『流星の絆』東野圭吾 冒頭無料公開! 1

文字数 5,287文字

 4月24日(金)より東野圭吾氏の7社7作品が電子書籍で読めるようになります!
 それを記念し、ドラマ化もし絶大な人気を誇る『流星の絆』(講談社文庫)の冒頭部分を毎日1節ずつ、4節まで無料公開いたします。




 物音をたてないよう、ゆっくりと窓を開けた。首を伸ばし、夜空を見上げる。
「どうだ?」功一(こういち)()いてきた。
「だめだ。やっぱり雲が多いよ」
 功一がため息をつき、舌打ちをした。「天気予報通りか」
「どうする?」泰輔(たいすけ)は室内にいる兄のほうを振り返った。
 功一は部屋の真ん中で胡座(あぐら)をかいていたが、傍らのリュックを手にして立ち上がった。
「俺は行く。さっき下に行ってみたら、父さんと母さんは店のほうで何かしゃべってた。今なら、たぶん気づかれないと思うし」
「星、見えるかな」
「だめかもしれないけど、とりあえず行く。明日になって、じつはよく見えたっていう話を聞いたら悔しいからな。泰輔は嫌ならやめたっていいぞ」
「行くよ、俺も」泰輔は口を尖らせた。
 功一が勉強机の下からビニール袋を引っ張り出した。その中には二人の運動靴が入っている。夕方、両親に内緒でこっそりと隠しておいたものだ。
 室内で靴を履き、リュックを背負った功一が窓から片足を出した。窓枠をしっかりと握り、もう一方の足も外に出す。そのまま懸垂の姿勢を取ったかと思うと、次の瞬間には功一の顔は消えていた。
 泰輔は窓の外を見た。すぐ下に物置のトタン屋根があり、功一はその上に降り立ち、何でもないような顔で服の汚れを払っていた。ずいぶん昔からこの脱出遊びをしているだけに、六年生になった今ではさすがに慣れたものだ。泰輔は最近になって真似をするようになったが、まだ要領が(つか)めない。
「音、たてんなよ、絶対に」
 そういうと、まだ泰輔が窓枠にまたがった状態だというのに、功一はひらりと地面に飛び降りた。下から、早くこい、というように手をひらひらさせている。
 泰輔は兄に(なら)い、両手でしっかりと窓枠を掴んだまま、ゆっくりともう一方の足を窓の外に下ろした。渾身(こんしん)の力をふりしぼって、懸垂の姿勢を作る。彼は兄よりも二十センチ近く背が低い。当然、トタン屋根までの距離も長くなる。
 そっと降りたつもりだったが、がん、と思った以上に大きな音が響いた。泰輔は顔を歪め、功一を見た。兄はしかめっ面で口を動かしている。声は出していないが、馬鹿、といっているのはその形からわかった。ごめん、と泰輔は声を出さずに謝った。
 次にトタン屋根から飛び降りようと泰輔は腰を屈めた。じつは窓から出るより、こちらのほうが苦手だった。大した高さではないのだが、飛び降りようとすると、地面がひどく遠く感じられる。功一がなぜあれほど易々と降りられるのか、まるでわからなかった。
 さあ飛ぼう、と決心した時だった。
「タイ兄ちゃん」彼の頭の上から声が聞こえた。
 ぎくりとして振り向き、見上げた。静奈(しずな)が窓から首を出していた。寝ぼけたような表情だが、目はしっかりと泰輔のほうに向けられている。
「あっ、なに起きてきてんだよ」泰輔は妹を見上げ、顔をしかめた。「いいから、シーは寝てろ」
「何やってるの? どこ行くの?」
「何でもないよ。シーには関係ないから」
「シーも行く」
「だめだって」
「おい」下から功一の抑えた声が聞こえてきた。「何やってんだ」
 泰輔はトタン屋根の上で腹ばいになり、下を(のぞ)き込んだ。
「まずいよ。シーが起きてきちゃった」
「はあ?」功一が口を大きく開けた。「おまえがおっきな音をたてるからだ。早く寝ろっていえよ」
「でも一緒に来るっていうんだ」
「ばかやろ。そんなこと出来るわけねえだろ。だめだっていえ」
 泰輔は身体を起こし、窓から首を出している妹を見上げた。
「兄ちゃんがだめだってさ」
 すると静奈は途端に泣き顔になった。
「シー、知ってるよ。兄ちゃんたちばっかり、ずるいよ」
「なんで?」
「流れ星、見に行くんでしょ。ずるいよ。シーだって見たいのに。流れ星、兄ちゃんたちと一緒に見たいのに」
 泰輔は狼狽(ろうばい)した。聞いていないような様子だったが、兄たちの冒険計画はしっかりと彼女の耳に入っていたらしい。
 泰輔は再び腹ばいになった。
「シー、俺たちが流れ星を見に行くってことを知ってるんだ」
「だからなんだよ」功一は不機嫌そうに訊く。
「見たいっていってるんだ。俺たちと一緒に見たいって」
 功一は激しくかぶりを振った。
「小さい子はだめなんだっていえよ」
 泰輔は(うなず)き、立ち上がった。窓を見上げた。
 静奈はべそをかいていた。ぷっくりと丸い頬に涙が流れているのが、暗がりの中でもわかった。彼女の目は懇願するように泰輔を見つめていた。
 彼は激しく頭をかきむしり、腰を屈め、もう一度功一に呼びかけた。
「兄ちゃん」
「なんだよ」
「やっぱり、シーも連れてってやろうよ。仲間外れはかわいそうだよ」
「そんなこといったって、無理なものはしょうがないだろ。すっげえたくさんの石段を上るんだぞ」
「わかってる。俺がおぶっていくよ。それならいいだろ」
「おまえなんかにそんなことが出来るわけないだろ。一人で上るのだってやっとなのに」
「出来るよ。ちゃんとやるから。だから、シーも連れていこうよ」
 功一はげんなりした顔をした後、泰輔に向かって手招きした。
「とにかく、おまえはさっさと降りてこい」
「えっ、でも、シーが……」
「おまえがそこにいると邪魔なんだよ。それともおまえがシーを下ろしてやれるのか」
「あっ、そうか」
「早くしろ」
 功一に()かされ、泰輔は夢中で飛び降りた。ずしんと音をたて、彼は尻餅をついた。
 尻をさすりながら立ち上がった時には、功一はすでにトタン屋根の縁に飛びつき、その上によじのぼりつつあった。
 トタン屋根の上に立った功一は、窓に向かって何かしゃべっている。やがてパジャマ姿の静奈が、足を外に出し、窓枠に腰掛けた。絶対に平気だから、兄ちゃんを信じろ、と功一が小声でいっている。
 静奈の身体が窓から離れた。それを功一はがっちりと受け止めた。ほら大丈夫だろ、と幼い妹に声をかけている。
 功一は静奈を残し、飛び降りてきた。そして泰輔のすぐ前でしゃがみこんだ。
「ほら、またがれ」
「えっ?」
「肩車だよ。さっさと乗れ」
 泰輔が首にまたがると、功一は物置の壁に手を添えながら、ゆっくりと立ち上がった。泰輔の顔の位置は、トタン屋根よりも少し上になった。
「今度はおまえがシーを肩車するんだ。気をつけろよ。おまえは落ちてもいいけど、絶対にシーに怪我をさせるな」
「わかった。――シー、俺の肩に乗れ。首にまたがるんだ」
「わあ、すっごい高い」
 静奈が泰輔の肩に乗ったのを確認すると、功一はゆっくりと腰を下ろしていった。静奈が小さいとはいえ、二人分の体重を肩に乗せているのだから、足腰には相当な負担がかかっているはずだった。兄ちゃんはやっぱりすごい、と泰輔は感心した。
 静奈を無事に下ろすと、功一はリュックからウインドブレーカーを出し、彼女に羽織らせた。「裸足だけど、おぶってやるから心配するな」
 うん、と静奈はうれしそうに頷いた。
 一台の自転車に三人で乗り込んだ。功一が漕ぎ役で、泰輔は荷台に腰掛け、二人の間にさらに静奈がまたがって乗るという格好だ。功一のリュックは泰輔が背負うことになった。
「しっかり掴まってろよ」そういって功一はペダルを漕ぎ始めた。
 しばらく走ると左側に小高い丘が迫ってきた。その手前に校舎がある。三人が通う小学校だった。そこを過ぎて間もなく、道沿いに小さな鳥居が立っていた。その前で三人は自転車から降りた。鳥居の脇に幅一メートルほどの石段がある。
「よし、行くぞ」功一が静奈を背負い、上り始めた。泰輔もその後についていく。
 横須賀は海と丘で成り立っている。海辺から少しでも離れれば、すぐに上り坂だ。その傾斜は決して緩くないが、ふつうの街と同じように民家が建ち並んでいる。三人が上っている石段も、そうした民家の住人たちのために作られたものだった。
「学校のみんな、来てるかなあ」泰輔は息をきらせながらいった。
「来てないだろ。こんな夜中に」
「じゃあ、自慢できるね」
「一個でも見れたらな」
 石段が緩やかな斜面になり、やがて広々とした空き地が三人の前に現れた。ニュータウンの建設予定地で、一ヵ月ほど前に整地が行われたばかりだった。目をこらすと、ブルドーザーやショベルカーなどの重機が置かれているのがわかる。
 功一が懐中電灯で足元を照らしながら進んだ。地面のところどころにビニールロープの仕切り線が走っていた。
「このあたりでいいだろ。泰輔、ビニールシート」
 功一にいわれ、泰輔はリュックサックから二枚のビニールシートを出した。それを広げて地面に敷いた。
 三人はその上で仰向けに寝転んだ。静奈を二人の兄が挟む形だ。功一が懐中電灯のスイッチを切ると、手元さえもよく見えないほどの闇に包まれた。
「兄ちゃん、真っ暗」静奈が不安そうな声を出した。
「大丈夫だ。ここに俺の手があるだろ」功一が答えた。
 泰輔は目をこらしていた。今夜の空には光というものがまるでなかった。流れ星どころか、ふつうの星すらも見えない。
 泰輔がペルセウス座流星群のことを知ったのは去年の今頃だった。今夜と同じように家を抜け出した功一が、友達と一緒に見てきたことを自慢したのだ。その時泰輔は、どうして自分も連れていってくれなかったのかと抗議した。そして、来年は絶対に誘ってくれと頼んだのだった。
 一時間も待っていれば、十個も二十個も流れ星が見られる――功一によれば、そういう話だった。泰輔はその様子を想像し、胸を躍らせた。彼は流れ星自体を見た記憶がなかった。本で読んで知っているだけだ。
 だがいくら待っても流れ星は現れなかった。泰輔は次第に退屈になってきた。
「兄ちゃん、全然見えないね」
「そうだな」功一もため息まじりに返事してきた。「この天気じゃ、やっぱり無理かな」
「せっかく来たのに……。シーもつまんないよな」
 だが静奈の返事がない。すると、「とっくに寝てるよ」と功一がいった。
 その後、少しだけ待ってみたが、やはり流れ星は見えなかった。それどころか、冷たいものが顔に落ちてきた。
「わっ、降ってきた」泰輔はあわてて起き上がった。
「帰ろう」功一が懐中電灯を点けた。
 来た時とは逆に石段を下りていった。幸い雨は本降りになっていない。しかし石段が濡れているので、足元には一層の注意が必要だ。静奈を背負っている功一も、上りの時以上に慎重に足を運んでいるようだった。
 鳥居まで戻ったが、自転車には乗らなかった。静奈がすっかり眠り込んでしまい、三人で乗ることは不可能だったからだ。功一は静奈を背負ったまま歩きだした。泰輔も自転車を押しながら兄に続いた。
 雨は降り続いていた。静奈のウインドブレーカーに雨粒の当たる音がした。
 家の裏まで戻ってきたが、問題は静奈をどうやって二階の窓まで上らせるかだった。
「表の様子を見てくる。父さんたちがもう眠っているようなら、こっそり入るから」
「鍵は?」
「持ってる」
 静奈を背負ったまま功一は表に回った。泰輔は裏の路地のそばに自転車を止め、チェーン式の鍵をかけた。
 その時、路地から物音が聞こえた。戸の開く音だ。
 泰輔が覗くと、裏口から一人の男が出てくるところだった。横顔が見えたが、知らない男だった。
 男は泰輔のいる場所とは反対の方向に走りだした。
 不審に思いながら、泰輔は家の表に回った。功一の姿はない。『アリアケ』と彫られた扉を引いてみると、簡単に開いた。
 店内は暗かった。だがカウンターの先にあるドアは開いていて、そこから光が漏れていた。ドアの向こうには両親たちの部屋があり、その手前が階段になっている。
 泰輔がそちらに向かって歩きかけた時、功一が出てきた。まだ静奈を背負っている。
 何かおかしい――泰輔は感じた。逆光のせいで顔がよく見えなかったが、兄の様子が尋常でないことに気づいた。
「兄ちゃん……」思わず声をかけた。
「こっち来るな」功一がいった。
「えっ?」
「ころされてる」
 兄の言葉の意味が泰輔にはわからなかった。(まばた)きした。
「殺されてる」功一はもう一度いった。声に抑揚がなかった。「父さんも母さんも殺されてる」
 今度はその意味を理解した。しかし状況を把握したわけではなかった。泰輔はわけもなく笑い顔になっていた。そのくせ、兄が冗談をいっているのでないことは感じていた。
 功一の背中で気持ちよさそうに眠っている静奈の顔が見えた。
 泰輔の足が震え始めた。

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