タメ口考/尾久守侑

文字数 2,446文字

文芸誌「群像」では、毎月数名の方にエッセイをご寄稿いただいています。

そのなかから今回は、2021年12月号に掲載された尾久守侑さんのエッセイをお届けします!

タメ口考


 タメ口について考えている。なぜか。それは気づいたら今タメ口で話していたからである。「別にいいではないか、タメ口で話しても」と思う人がいるだろうが、良くないのである。私は医者なのに、患者さんにタメ口で話していた。


「医者のタメ口」というだけで、調子に乗った若い医者が人生の大先輩である患者さんに馴れ馴れしく、上から目線で物を語っているような印象が頭に浮かんできて、失礼な医者だ、という義憤に駆られてくるのだが、その義憤に駆られているはずの私が、あろうことか患者さんにタメ口を利いていたのである。


 初心、忘るべからずですね!(精神科医/詩人)


 といって終わってしまったらこの原稿は1枚にも達さないことになり、見開きのほとんどが白紙という前衛的な色彩を意図せずにまとってしまうことになるのでもう少し考えてみるしかないのだが、ではどうして私はタメ口を利いていたのだろうか。


 そもそも、ふだんタメ口で話したくなる相手というのは誰か考えてみると、まずは家族とか、昔からの友達とか、関係の近い後輩とか、である。つまり、心の距離が近い人に対して、タメ口で話したくなる。


 といいつつも、いくら仲良しでも先輩にはさすがにタメ口を使おうとは思わない。先輩というのは一体誰のことか、と明確化を求めてくる人がいるかもしれないが、まあ先輩である。それぞれの脳内で思い浮かべて欲しい。地元の/部活の/職場の先輩、私だったらたぶん敬語で接する。それから取引先の人とか社会的な関係にある人にも当然敬語で接する。患者さんもそうである。さらに、別に親しい間柄ではなくても、子どもにはタメ口で話す気がする。


 と、いうと、医者は子どもにも敬語を使うべきだ、などという人が登場するかもしれない。大人として扱うことで自立の感覚を育てて云々みたいな議論は常にある。


 少なくとも私は、医者としてではなく、ふつうの成人男性として道端で5歳くらいの子と話すことになったら、タメ口で話すと思う。それが雰囲気として自然だからである。医者として、子どもの患者に接する時にタメ口を封じるというのは、この自然な、内発的な感覚を一旦意図でもって制御し、そこから「自立を促すため」といった二次的な思考により自らの発話をコントロールするということに他ならない。


 それがいいかどうか、というのは今はいいとして、この「自然に」タメ口になる、というところが興味深いなと思う。冒頭で私が使っていたタメ口は、明らかに「自然に」なったタメ口である。成人の女性患者さんに、気がついたらタメ口を利いていたのである。私はどうして、まるで子どもに接するように「自然に」タメ口になってしまったのだろうか。


 分からないことがあるときは、インターネットに頼ると速いので、私は「医者のタメ口」というキーワードで検索をしてみた。すると、ブログ的なものや、病院のQ&Aページがヒットしたのだが、そこにはなぜ人は自然にタメ口になるのか、という答えはなく、「最近の若い医者は社会経験が足りない」といったベテラン医師の意見や、「Q.タメ口で接された。スタッフの接遇はどうなっているのか? A.申し訳ございません云々」といった回答ばかりが並んでいた。


 実際のところ、その人にその口調はまずいだろ、という態度で患者さんに接する医師というのはいて、そういう医師が働いた後はクレームの嵐になるのだが、これは、普通の人には備わっている「自然さ」というか、対人接触時のチューニング機能が壊れているからなのだろうと推測していて、タメ口を使う医者の誰もにクレームがつくわけではない。


 今何気なく「対人接触時のチューニング機能」という言葉が出てきたが、これが子どもと接したときに「自然に」タメ口になる理由かもしれない。


 私たちはそれぞれに、人によってそのきめ細かさというのは違うのだと思うが、対人接触時に相手の波長にチューニングする機能を持ち合わせている。このチューニング機能でもって「この人はピリッとした雰囲気だから言葉に気をつけよう」とか「この人は気さくな感じだから気さくに話せそう」とかいうのを都度判断しているわけである。それゆえ、チューニング機能が壊れた人が話をしているのを、チューニングが細やかな人が横からみると「おいおい、その人には雰囲気的にその距離感の言葉は近すぎるぞ」と分かる、みたいな現象が起こる。


 そう考えるとである。私が患者さんに突如タメ口で話したのは、その人をチューニング上「子ども」とみなしたからではないかという仮説が立ち上がってくる。


「退行」という専門用語があるが、なにか心理的に差し迫ると無意識のうちに心が子どもになる人がしばしばいる。それは、露骨に子どものように甘えた口調・態度になる人から、パッと見は分からないものの「子どもと話している気にさせる」というような微妙なやり方で子ども化する人まで様々である。


 つまり件の女性と私の間で起きたのは、診察をしているうちにその女性が子ども化したことで、私のチューニングが無意識のうちに調整されて、タメ口になってしまった、ということなのではないか。


 自らのタメ口に気づいた私がどのように振る舞うかは治療の話になるのでここでは語らないが、「医者のタメ口」には患者の波長にチューニングした結果として現れてくるものもあるのではないか、というのが今書きながら分かったことだった。


 解決してすっきりしたのだが、出勤したら大クレームがついているかもしれないので、社会人のための謝罪講座みたいな本を今から探そうと思っている。

尾久守侑(おぎゅう・かみゆ)

詩人・精神科医、1989年生まれ。共著に『思春期、内科外来に迷い込む』。

2022年7月号「群像」に、中篇「天気予報士エミリ」が掲載されています。

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