期の闇を見つめている。

 表出した混沌は数年で追いやられる。国家秩序の回復に加え、朝鮮戦争特需を背景とする経済復興が表を覆うようになる。だがあくまでそれは「表」だ。兵器を作る原材料は焼け跡から回収された鉄屑で、その供給地として名を馳せたのが大阪の陸軍造兵廠跡地だ。敗戦以降放置された荒れ地に、在日朝鮮人をはじめとする採掘集団がバラックで住み着き、大阪府警の捜査網を潜りながら逞しく生きる光景を、開高健や小松左京も当時描いた。わけても梁石日の夜を賭けて(幻冬舎、1994年)は自身が採掘に加わった身として、在日朝鮮人の採掘集落のエネルギッシュな生き様をスリリングに描いた。東京中心に描かれがちな昭和史に大阪の焼け跡という切り口の存在感を示した一作だ。

 戦争の傷跡が深かった時期を脱却すると、55年体制に基づく政治的安定も訪れ、高度経済成長が到来する。「三丁目の夕日」的な世界観もこの時代を基盤とする。その象徴として東京五輪は多くの作品の題材となったが、単純な「神話」に冷水をかけた意欲作が奥田英朗オリンピックの身代金(KADOKAWA、2008年)だ。五輪開催を人質として政府を脅迫する犯人と捜査側の攻防戦を描いた物語で、純粋な東大院生の視点から、五輪実現に向けた無謀とも思える社会改造の陰で苦しむ工事現場の労働者や、東京を中心とする経済発展とそこに乗り遅れる地方とのギャップを炙り出した。一方で月村了衛悪の五輪(講談社、2019年)は、その矛盾に塗れた巨大な五輪利権に食らいつくヤクザが主人公だ。記録映画の監督から黒澤明が降板した史実を出発点に、自らの息が掛かった監督を後任にねじ込むべく、実在の映画人や政財界の大物を巻き込んでいくなかで、大きな「物語」が人を魅せる力に主人公自身も溺れていく。恐ろしいことに、前回の五輪の裏にあった理不尽さや、五輪の持つ魅力に囚われた人々の狂騒は、我々がこの数年来ニュースとして目撃したものと酷似している。あの五輪の魅力が未だこの国から消え失せないのも道理かもしれない。

 60年代に入ると戦後の経済成長一辺倒の矛盾は覆い隠しようもなくなり、社会運動の拡大をもたらす。わけても新左翼による学生運動は、全共闘運動による日大紛争や東大紛争として拡大するも、敗北を経て連合赤軍や過激派によるテロに至る。藤原伊織テロリストのパラソル(講談社、1995年)は、中年バーテンダーが新宿で起きた爆弾事件の容疑者として追われる話だが、底流に流れるのは彼がかつて加わった東大闘争と続く闘争で起こした爆弾事件との関連性だ。敗北と破局を迎えた社会運動と、その参加者のその後の歩みを丁寧に織り込んだことで、私小説的要素を越えてこの時代の「左」の光景を描ききっている。

 戦後史を物語として描く上で欠かすことができない存在が前述の左翼学生運動、そしてその対極の公安警察だ。左翼運動わけても学生運動の台頭を、敗戦国日本の治安機関がいかにして取り締まるかと迫られた結果、戦前来の特高警察の流れをくむ彼ら公安がいかなる手段に打って出たかは今もって謎が多い。そんな公安警察に焦点を当てた作品としては、佐々木譲警官の血(新潮社、2009年)の第二部がそれにあたる。ある警官一家の初代は敗戦直後のある火事の晩に不審な死を遂げ、その息子が公安警察として学生運動家たちに潜入する過程で心を蝕まれていくさまは、彼とその息子の世代にまで引き継がれることとなる。一方、月村了衛東京輪舞(小学館、2018年)は、田中角栄の警備をしていた警官が公安畑を歩む中で、ロッキード事件や東芝ココム事件など昭和から平成にかけての公安警備事件の深淵を覗く話だ。

 戦後史のなかで、本土と異なる道を歩んだのが、米軍占領によって本土から切り離されてきた沖縄だ。その沖縄は1972年に復帰を迎えた。米軍からの略奪(戦果アギヤー)から始まった戦後沖縄の原風景を描いたのが真藤順丈宝島(講談社、2018年)だ。アギヤーの英雄がある晩に消えたあと、残された3人が歩んだ警察、教育者、ヤクザという異なる道を、沖縄の語り部・ユンタが叙事詩を語り継ぐように紡いでいく。沖縄の太陽のもたらす陽気さと壮絶な体験がもたらした悲しみが、同居する語り口は無二の体験だ。

 昭和の終わりが見えてきた1984年、日本を騒然とさせたのがグリコ森永事件(グリ森)だ。現代的な劇場型犯罪として全国民を翻弄しながらも未解決に終わった事件で、脅迫テープに用いられた子供の声から着想を得たのが塩田武士罪の声(講談社、2016年)だ。一つの事件を現代の目線で解き明かしながら、子供が背負った罪という普遍的な悩みを問いかけており、単なる事件物の枠を超えた作品だ。そして奇しくもグリ森が犯人による終息宣言で終焉を迎えようとした1985年8月12日、日本航空123便のジャンボ機が群馬県御巣鷹山に墜落した。この事故を題材としたのが横山秀夫クライマーズハイ(文藝春秋、2006年)だ。世界最大の航空機事故だけでなく、中曾根康弘首相(当時)と福田赳夫の上州戦争が物語を動かす一つのキーとして機能するなど戦後40年を迎えた日本の政治史を垣間見ることもできる。

 以上、あくまで小説10作に絞って挙げたが、他にもよど号ハイジャックに題材を得た伊東潤ライトマイファイア(毎日新聞出版、2018年)や、バブル期大阪の女相場師をコロナ禍の現代から解き明かしていく葉真中顕そして、海の泡になる(朝日新聞出版、2020年)、戦後最大の詐欺事件といわれる豊田商事事件に端を発する平成日本の詐欺犯罪の系譜を辿った月村了衛欺す衆生(新潮社、2019年)など、昭和戦後史の補助線たりうる小説は近年数多く出版されている。特に月村了衛は戦後から平成にかけての歴史に題材を採った作品を意欲的かつ戦略的に出している感がある。前述の『悪の五輪』の元となる短編「連環」はアンソロジー激動 東京五輪1964(講談社、2015年)に収録されたものだが、ここには他にも多くの第一線級作家たちが五輪をテーマにした作品を寄せており、彼らの関心の高さも感じさせる。実際の事件を描いたものではないものの、昭和63年の広島ヤクザと県警マル暴刑事を描いた柚月裕子孤狼の血(KADOKAWA、2015年)は、昭和最終年度ですら歴史時代小説の魅力的な舞台になったことを如実に感じさせる作品である。

 私、坂上泉はというと2019年、平成最後となる松本清張賞でデビューした身で、長編は二作、短編も二作という新参者ではあるが、長編二作目となるインビジブル(文藝春秋、2020年)では、昭和24年から29年の5年間だけ、旧警察法の下で実在した大阪市警視庁という自治体警察を舞台にした。戦後復興から高度経済成長に向かう大阪という土地に潜んでいた熱気を、4年とは言え平成最末期の大阪に住んだ身として描いてみたいという思いを込めてみた。また大阪という土地で昭和戦後を描く機会があるときは、大阪にとっての戦後の絶頂期ともいえる1970年大阪万博について是非とも描いてみたい。五輪と万博、この国の昭和と令和にまたがるキーワードに、同時代人としてきちんとどこかで向き合いたいと思うのだが、しかしいかんせん、今抱えている原稿がなかなか進んでいない。この悩みばかりは古今東西変わることはないようだ。

坂上 泉(さかがみ・いずみ)

1990年、兵庫県生まれ。東京大学文学部日本史学研究室で近代史を専攻。2019年、「明治大阪へぼ侍 西南戦役遊撃壮兵実記」で第26回松本清張賞を受賞。同作を改題したデビュー作『へぼ侍』で第9回日本歴史時代作家協会賞新人賞を受賞。第2作『インビジブル』は第164回直木賞候補にも選ばれ、同作で第23回大藪春彦賞と第74回日本推理作家協会賞(長編及び連作短編集部門)を受賞した。

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