『馬疫』茜灯里 第一章無料公開!⑥ 【外研先は「感染研」】

文字数 3,616文字

第24回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞した、
茜灯里さんによるミステリー長編『()(えき)』。
2021年2月25日の全国発売に先駆けて、[第一章試し読み]の第6回です。
    *
2024年、新型馬インフルエンザ克服に立ち向かう獣医師・一ノ瀬駿美。
忍び寄る感染症の影、馬業界を取り巻く歪な権力関係……物語の冒頭から、彼女の前には数々の問題が噴出します。





   

 駿美が本部棟の外に出ると、候補馬のオーナーたちが(けわ)しい顔をしてやってきた。中ほどに駒子の姿を見つける。
「駒子、ちょっと来て」
 道の脇の木の下に呼び寄せる。
「駿美ちゃん、何が起こっているの? 調子の悪い馬が、どんどん増えている。ステファンも、先刻(さっき)より苦しそう」
 駒子は泣きそうな顔をしている。駿美は馬を愛撫するように、駒子の首筋をポンポンと叩いた。
「今から、遊佐先生が説明してくれるって。馬の治療は、エクセレント乗馬クラブの先生たちがしてくれる。でも、駒子もしばらくは、競技場に通わなくちゃならないと思う。私は、一週間後に来るようにって言われたから、一度、東京に戻るね」
 駿美が駐車場に向かおうとすると、駒子が駿美のパーカーを引っ張った。
「駿美ちゃん。お父さんには、会っていかないの?」
 駿美は笑ってごまかした。
「今回は、いいや。感染研の実験室に、早く戻らなくちゃ」
「お父さんを、まだ、許せないの?」
 続く追及に、聞こえないふりをする。駒子は、さらに続けた。
「私の存在も、許せない?」
 ちらりと駒子を見ると、真顔を通り越して怖い顔をしている。
 困った駿美は、勢いをつけて駒子の両肩を叩いた。
「変な戯言(たわごと)を言ってないで、会場に行きなよ。説明、始まっちゃうよ。セバスチャンの世話、しっかりね」
 駒子の返事を待たずに、駿美は足早にその場を立ち去った。



   

 駿美は、夜七時過ぎに、東京都武蔵村山(むさしむらやま)市にある感染研の村山(むらやま)庁舎に到着した。
 村山庁舎は、二〇一五年に国内初のバイオ・セーフティ・レベル(BSL)4の施設として稼働(ルビを入力…)した。BSLは、細菌やウイルスなどの病原体を取り扱う施設の格付けだ。
 病原体は、危険度が低い順にレベル1から4に分けられている。レベル1は、人には無害な病原体だ。レベル2にはインフルエンザ・ウイルスなど、レベル3には結核菌や狂犬病ウイルスなどが含まれる。
 最高のレベル4には、致死率が高く感染しやすいのに、予防・治療法がない病原体が分類される。エボラ・ウイルスやラッサ・ウイルスなどが該当する。取り扱えるのは、最上位のBSL4の格付けを持った施設のみだ。国内二番目のBSL4の施設は長崎(ながさき)大に造られているが、稼働前なので、現在は村山庁舎でしか扱えない。
 だが、村山庁舎の周辺には、住宅や団地が立ち並ぶ。施設の近くには小学校もある。だから海外から「レベル4のウイルス」を初めて輸入した二〇一九年には、事前告知や住民説明会を念入りに行ったそうだ。
 駿美は、大学を卒業して獣医師免許を取った後に、五年間は競技生活に専念していた。三年前に博士号取得のために、(みやこ)大から外研(がいけん)(研究指導委託)で、村山庁舎の「ウイルス第一部」に来た。
 研究しているのは、馬の流行性脳炎だ。原因ウイルスは、レベル2から3に分類されるから、BSL4の施設は必要ない。だが、感染症の各分野で、国内最高峰の研究者が集まっている環境に魅力を感じて、わざわざ外研を選んだ。
 自分の実験室に戻る前に「インフルエンザウイルス研究センター」に向かう。目当ては第四室長の(もり)秀樹(ひでき)だ。
「森先生、こんばんは」
 森は退屈そうに、デスクワークをしている。
 六室構成の同センターで、第四室は、季節性や動物由来のインフルエンザの研究と、ワクチンの開発をしている。
「インフルエンザ博士」と呼ばれている森は、もともと鳥の獣医師だった変わり種だ。四十五歳で一念発起して博士号を取得した後、野鳥のインフルエンザの研究が認められて、今のポストに招聘(しょうへい)された。
「最近は、新型インフルエンザのせいで、鳥がすっかり悪者にされて悲しいよ。実験する時間もなくて、講演スライドか解説文ばかり作っている。君は、……馬脳炎だったな」
 森の言葉に、駿美は苦笑した。
 感染研では、学生は本名ではなく、研究している病名か、病原体名で呼ばれる事例が多い。駿美は「『大腸菌』と呼ばれている先輩よりは、まし」と諦めている。
(みやこ)大から外研で来ている一ノ瀬です。日馬連の登録獣医師なので、馬の病気全般に興味があります。馬インフルエンザが山梨県で発生しました。森先生のお力をお借りするかもしれませんので、挨拶に(うかが)いました」
 森は顎(ひげ)を撫でて思案顔をする。
「馬インフルエンザか。俺の出る幕はなさそうだな。突然変異して、人に感染(うつ)る状況になったら、声を掛けてくれ」
「縁起でもない未来を、予測しないでください! 今年はオリンピックも(から)んでいますし、先生が想像されるよりも大変なんですよ」
 駿美がむくれて口走ると、森は破顔一笑した。
「悪い、悪い。君は、博士の学生か。ちょうどいい。今、一般向けのインフルエンザの解説文を書いているから、手伝ってくれ」
 森はPCの画面を読み始めた。
『全てのインフルエンザは、元を辿(たど)れば鳥インフルエンザに行き着く。野生の水鳥が腸内に持っているインフルエンザ・ウイルスは、水鳥には悪さをしない。しかし、水鳥からニワトリへ感染するようになると、神経症状や呼吸器症状が現れた』
 森は顔を上げて、駿美の反応を(うかが)う。
 駿美は「わかりやすいです」と大きく頷いた。
『さらに、ニワトリから人に感染したのが、人のインフルエンザの起源とされる。鳥や人以外の、犬、馬、豚、クジラ、アザラシなどの動物にも、インフルエンザはある。しかし、今のところ、人に感染するのは、人のインフルエンザ以外では、鳥や豚由来のインフルエンザの一部である』
 森の解説を聞いて、獣医師国家試験の時に勉強した内容を思い出す。
 インフルエンザは、高い感染力と、変異しやすい性質を持つ。人類にとって最も厄介(やっかい)な感染症と言える。二〇〇〇年代以降は、従来型の「季節性インフルエンザ」以上に、動物由来の「新型インフルエンザ」が問題となっている。
 新型インフルエンザは、例えば「豚の体内で、鳥と人のインフルエンザが混ざり、人への感染力を持った」タイプだ。初めて直面するタイプなので、人は免疫(めんえき)を持っていない。ワクチンもない。
だから、重症化しやすく、全国的に急速に蔓延する可能性が高い。
「この先、どう文章を続けたらいいかな」
 駿美は今、考えていた内容を伝える。
「新型インフルエンザを、変異のしやすさや、免疫獲得と絡めて説明するといいと思います」
「なるほど、参考にするよ」
 森は大きく伸びをした。帰ろうとする駿美を引き止める。
「これからが君の本題でしょ。山梨の馬インフルエンザの型は? どれくらい広まっているの?」
 駿美は意気込んで説明した。
「今日、発生が確認されたので、まだ、簡易キットによる検査だけです。陽性は四十頭中の三十三頭でした。NRAの総研がRT ― PCRかウイルス分離で型を確認するはずです」
「馬インフルエンザの一般的な型は?」
「A型ウイルスのH3N8型のみです。二〇一六年から、ワクチンはフロリダ亜系統の二株を使っています。H7N7型もありましたが、五十年ほど前を最後に、見つかっていません」
 森は、思い出すように目を(すが)めた。
「H3N8型は、人では百年以上前の一八九〇年前後に流行したらしいが、最近は見られない。二〇〇〇年代になって、アメリカで馬から犬への感染があった。念のため、犬にも注意しておくといい」
 馬のオーナーは、たいてい、動物全般が好きだ。乗馬クラブや馬の牧場では、犬を飼っている場合のほうが多い。
 駿美は不安になった。森は安心させるように告げる。
「馬インフルエンザは、日本では、馬から犬に感染した例はない。馬や犬から人に感染した例もない。馬だって、何日か発熱して、洟水を出すくらいだ。あまり考えすぎないほうがいい。感染の広がりを食い止めるのが第一だ。経過に不安があれば、また訪ねておいで」
 駿美は礼を言って、退室した。



(つづく)

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