小説と方言

文字数 1,212文字

 この際私の落ちつかぬ悩みをこわごわ打ち明けてみる。それは方言の問題である。ただし関西や博多といったシニセ地域の大方言ではなく、函館弁という、札幌のおとなしめの北海道方言よりだいぶナマッた話し言葉、これをどんどん小説に取り入れてもいいのか、という問題である。私がこわごわするのもうなずける。地元の方言に丁寧だった水上勉さえ、名作『飢餓海峡』では函館弁に冷たかった。
 もとより昨今の推理小説は、日本中あちこちを舞台にしながら、それぞれの土地の方言をほとんど取り入れていない。心地よい例外は姉小路祐だろうが、大阪弁である。シニセである。
 方言不採用の理由は、ひとつには全国的に言葉の平準化の傾向があって、どの地域の方言もこのごろ衰退しているからそれでいいのだ、という面がある。だがもっと大きい理由は、方言は読者が読みにくいので、読者の便宜のために委細をはしょった、という過度の親切心だろう。
 過度のと言ってはカドが立つが、読みやすさを一義とする小説というのは、古今の小説のごく一部であって、読者にとって難解・晦渋な作品も古来たくさん書かれてきた(今では読まれていないけど)。なぜそんなことが起こるのか、簡単に言えば、作者はしばしば読者の読みやすさより、自分の世界の現実感や真実のほうを重要視するからだ。たとえばジョイスの『ユリシーズ』など、誰もが降参するほど読みにくいではないか。
 こいつ、自分の愚作を弁護するのにジョイスの名前を出すとは、ほんとに心ゆくまでバカだな、と思われるだろう。そもそも探偵小説のような娯楽系は、読者サービスを心がけるのが当然ではないか、と。うーん、そのとおりである。私も人なみに、多くの読者に読んでもらいたいと願っている。だが函館に生まれついた私にとって、函館弁こそが言葉の真実であり、ふるさとであり、そこを頰かぶりして平準化された娯楽系を書くことに、楽しみが見いだせないのもまた実情なのである。これは方言というより放言だろうか。
 こうして、探偵小説もやはりどこまでも小説なのだ、というオチにならないオチが、文字どおり落ちつかぬ悩みとなるゆえんである。



平石貴樹(ひらいし・たかき)
1948年北海道生まれ。東京大学文学部教授などを歴任し、現在は同大学名誉教授。’83年に「虹のカマクーラ」ですばる文学賞を受賞後、推理小説を中心に発表。2016年『松谷警部と三ノ輪の鏡』で本格ミステリ大賞最終候補に。ロジックを重視した作品に定評がある。その他の著書に『だれもがポオを愛していた』『フィリップ・マーロウよりも孤独』『サロメの夢は血の夢』『立待岬の鷗が見ていた』『葛登志岬の雁よ、雁たちよ』など。

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