〈4月10日〉 青柳碧人

文字数 1,300文字

アメフラシを採りに


 ヒノシマボタモチは、熊本県の八代(やつしろ)(かい)にしか生息しないアメフラシの仲間だ。(かり)(どう)博士は、専門家でも知る人の少ないこの生物について、何十年も前から研究を重ねてきた。博士のレポートが厚生労働省を驚かせたのは、つい三日前のことだ。
 ヒノシマボタモチから抽出される「ボタG」という成分に、目下世界を恐怖に陥れているあのウィルスを減退させる力があるというのだった。送られてきた実験データを見る限り、その効果は明らかだった。だが問題が一つあった。ボタGを持っているのは、ヒノシマボタモチのうち、わずか0・1%だというのである。
 博士によれば、江戸時代中期には八代海全体の少なくとも80%のヒノシマボタモチがこの物質を有していたが、世代を経るごとに淘汰されていったようだ。もし、江戸時代にさかのぼって二十匹ほど採取してくることができれば、養殖によりボタG安定供給の道が拓けるかもしれない──厚労省の役人が、わが、日本テクノロジー大学大学院・永田(ながた)研究室の戸を叩いたのは、そういういきさつからだった。時空移動をテーマとする当研究室は、極秘研究の成果として、昨年末、ついに時空スーツを完成させていたのだ。
 そして今、私、(あま)()栄一(えいいち)は永田研究室を代表し、深夜一時の八代海に浮かぶ船の上で、時空スーツを着込んだ狩堂博士と向かい合っている。
「ばってん、こんスーツはどぎゃんやろ。ウロコんごたる、びらびらと」
「すべて必要なパーツです。ご理解ください」
「角ばったゴーグルも口ばしんごたるマスクも髪の毛んついたヘルメットも、みんな、好かんばい」
「顔と頭を時空摩擦から守るためのものです。ヘルメットのOTプラチナファイバーは、一本でも抜けたらこの座標に戻れなくなりますので、ご注意を」
「注文、多か」
 文句を言いながらも、博士は船べりに足をかけ、海の中へ飛び込んだ。海面から顔だけを出して浮いている博士に向かい、私は念を押す。
「江戸時代の人に、絶対に見つからないように」
「わかっとる。ま、見つかったら、あんたん名前ば使うてごまかすけん」
 ざぶんと暗い海に潜っていく博士。二秒もしないうちに海中から、昼間のように明るい光の柱が上がった──。

   肥後国海中に毎夜光物出ル
   所之役人行見るニ づの如し者現ス
   私ハ海中ニ住アマビヱト申者也(後略)
    ──弘化三年四月中旬 瓦版


* 出典「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」


青柳碧人(あおやぎ・あいと)
1980年生まれ。早稲田大学教育学部卒業。早稲田大学クイズ研究会OB。『浜村渚の計算ノート』で第3回「講談社Birth」小説部門を受賞しデビュー。『猫河原家の人びと』『家庭教師は知っている』『未来を、11秒だけ』など著作多数。『むかしむかしあるところに、死体がありました。』は2020年本屋大賞にもノミネートされた。

【近著】


登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み