原点回帰のノワール――さぞかし薄気味が悪かろう――

文字数 1,274文字

 夜の九時過ぎ、私は自宅に帰るために住宅街の長い一本道を歩いていた。周囲は恐ろしく静かで、何やら不穏(ふおん)な空気に満ちていた。そのとき、不意に次のような着想が浮かんだのだ。
 道の途中で、私は二人の警察官に職務質問され、前日の夜、その近辺で女子中学生に対する暴行未遂事件が発生したことを告げられる。私が警察官たちと別れて自宅に到着すると、隣家に住む中年男が外に出てきて、愛想よく話しかけてくる。この中年男が、実は得体の知れない犯罪者だとしたら、
 私が頭の中で思い描いたのは、これだけである。しかし、これが『クリーピー』を書き始めるきっかけだったのだ。私はこの作品で日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞し、さらに、それは四年後『クリーピー 偽りの隣人』として、黒沢清(くろさわきよし)監督によって映画化された。その後、私はクリーピーシリーズと呼ばれる短編集などを書いたが、主人公の高倉(たかくら)は卓越した推理力で事件を解決するアームチェアー・ディテクティブに変貌(へんぼう)していた。
 今回の作品『クリーピー ゲイズ』では、を図り、高倉は再び、得体の知れない悪の天才に翻弄(ほんろう)される人間的な犯罪心理学者として描かれている。その分、の恐怖は半端ではない。書いている私自身が怖くなり、夜中に執筆するのをやめたほどだ。また、高倉と妻の康子(やすこ)の心理関係にもかなり踏み込んでいる。私は不思議な感覚に襲われていた。映画では、高倉を西島秀俊(にしじまひでとし)さん、康子を竹内結子(たけうちゆうこ)さんが演じていたが、スクリーン上の二人の会話が(よみがえ)り、私の文のリズムに乗り移るように思われたのだ。竹内さんは誠に残念なことに去年亡くなられたので、今回の作品は『クリーピー』への原点回帰であるという以上に、私にとって特別に感慨深いものになっている。この作品で、夫婦役の二人の姿を思い出す読者もいるに違いない。それは小説『クリーピー』の原風景でもあるのだ。



前川裕(まえかわ・ゆたか)
1951年東京生まれ。一橋大学法学部卒。東京大学大学院(比較文学比較文化専門課程)修了。スタンフォード大学客員教授などを経て、法政大学国際文化学部教授。専門は比較文学、アメリカ文学。『クリーピー』が第15回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞し、作家としてデビュー。『2013年版このミステリーがすごい!』では「新人賞ベストテン(茶木則雄・選)」で第1位となり、’16年には映画化され話題となった。著書に『クリーピー スクリーチ』『クリーピー クリミナルズ』『真犯人の貌』『アウト・ゼア』『クリーピー ラバーズ』『文豪芥川教授の殺人講座』『魔物を抱く女 生活安全課刑事・法然隆三』『愛しのシャロン』『白昼の絞殺魔 刑事課・桔梗里見の猟奇ファイル』などがある。

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