『燃えよ剣』司馬遼太郎/喧嘩師・歳三(岩倉文也)

文字数 2,264文字

書評『読書標識』、月曜日更新担当は詩人の岩倉文也さんです。

司馬遼太郎『燃えよ剣』(上・下)(新潮社)について語ってくれました。

書き手:岩倉文也

詩人。1998年福島生まれ。2017年、毎日歌壇賞の最優秀作品に選出。2018年「ユリイカの新人」受賞。また、同年『詩と思想』読者投稿欄最優秀作品にも選出される。代表作に『傾いた夜空の下で』(青土社)、『あの夏ぼくは天使を見た』(KADOKAWA)等。

Twitter:@fumiya_iwakura

人の一生を詩とするには贅肉が多すぎる。が、ときとして人は、人をして一編の詩たらしめようとする。古来、悲劇として語られてきた英雄の生涯がそれである。


日本における最古の例としては、ヤマトタケルの栄光と敗残の生涯がある。この父に見捨てられ、さすらいのうちに死なねばならなかった悲運の皇子の姿は、その後、英雄というものの一典型として、くりかえし顧みられ、語り継がれることになる。


一体に、日本人の考える英雄とは、つねに敗者の姿をとって現われた。英雄とは勝ち残ったものではなく、無残に敗れ去り、流謫のすえに死なねばならぬ存在だった。


たとえば中世で最も著名な英雄・源義経にしてもそうである。彼も兄に見捨てられ、逃亡の果て、奥州平泉の地で命を落とした。


こうして考えてみると、『燃えよ剣』に描かれた土方歳三の姿が、古代英雄の姿とだぶって見えてくるから不思議である。過去の英雄たちの、遠い遠い面影が、作中の歳三には刻印されている。と同時に、本作が語るのは、英雄が可能だった時代の終焉である。武と知、ともに優れた者の劇的な敗死こそが英雄の条件だとすれば、それが辛うじて可能だった時代は、幕末と呼ばれる動乱の一時期を最後に終わりを迎える。もちろん、歳三は英雄になる気などさらさらなかったであろうが、英雄とはなるものではなく、後世の人間の手を、そして口を通して勝手に作られるものであれば、これは異とするに足りない。


司馬遼太郎が『燃えよ剣』で描いたのは、新選組副長・土方歳三の生涯である。と、一言で片づけてしまってもいいような気がぼくはしている。乱暴者を意味する「バラガキ」と呼ばれ、喧嘩に明け暮れていた武州多摩での青年時代から、京都で新選組を組織し、その雷名を響かせた京都時代、そして戊辰戦争勃発後、各地で転戦を重ねつつ北へ北へと追い詰められてゆき、やがて函館において戦死するまでの歳三を一貫して「喧嘩師」として描き切った本作には、およそ余分と呼べる部分がないからだ。


あくまで作者は、土方歳三が歴史にどのような影響を与えたかについては語らず、彼の決断と行動をつぎつぎに語ってゆく。歳三もまた、多くを語らない。

歳三は、黙っている。歳三にとって、空疎(くうそ)な議論などは、どちらでもよい。かれの情熱は、新選組をして、天下最強の組織にすることだけが、自分の思想を天下に表現する唯一(ゆいいつ)の道だと信じている。武士に口舌は要らない。

それにしても本作が面白いのは、歳三がその本領を発揮した時期を、京都での新選組時代ではなく、戊辰戦争が勃発し京大阪を離れて以降にあるとしている点であろう。


戊辰戦争時代の歳三と言えば、京を追われ、新選組のメンバーも徐々に散り散りになり、最終的には近藤勇、沖田総司とも別れるに至る、いわば悲劇的な死への道行といった印象がぼくにはあった。しかし本作ではその逆である。歳三は頽勢になればなるほど、上機嫌になる。強くなる。たとえば次の、鳥羽伏見の戦いが始まろうとする前の歳三の述懐は異様である。

(いつ、はじまるか)

歳三は本来、眼ばかり光った土色の顔の男だが、ここ数日来、ひどく血色がいい。

生得(しょうとく)の喧嘩ずきなのだ。

それに、たとえ、一戦二戦敗れても、このさき百年でも喧嘩をつづけてやるはらはある。

(いまにみろ)

歳三は、ふしぎと心がおどった。どういうことであろう、――自分の人生はこれからだ、というえたいの知れぬ喜悦がわきあがってくるのである。多摩川べりで喧嘩にあけくれをしていた少年の歳三が、いま歴史的な大喧嘩をやろうとしている。

京都において、新選組副長として権謀術数を巡らせていた頃とはなんと大きな違いだろう。新選組を強固にするためなら暗殺も部下の処断も辞さなかった歳三だが、ことここに至って、ただ一人の喧嘩好きな「バラガキ」だけが残った。


これ以後の歳三の人生にあるのは、武士としての矜持と、喧嘩師の本能だけである。いや、思い返してみれば、歳三には最初から、その二つしかなかったのかもしれない。


西洋流の戦闘術にまたたく間に習熟し、自ら部隊を率い「喧嘩」を繰りかえす歳三。思想もなく、主義もない、その無償とも言える戦闘行為を指して作者は語る、「芸術家が芸術そのものが目標であるように、歳三は喧嘩そのものが目標で喧嘩をしている」と。


幕末の動乱期に、時流に抗って生き、無名のまま死んでいった数多の武士の闘志が、土方歳三という究極の典型を得て、ここに躍動している。彼の手にあるのは、一振りの白刃のみである。彼は敗れるだろう。無残に屍をさらすだろう。だがその屍から流れ出すものは血ではなく、英雄にのみ許された、清冽な詩情なのである。

『燃えよ剣』(上・下)司馬遼太郎(新潮文庫)
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