◆No.7  越前撤兵 ~戦国朝倉家の7大 if (イフ)その4

文字数 1,329文字

越前の名門朝倉家の英傑・朝倉宗滴が没したあと後事を託され、朝倉家を守ることを固く誓った「宗滴五将」の筆頭「仁の将」山崎吉家。朝倉将棋最強の駒に譬えられた男は、なぜそこまで主家に尽くしたのか──。朝倉家家臣団の離反、謀略、裏切りのなかで孤軍奮闘する忠臣の姿を描いた『酔象の流儀 朝倉盛衰記』の裏話を、著者・赤神諒氏が語ります!

武田、本願寺、朝倉・浅井連合軍らによる<第二次信長包囲網>は、1572年に武田信玄の大軍が遠江へ侵攻し、大きく動き出します。

将軍足利義昭も暗躍していたようですね。


信玄は上洛まで意図していなかったという説も有力ですが、それはともかく、信玄が西上作戦を開始し、若き徳川家康を三方ヶ原で撃破したころ、朝倉義景は自ら兵を率いて北近江にあり、織田軍と対峙していました。

ところが元亀三年(1572年)12月、義景は越前に引き上げてしまいます。


この越前撤兵に対し、信玄と顕如が義景を叱責した書状が残っています。

学生時代、大河ドラマ『武田信玄』が好きで、毎週欠かさず見ていました。

義景が撤兵したとの報を受け、信玄に扮する名優・中井貴一さんが「朝倉義景ェ~」と、憤慨しておられたシーンを今でも覚えています。

Q: もしも義景が撤兵しなければ、どうなっていたか……。

A: この時の包囲網における頼みは武田軍ですが、朝倉軍が撤退したから、信玄が退却したわけではありません。後に信玄が病によって兵を返した以上、いずれにせよ包囲網は崩れていたはずです。

逆に、武田軍が勝ち続けて、もしもそのまま尾張、美濃へと侵攻していたら、春になって雪が溶けてから、再び朝倉軍が南下することもできたのではないでしょうか。

そうすると、越前撤兵よりも、信玄病没のほうが、歴史的な影響は大きかったと私は思っています。

越前撤兵の時点で、信玄はまだ生きていましたし、これから!というタイミングでしたから、小説では愚行」として描きましたが、仮に義景が撤兵しなかったとしても、信玄が病魔に侵され武田軍が撤退した以上、信長は史実通り朝倉討滅に移ったでしょう。信玄の死は遺言により一応、三年間秘められましたが、織田方に分かってしまっていたようですね。

結局、撤兵の如何にかかわらず、朝倉家の運命は変わらなかったと考えます。


義景が越前に撤兵した理由は、よくわかりません。

例によって『酔象の流儀 朝倉盛衰記』では、〇〇の謀略によります。

吉家は必死で諫言しますが、義景は兵を引いてしまい、滅亡へのカウントダウンが始まることになるのです。

※一乗谷朝倉氏遺跡 湯殿跡庭園

赤神 (あかがみ・りょう)

1972年京都府生まれ。同志社大学文学部卒業。私立大学教授、法学博士、弁護士。2017年、「義と愛と」(『大友二階崩れ』に改題)で第9回日経小説大賞を受賞し作家デビュー。同作品は「新人離れしたデビュー作」として大いに話題となった。他の著書に『大友の聖将『大友落月記』神遊の城』『戦神』『妙麟』『計策師 甲駿相三国同盟異聞』 村上水軍の神姫』北前船用心棒 赤穂ノ湊 犬侍見参』『立花三将伝』などがある。

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