その恋、叶えたいなら「野性」に学べ! 『パンダより恋が苦手な私たち』試し読み③
文字数 7,497文字
イケメン変人動物学者とへっぽこ編集者コンビでおくる、笑って泣けるラブコメディー「パンダより恋が苦手な私たち」がいよいよ6月23日発売されます! その刊行を記念して、試し読みを大公開!
今日は「第1話 失恋にはペンギンが何羽必要ですか? ②」をお届けします!
第1話 失恋にはペンギンが何羽必要ですか? ②
初回の打ち合わせ場所として指定された喫茶店は、渋谷駅から歩いて十分の路地にあった。
雰囲気のいい店だけど、繁華街からは少し外れた場所にあるからか、意外と空いている。かつて渋谷のアイコンだった彼女は、今もこの街のことをよく知っているのだろう。
……まさか、灰沢アリアと一緒に仕事をすることになるなんて。
今日は緊張して、まったく仕事にならなかった。
時計を見る。六時半、窓の外はずいぶん暗くなっている。約束は七時なので、三十分も早く着いてしまった。緊張を紛らわそうとして店内を見渡す。パソコンをしている人や、雑誌を読みながらくつろいでいる人がちらほら。
近くの席で、春っぽいパステルカラーのブラウスを着た女性が読んでいる雑誌の表紙が目に留まった。
コンビニには必ず置いてある、大手出版社の二十代女性向けのファッション誌『Rena』。
今月号の表紙はモデルの伊藤ミリカ。最近ティーンズ向け雑誌を卒業したばかりだけど、OL向けの基本カッチリで膝から下に抜け感を出した通勤用ワンピースとアウターの合わせもバッチリ決まっていた。『Rena』は表紙に女優を使わない。それは、誰かの知名度を借りるのではなく、ファッションだけで勝負するというプライドの表れのようで、ずっと憧れていた。
ファッション誌の編集者に、なりたかった。
子供のころ、最初に描いた夢は、モデルになりたいだった。
私が生まれ育ったのは、福島県にある樹齢百年を超える桜並木だけが自慢の田舎町。姉が買ってきたファッション誌を読んで、そこに登場する、スラリと長い脚で颯爽とオフィス街を歩き、日替わりで色とりどりの服を纏い、人生なんでも思い通りになっているように笑っている女性たちの姿に胸を貫かれた。
この人たちみたいになりたい、と思った。
姉がたまに買ってくる雑誌だけでは物足りず、小遣いをはたいて毎月何冊もファッション誌を買った。お気に入りの写真は切り抜いてスクラップにし、連載記事や写真の脇のちょっとしたコメントも読みこんだ。お気に入り記事を集めたノートがいっぱいになるたび、憧れは強くなった。
そんな憧れのモデルたちの中で一番輝きを放っていたのが、灰沢アリアだった。
同じ服でも、彼女が着た時だけは特別に見えた。ティーンエイジャーのカリスマは、当時の私にとって神さまだった。
キシキシと軋む縁側をランウェイに見立て、母や姉に呆れられながら何度も往復した。小学校の卒業文集の将来の夢には、太いペンでモデルと書いた。パスケースの中に神さまがいれば、クラスメイトになにを言われたって平気だった。
それでも、中学を卒業するころには気づいた。
私は、モデルにはなれない。
身長百五十二センチ。そこで、私の成長は止まった。
今の時代、背の低いモデルはたくさんいる。だけど、私の脚はラガーマン体形の父の遺伝子をしっかり受け継ぎ、運動部に入っていたわけでもないのに太く逞しくなった。ずっとファッション誌を見てきた。この脚が致命的なのは、誰よりもよく知っていた。
お気に入りのデニムに太腿が引っかかった日の夜。心の奥に、ぶっとい南京錠のついた箱を用意して、夢を詰め込んで鍵をかけた。
それからしばらく、夢という言葉を口にしなかった。
高校生活をなんとなくすごし、特に目的もないまま周りに流されるように受験勉強をして、地元でそれなりに有名な国立大学に入った。
大学生になると、通学が私服になる。すっかりコンプレックスになっていた脚をなんとかマシに見せたくて、しばらく距離を置いていたファッション誌を手に取った。
気がつくと、何時間も読み込んでいた。そして、泣いていた。心の奥に仕舞いこんでいたものは、長い時間が経って、そっと鍵を開けて取り出してみても、変わらずそこにあった。
私の夢は、形を変えて蘇った。モデルになれなくても、この世界に関わっていたい。それに、脚が太いことがコンプレックスだった私を、ファッションは救ってくれた。決めた。ファッション誌の、編集者になる。
大学生活の四年間は、ずっと編集者になることを目指して過ごした。
出版社は就活の最難関の一つだ。成績上位になるように頑張って勉強し、アピールできるような経験を積み、就活が始まるとファッション誌を刊行している出版社を片っ端から受けた。その中で、唯一内定をもらえたのが、業界では中堅の『月の葉書房』だった。
大学卒業と同時に上京。すぐには無理かもしれない、でもいつかファッション誌の編集者になりたい、いや、なってみせると意気込んで入社した。
そして、入社式の当日、希望に胸をときめかせた私に向けて、壇上に立った社長が告げた。
「新入社員のみなさん、わが社を選んでくれてありがとう。みなさんのような若い力と一緒に、わが社も時代に合わせて変革していこうと考えています。その第一歩として、ファッション誌『TRY』、『ARISE』の二つを廃刊とし、好調なカルチャーや趣味の雑誌に特化した体制を築きあげ──」
『月の葉書房』がファッション誌から撤退する。
入社一日目にして、夢への扉は閉ざされた。
入社式の途中で、生まれて初めて貧血になって倒れた。おかげで、私の名前は多くの社員に覚えられ、他の部署の人と新しく仕事をするときには「あぁ、あの貧血の」と言われる。そんな名前じゃありません。柴田一葉、柴田一葉をよろしくお願いします。
出版不況、雑誌が売れない時代、そう言われ出したのはもうずいぶん前だ。ライバルが多いうえに低調なファッション誌を捨てて、好調なカルチャー雑誌に注力するのは、会社としては正しい。だけど、せめて、就活しているときに発表してほしかった。他の出版社からは内定もらえなかったんだけど!
それから三年、私はずっと『リクラ』の編集者をやっている。
豆腐をメインに据えた低カロリー料理教室の紹介、ソープカービング教室の体験記、大した世話をしなくても育てられるオススメ観葉植物などなど。まるで興味が持てない情報を漫然とまとめ続けた。
目の前の仕事を低水準でこなしているだけ。見様見真似で考えた企画はなかなか通らない。編集長には怒られてばかり。やる気あんのかと聞かれても、ありませんよ。私がやりたかった仕事はこれじゃねぇ。
「あの、『月の葉書房』の柴田さんですか?」
声を掛けられた。
いつの間にか、待ち合わせの時間になっていた。初対面だけれど、テーブルの上に『リクラ』を広げていたので気づいてくれたらしい。
立っていたのはスーツ姿の男性だった。年齢は私より少し上だろう。ホテルマンのように礼儀正しく親しみやすい笑顔を浮かべている。グレーのスーツと履き古された有名ブランドの革靴は、その雰囲気によくマッチしていた。
「灰沢アリアのマネージャーの、宮田です」
営業スマイルと一緒に名刺が差し出された。慌てて名刺交換をして、早口で自己紹介と仕事を引き受けてくれたことへのお礼を告げる。
「アリアさんは、今日は来ないのですか?」
「いえ、別の場所にいます。申し訳ないですが、お店を変えてもよろしいでしょうか? すぐ近くですので」
「いいですけど、なにかあったんですか?」
「ただのわがままですよ。彼女と仕事をするのであれば、こういうことはたまにあります。ご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いします」
そう言うと、普段の苦労を感じさせるような疲れた笑みを浮かべる。
灰沢アリアは誰もが認めるスーパーモデルだったけど、バラエティ番組に出ている彼女は自由奔放で自分勝手なキャラクターだった。ベテラン俳優にタメ口で話したり、お笑い芸人に週刊誌のスクープをイジられて荒っぽい言葉でキレたりしていた。そういう大人たちが顔を顰めるほど非常識で自分の感情に真っすぐなところに多くの若者が憧れた。
だけど、それは私が中学生だったときの話。今の彼女は三十一歳、大人の女性だ。あのころのままということはないだろう。
喫茶店を出ると、冷たい風が吹きつけてきた。三月の渋谷はまだ肌寒く、昨日までコートの下に着ていたお気に入りのモヘアニットを脱いできたことを後悔する。
並んで歩いていると、宮田さんは気遣うように話しかけてくれた。
「雑誌連載の話、すごくありがたかったです。ちょうど、新しい切り口の仕事をしたいと思っていたところだったので。でも、少し不安もあります。ご存知の通り、最近、アリアはモデルとして活動してないし、テレビへの露出もほとんどないので」
「それは心配ありませんよ。『リクラ』のメイン読者は灰沢アリア世代ですから。実は、私も大ファンだったんですよ」
宮田さんが、不思議そうな表情をする。アリア世代にしては若すぎると思ったんだろう。
「ファッション誌が大好きな子供だったんです。普通の女の子が手に取るより、ずっと早くから読んでました。出版社にも、ファッション誌の編集者になりたくて就職したんです」
「なるほど。それで、当時のアリアを知ってるんですね」
「結局、全然違う雑誌の編集をやってますけどね。だから、こうしてアリアさんと一緒に仕事ができるのは、私個人としても、すごく嬉しいです」
それは紛れもない本音。だけど、その後ろには、昔はモデルを目指していたことや、『月の葉書房』にはもうファッション誌がないという悲しい秘密があるけれど。
「あ、ここです」
宮田さんは、なにもない路地で足を止める。言われるまで、そこが店の前だとは気づかなかった。角地に建っている雑居ビルの一階、扉の前に『夜空』というプレートがぶら下がっている。窓は塞がれていて中が見えないし、看板も出ていない。秘密基地みたいだ。
店内に入る。芸能人がこっそり集まるバーのような空間を想像したけれど、意外にも焼鳥屋だった。カウンターの他に、衝立で仕切られたテーブル席が三つ。宮田さんは、一番奥のテーブルを手で示す。
鼓動が速くなる。
一歩踏み出すごとに体温が上昇していくようだった。
小学生のころ、テレビで彼女を見ない日はなかった。一つの時代を築いた伝説のスーパーモデル、かつてのティーンエイジャーのカリスマ、灰沢アリア。
わずか数メートルの距離を歩く間に、色んなことが頭を巡った。
アリアは三年前に、雑誌からもファッションショーやテレビからも姿を消した。人気はたしかに落ちていたけれど、不自然なほどいきなり姿を見なくなった。
露出がなくなってから、どんな風に変わったんだろう。スタイルは維持されているだろうか。もし、ハリウッドセレブのように激太りしていたらどうしよう。いや、どんな風に変わっていたとしても、ちゃんと受け入れよう。
灰沢アリアは、あのころの私にとって、神さまだったのだから。
「失礼します」
声を掛けながら、テーブルの横に立つ。
神さまは、記憶の中と変わらない姿のまま、ビールグラスに半分ほど注いだ日本酒を片手に枝豆をつまんでいた。
自己紹介も忘れて、固まる。
綺麗だった。
ハイネックのシャツにオーバーサイズぎみで袖口がダルダルのガウン。手首には、当時、彼女が雑誌のインタビューで大好きだと話していたベークライトの赤いバングル。人目を気にしているのか、大きめのキャスケットを被っていた。
ゆったりした袖口からのぞく華奢な腕、中世ヨーロッパのコルセットでもしているような細い腰、モデルになるために生まれてきたようなジャストサイズの胸、帽子の縁から零れる長い髪、つばに隠れて顔は見えないけれど、彼女は間違いなく、私が幼いころから憧れた灰沢アリアだった。
「困りますよ。急に待ち合わせ場所を変えないでください。それから、打ち合わせだっていってるのに、なんで飲んでるんですか」
宮田さんが、生真面目そうな声で注意する。
そこで彼女が、待ち合わせ場所を勝手に変えて、打ち合わせ前にお酒を飲むという非常識なことをしているのに気づく。でも、これが灰沢アリアだと納得してしまう。
「大丈夫だよ、酔ってないから。あなたが担当してくれる編集者の人? 灰沢アリア、よろしくね」
アリアは私に顔を向けると、被っていた帽子をとってくれた。
細い指で、無造作に押さえつけられていた髪を搔き上げる。長い茶色の髪は、波打つような癖があるのにまったく指に絡むことなく流れていく。頭の上でぱっと指を広げると、シルクのような輝きを見せながら細い肩に落ちていった。
正面から、彼女の顔を見る。
九頭身の小さな顔、ランウェイに出た瞬間から形がわかると言われた大きな口、フランス人だった祖母から受け継いだというツンと高い鼻にうっすら青い瞳。雑誌でもテレビでも見なくなったけれど、美しさは全盛期のままだ。
「は、初めまして。『月の葉書房』の柴田一葉といいます」
アリアは、言い終わるより先に右手を差し出してくれた。壊れ物を扱うように握り返した細い指は、陶器のように滑らかだった。
「座って。悪いね、先に飲んでて。どうせなら、飲みながら打ち合わせの方が楽しいでしょ。あ、お酒、大丈夫? 飲めないなんて言わないでよ?」
「お酒、好きです」
「よかった。宮田、注文」
宮田さんはウェイターのように私の飲み物を聞いて、食事を選んでカウンターに伝えに行く。店は混んでいなかったけど店員も少なくて、なかなか注文を取りに来てくれないらしい。
ビールで乾杯して、本題の前に少し雑談をする。
仕事を引き受けてくれたことへの感謝を伝え、彼女が出ていた雑誌やテレビ番組をよく見ていたこと、それから、ファンだったことを伝える。アリアは目を細めて「ありがとう」「うれしいな」と距離を感じさせない笑顔で頷いてくれた。テレビで見ていた自由奔放な少女じゃない、大人の女性だった。
確かに、非常識な一面はあった。だけど、それが灰沢アリアだ。空きっ腹に流し込んだビールと憧れの人が目の前にいるという緊張のせいで、自分でも驚くほど饒舌になる。
気がつくと、子供のころにモデルに憧れていたことや、ファッション誌の編集者になりたかったことまで話していた。
こんな日がくるなんて。編集者を続けててよかった。
注文した料理が届くのと同じタイミングで、宮田さんのスマホが鳴った。「すいません、ちょっと」と言って席を立つ。
「……あいつ、あたしの他に、二人のマネージャーしてんだよね。どっちも、十代の売り出し中のモデルで、今、そっちが忙しいんだって」
店の外に出ていく宮田さんの背中を見ながら、アリアが寂しそうに呟く。きっと、全盛期の彼女なら、マネージャーが掛け持ちなんてありえなかっただろう。
「さ、そろそろ本題に入ってよ。宮田には、あたしから後で話しておくからさ」
「あ、はい。では打ち合わせをはじめさせていただきます。弊社の紺野からメールでご連絡していたと思いますが、改めて、今回の企画について説明させていただきますね」
紺野先輩からもらった企画書をアレンジしたものを渡し、何度も頭の中でシミュレートした説明を口にする。
まず、『リクラ』のホームページで恋愛相談を募集する。そして、ホームページとSNSを通じて、読者に一番共感できる相談を選んでもらう。完全に公開企画なのでズルはできない。その結果を受け、選ばれた相談に応える形でアリアが恋愛コラムを書く。参考にとバックナンバーのコラム企画をいくつかテーブルの上に広げる。恋愛相談の募集はすでに始まっていて、コラムニストが灰沢アリアだと発表されたこともあり、話題になっていることを伝える。
話しているあいだ、アリアは笑みを浮かべたまま「いいじゃん」「おもしろそう」と頷いてくれた。
「それで、締め切りについて相談させていただきたいのですけど」
『リクラ』では、発売の約三ヵ月前に編集会議を行う。つまり、三ヵ月ですべての記事を仕上げるスケジュールだ。校了日から校閲、編集長のチェック、デザイナーさんの作業時間と後ろから線を引いていくと、コラムを書くのにかけられるのは一ヵ月もない。
「第一回の恋愛相談が決定するのが三月七日。その後、すぐに執筆にかかっていただいて、三月三十日までには送付いただきたいのですが。チェックや手直しは、その後の作業と並行して進められますので」
アリアは、優しそうな笑みを浮かべたまま、ちょこんと首を傾げる。
「それは、あたしが思ってたのと違うかな」
6月18日公開「第1話 失恋にはペンギンが何羽必要ですか? ③」へ続く!
今泉忠明氏(動物学者 「ざんねんないきもの事典シリーズ(高橋書店)」監修)、推薦!
ヒトよ、何を迷っているんだ?
サルもパンダもパートナー探しは必死、それこそ種の存続をかけた一大イベント。最も進化した動物の「ヒト」だって、もっと本能に忠実に、もっと自分に素直にしたっていいんだよ。
あらすじ
中堅出版社「月の葉書房」の『リクラ』編集部で働く柴田一葉。夢もなければ恋も仕事も超低空飛行な毎日を過ごす中、憧れのモデル・灰沢アリアの恋愛相談コラムを立ち上げるチャンスが舞い込んできた。期待に胸を膨らませる一葉だったが、女王様気質のアリアの言いなりで、自分でコラムを執筆することに……。頭を抱えた一葉は「恋愛」を研究しているという准教授・椎堂司の噂を聞き付け助けを求めるが、椎堂は「動物」の恋愛を専門とするとんでもない変人だった! 「それでは――野生の恋について、話をしようか」恋に仕事に八方ふさがり、一葉の運命を変える講義が今、始まる!瀬那和章(せな・かずあき)
兵庫県生まれ。2007年に第14回電撃小説大賞銀賞を受賞し、『under 異界ノスタルジア』でデビュー。繊細で瑞々しい文章、魅力的な人物造形、爽快な読後感で大評判の注目作家。他の著作に『好きと嫌いのあいだにシャンプーを置く』『雪には雪のなりたい白さがある』『フルーツパーラーにはない果物』『今日も君は、約束の旅に出る』『わたしたち、何者にもなれなかった』『父親を名乗るおっさん2人と私が暮らした3ヶ月について』などがある。