第9話 旧友で好敵手だった大東と語り合ううち、日向の心は決まった

文字数 3,317文字

                 ☆
 青山(あおやま)の裏路地――コンクリート打ちっ放しの外壁のビルの、地下へと続く階段を日向は下りた。
 日向は無機質なスチールドアの前で足を止め、インターホンを押しながらカメラに顔を向けた。
 するとほどなく、ジーッという解錠音が聞こえた。
「お、こんな早い時間に珍しいな」
 ドアが開き、ブリーチしたシルバーのロングヘアを後ろで結んだ男……大東(だいとう)が顔を出した。
「いいだろ。客が何時にこようが」
 日向は言いながら、大東を押しのけるように店内に入った。
 細長い造りの店内は、八人が座れるカウンター席があるだけだった。
 フランス語で隠れ家や人里離れたところを意味する「エルミタージュ」は、南青山の住宅街でひっそりと営業する会員制のバーだ。
「オーナーの俺には、客を選ぶ権利があることを忘れるな」
 大東が冗談めかして言いながら、カウンターの中に入った。
「『エルミタージュ』の記念すべき会員一号の俺様を、出禁にするつもりか?」
 日向は軽口を返しつつ、いつもの指定席――カウンターの最奥のスツールに座った。
「今日は、別のやつを試してみるか?」
 大東が、開いたメニューを日向の前に置いた。
 メニューに値段は書かれていない。スタンダードカクテルはもちろん、自家製季節のフルーツカクテル、シャンパン、ワイン、ウイスキー、ジンなど軽く五十種類を超えるお酒の名前が並んでいた。
「いつものやつを頼む」
 日向は素っ気なく言った。
「訊くだけ無駄だったか」
 大東がため息を吐き、背後の冷蔵ショーケースから取り出した国産の瓶ビールとグラスをカウンターに置いた。
「ウチの看板メニューの、自家製フルーツカクテルにしろとは言わねえ。百歩譲ってビールはいいとして、せめてクラフトビール……いや、生ビールでもいい。国産の瓶ビールだったら、家でも飲めるだろうが」
 大東が呆れた顔で言った。
「俺が若い頃からビール党だって、お前が一番知ってるだろ? 二十代の頃は洒落たクラフトビールを飲んでた時期もあったが、結局ビール党は一周回って国産の瓶ビールに落ち着くんだよ」
 日向はそう言うと、タンブラーグラスに満たしたビールを一息に飲んだ。
 大東とは十代の頃に働いていたエステティックサロンの営業部の同期で、二人はトップセールスの座を争う好敵手(ライバル)だった。
 基本給ゼロのフルコミッション……営業マンの取りぶんは、売り上げの五十パーセントだ。
 契約本数が増えれば増えるだけ稼げる半面、契約本数がゼロならば給料もゼロというシビアな仕事だ。
 街金融上がりの日向と暴走族上がりの大東は、持ち前のハングリー精神と根性で、入社一ヶ月目から互いに一千万円を超える売り上げを記録した。
 最初は口も利かないほどの敵対関係だったが、しのぎを削るうちに互いを認め合うようになった。
 高校を中退した者同士、体一つでのし上ってきた者同士……二人が意気投合するのは早かった。
 二十代になって日向がエンターテインメントの世界、大東が飲食業界と、進む道が分かれてからも交流は続いた。
 忙しい合間を縫って飲み歩き、パートナー同伴でダブルデートをし……出会ってから十数年、いまでは互いにとって兄弟以上の存在になっていた。
「それに、俺はビールじゃなくてここの空間に金を払ってるんだよ」
 気障(きざ)なセリフだが、日向の本音だった。
 明る過ぎず暗過ぎずのほどよい照明、壁にランダムにかけられたパリの街角を切り取ったセピア色の写真、低く流れるシャンソン……そして、気の置けないマスター。
 日向にとって「エルミタージュ」は、ストレスを発散しエネルギーをチャージする聖域だった。
「やっぱ、小説家になる奴はかっこつけた言葉を使いやがる」
 大東が鼻を鳴らし、シェイカーを振り始めた。
「どうして、お前がそれを知ってる!?」 
 日向は訊ねた。
「真樹ちゃんから聞いたんだよ」
「ったく、口が軽いな……」
 日向は舌打ちした。
 正確には、大東にだけ口が軽いのだ。
 日向と十八歳で結婚した真樹もまた、大東と仲がよかった。
 当時は日向と真樹、大東とその彼女の四人でよく遊んでいた。
 飲んだ流れで大東と彼女が南青山の自宅にきては、そのまま泊まっていくことも珍しくはなかった。
 その関係は、大東に彼女がいないときも変わらなかった。
 日向夫妻と大東は家族同然のつき合いで、それはいまも続いていた。
「メジャーな賞か風変わりな編集者がいるマイナーな賞か、どっちでデビューするかを悩んでるらしいじゃん」
 大東がシェイカーのトップを開け、カクテルグラスにピンクの液体を注いだ。
「そんなことまで話したのか……」
 日向はふたたび舌を鳴らした。
「舌打ちをすると、幸せが逃げていくぞ」
「それを言うならため息だろ」
 すかさず日向は訂正した。
「舌打ちもため息も同じようなもんだ。そんなことより、どっちからデビューするんだよ?」
 大東がピンクの液体で満たしたカクテルグラスに、ハート型に薄くカットしたイチゴを浮かべた。
「これは?」
 日向はピンクのカクテルを指差し訊ねた。
「よくぞ聞いてくれた。『スプリングキッス』っていうカクテルだ。春には出会いのキスと別れのキスがある。出会いの甘いキス、別れのほろ苦いキス。それぞれのキスを表現するために、イチゴとピンクグレープフルーツをベースにした甘ほろ苦いカクテルを生み出したってわけだ。どうだ? 俺ってロマンチストだろ?」
 大東が得意げな顔を日向に向けた。
「カクテルの説明なんて訊いてない。こんなもの、誰も頼んでないぞ」
「お前に作ったなんて、一言も言ってねえよ。で、どっちからデビューするんだっけ?」
 大東が思い出したように訊ねてきた。
 日向は無言で、磯川から貰ったミニチュアのシャーロックホームズ像をカウンターに置いた。
「なんだ? そのショボい置物は?」
 大東が怪訝(けげん)な顔で訊ねてきた。
「『ホームズ文学新人賞』のトロフィーだ」
「え? それって、風変わりな編集者の?」 
 ホームズ像を指差す大東に、日向は頷(うなず)いた。
「え!? じゃあ、風変わりな編集者のところでデビューすることに決めたのか?」
「ただの風変わりな編集者なら迷わないんだが、なんかなぁ……」
 日向は言葉を濁した。
「未来文学新人賞」の最終選考の結果を待つ方向に傾いていた日向の気持ちは、磯川に会ったことでふたたび揺れ始めていた。
「なんか……なんだよ?」
「宇宙人みたいでさ」
「宇宙人?」
 大東が繰り返した。
「冷淡に見えて人情味があるようにも見えるし、無関心に見えて情熱的にも見えるし……」
「なんだ。ようするに、見かけと違っていい奴ってことじゃねえか」
「いや、人情味があるように見えて冷淡にも見えるし、情熱的に見えて無関心にも見えるし……」
 日向は独り言のように言葉を続けた。
「はぁ!? いったい、どっちなんだよ!」
 大東が昭和のコメディアンのように、コケる真似をした。
「でも、問題はそこじゃない。彼が天使か悪魔かわからないけど、俺の小説を好きだっていうのはわかる。俺にはそれで十分だ。それに……」
「磯川って編集者が悪魔でもいいのか? 悪魔に魂を売るってことだぞ?」
 大東がカウンターから身を乗り出し、茶々を入れてきた。
「話を遮(さえぎ)るな。それに、好きなだけじゃなくてきちんと評価してくれている。俺の作風の長所を伸ばし、短所は矯正(きょうせい)するんじゃなくて長所に変えるっていう考えなんだ。まだデビューしたわけじゃないけど、磯川さんが担当者ならベストセラー作家も夢じゃないって気がして……」
「じゃあ、決定じゃん!」
 日向の右側……勢いよくトイレのドアが開き、真樹が現れた。
「なんで……」
 日向は状況が吞み込めなかった。
「おトイレに入ってたら、ぜーんぶ聞こえちゃった」
 真樹が前歯を剝(む)き出し、ニッと笑った。

(次回につづく)

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