練習の記憶と記録:『旅する練習』刊行記念・乗代雄介インタビュー

文字数 4,368文字

2020年3月、コロナ禍で予定がなくなった春休み。中学入学を控えたサッカー少女・亜美と、叔父で小説家の「私」は、我孫子から、鹿島アントラーズの本拠地をめざして、利根川沿いを歩き始める……。サッカーの練習や風景描写をしながらの「書く、蹴る、歩く」の旅を描く、ロード・ノベル『旅する練習』。第164回芥川賞候補にも選ばれた本作をめぐる、著者・乗代雄介さんとのメール・インタビュー。

■ 旅にサッカーボールを


——『旅する練習』では、徒歩で鹿嶋をめざす旅の道中で、サッカー少女の亜美が、叔父の「私」と、リフティングしていたりする場面が印象に残ります。サッカーの練習をしながら旅をする、というストーリーは、どういうところから生まれたのでしょうか。


旅をしながら風景描写を書くということは色々なところで言ったことがあるんですが、荷物に余裕がある時はサッカーボールを持っていくこともあります。我孫子から鹿嶋まで歩いて旅しようと思ったのは今回の小説を構想する前ですが、せっかくなのでボールを蹴れるようなコースを選んで、何度も行きました。モレリアのトレーニングシューズを履いて。


書くのはたいてい一人で落ち着いて座っていられるいい風景の場所なので、その近くにボールが蹴れる平らなスペースがあれば、書いた後でリフティングをします。だから、登場人物の二人がやっているのはもともと自分一人がやっていたことなんです。そんなことしてると、一つの場所に一時間近くとどまることになるので旅程がなかなか進まないんですけど、それは仕方ないし、一人なので気ままなもんです。


小説に出しているのは特にくり返し行って何度も練習をした馴染みの場所ですが、長く歩いてまたそこに着いて一人になった時は、これまでの練習の記憶がその場に重なっているように思えます。周りの風景も含めて、二つの練習の色々な実感が自分の中にあるし、一部は言葉として残されている。これら練習の感覚を、同じ場所で同じ時にあったものとして、なんとか統合することができないかと考えたのが、ストーリーに繋がる発想だったかも知れません。


——そのようにして書かれたのですね。そんな旅にいつも持って行く道具や物はありますか?


必ず持っていくものは5点です。


・モレスキンのノート(ミディアムサイズ ブラック 横罫)

気に入った風景を見つけたら、このノートに描写します。大抵は1ページに収まるぐらいの量を三十分前後。よく行く公園の時は、それ専用のノートがあります。


・ファーバーカステルのシャープペンシル(1.4ミリ、紺)

風景描写を始めた頃からずっと使っています。しっかりした消しゴムがついているので、これ一本で済むので便利です。外ではすべりのいい太い芯が好き。


・サーマレストのアウトドアシート

書く時に敷きます。百円ショップで買ったチップとデールのゴムマットをしばらく使っていたけど、穴が空いたし、尻も冷えるので代えました。


・『葉っぱで見わけ五感で楽しむ 樹木図鑑』ナツメ社

あんまり詳しくない頃は、同社の鳥や野草のものも携帯していたので大変でした。知らない草花は写真を撮っておいて後で確認すればなんとかなるけど、木はならないので今も持ち歩いています。


・『新版 図説歴史散歩事典』(山川出版社)

建造物や石塔などの部位の名称、仏像の印相など、いつ気になるかわからないので、かなり重いけど入れています。もったいないから無理やり参照するため、いい勉強になっています。

   手賀川から弁天川に分岐するあたりでカワウを発見

■ 練習の先にあるもの 


——乗代さんが前作『最高の任務』刊行時のエッセイにも、書き手の感動と風景描写について書かれていましたが、そのようなことをめぐって、新たに考えたことはありますか? 


目の前の風景を見た感動と、書いたものの間にはいつも齟齬を感じます。短い時間で、刻一刻と変わる風景に追いつこうと慌てて書いていくから、何を見るかも、言葉の選択も、文の語順も、後で読み返せば直したいことばかりです。書いている限りは、その齟齬が感動から自分を引き剥がすけど、その齟齬を見つめて日々埋めていくからこそ、感動に近づいているという実感も抱ける。それが練習という行為だと思っています。


そのうちに、自分が考え取り組んだ練習の記憶と記録がもたらしてくれる実感や思考のために、小説の場を作ってみたいと考えるようになりました。


すると当然、書いた時の感動との齟齬をどのように処理するかという問題が出てきます。


今回の小説で「私」が書いている風景描写は、多少の日時のずれはありますが、僕自身が実際にその場所でノートに書いた練習をそのまま写したもので、推敲もしていません。それをそのままで良しとするための小説の構造が求められるので、そこは多少、時間をかけて考えたところです。書き直して更新するのではなく、最新ではない感動を齟齬があるからこそ意味あるものにできないかというところで、『最高の任務』の時からだいぶ思考を進められたのではないかと思っています。



——齟齬を見つめて日々埋めていく、というのは興味深いです。「練習」とはそういう意味なのですね。


 例えば、小説を書くのが上手くなりたいから毎日何枚かでも小説を書くようにしているというのは、練習ではないと思っています。良い小説を書くということを目標に定めているとして、そのための練習が小説を書くことであるはずがない。練習の肝要で神聖なところは、求めるものと足りないものの齟齬を埋めるための具体的な方策を頭を使って考えるなんて言うまでもないことの、その先にあるはずです。


齟齬というのは、それが齟齬だと自分で気付いている限り、もちろん苦労がないとは言いませんが、いずれ埋まります。そして、それはとても気分のいいことです。新しく何かを始めた最初の頃が楽しくてしょうがないのは、すぐに気付くような齟齬が順調に埋まっていくのが快いからで、だから練習にも身が入る。でも、まあまあ上手くなってくるとあからさまな齟齬がなくなって、齟齬を埋める必要に駆られている状態に身を置けなくなってしまいます。


つまり、練習を続けるために不可欠なのは齟齬の方なんです。じゃあ、ある程度上手くなった人が、齟齬を絶やさないために何をすればいいかといえば、それもまた練習でしかないというのが難しいところなんでしょう。練習すればするほど小さくなってしまう齟齬は、長く続けて習慣となった練習の中にしか見出せません。


ここまでくると、練習は齟齬を埋める以上に、見つけるための行為に変わります。それは、練習ではどうにもならないことを自覚し続けるために練習し続けるという本末転倒の状態ですが、こうなってからが本当の練習だろうという気がしています。その時にはもう一般的な練習という語義に収まらないで、カワウが毎日魚を獲るみたいなことに近づくんじゃないか、っていうのが今回の小説を書く際に念頭に置いていたことなんですが。


■土地や場所を描くということ


——『旅する練習』では、旅の途中で、叔父の「私」によって描かれる、土地の描写が魅力的です。乗代さんにとって、小説を書く中で、土地や場所は(土地や場所を描くこと)は、どんな意味を持っているのでしょうか。


小説にはほとんど必ず、人間やそれに値する存在——登場人物が出てきます。そういう存在がいる以上、そこは土地や場所になることを避けられません。


実在でも架空でも、ある人間がいる土地や場所がどんな営みを経てきたかという歴史や、今どんな状態にあるかという描写が書き込まれる度合いは、身も蓋もない話ですが、最終的には書き手がそれに興味を持っているかどうかで変わるに過ぎないと思います。


例えば、公園のベンチに登場人物が一人いてあまり深刻ではない考え事をしている時に、座っているベンチとそれを照らす街灯だけ描写されたとしても、特に問題はありません。読者が周囲の環境を「自然な空白」という形で埋めてくれるからです。でも、そうやって書き手と読み手の共犯関係で作られる「自然な空白」というのは、自分の経験上、自分以外のあらゆる存在に対する興味と知識の欠如であることの方が多い気がします。当然のことですが、書き手がある物事や事物について知らなければ、それを知っている人物と知らない人物を書き分けることは絶対にできない。


もちろん、興味と知識をどんな形で作品に反映させるかは、人それぞれのやり方になります。宮崎駿は背景の野草の種類が判別できるまで細かく描き込んだし、高畑勲は逆に「自然な空白」を前景化したという風に感じます。いずれにせよ、そこに自覚的にならなければ創作は何も始まらない。そういう勝手な自戒から、土地や場所を描くことに意識的になっていきました。

佐原の土手から見た利根川

■ 励ましになった旅の本


——最後に、「旅」の小説やエッセイのおすすめ本を教えてください。


●永井義男『剣術修行の旅日記——佐賀藩・葉隠武士の「諸国廻歴日録」を読む』(朝日新聞出版)


長い江戸時代の中で様変わりした剣術修行について、幕末の牟田文之助の日録を追うことでわかるという本です。その時には剣術は今で言うスポーツ感覚で、修行人専用宿や稽古場斡旋など市場がシステム化されていました。稽古後の飲み会だけを楽しみにしているような道場もあったり、北辰一刀流の二代目がなぜか頑なに手合わせしてくれなかったりという中で、彼はかなり真面目に修行していたようです。旅が快適になったところで修行の意義が変わるわけではないし、やる奴はやる。そういうことがずっと続いてきたという意味で、練習について考える励ましになった本でした。


●D・H・ロレンス『海とサルデーニャ—紀行・イタリアの島』武藤浩史訳(晶文社)


ロレンスにとっては普通のことだったのかも知れませんが、全編にわたってテンション高く、微妙に書きづらい場面でも、起こったことはみんな活き活き描写してやろうじゃないかという気概に満ちています。とはいえ、ひどい宿の暖炉で老人が子山羊の肉を焼くのを見ている場面なんかは、一転して比喩を抑えた落ち着いた筆致で、ぐっとくる。そういう書き分けなんかも巧みで、またそれが反映されている見事な訳だと感じます。こんな読み方ばかりするのもどうかと思いますが、とても勉強になった本です。


乗代雄介(のりしろ・ゆうすけ)

1986年、北海道江別市生まれ。法政大学社会学部メディア社会学科卒業。

2015年「十七八より」第58回群像新人文学賞を受賞し、デビュー。

2018年『本物の読書家』で第40回野間文芸新人賞受賞。

著書に『十七八より』『本物の読書家』『最高の任務』『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』がある。

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