将門は今も東京を守る。「朝敵」を敬い続けた江戸っ子の意地。

文字数 3,463文字

大手町で生まれて神田で育ち、今じゃお江戸の総鎮守。

「江戸の総鎮守」神田明神。ここに祀られているのは実は、平将門その人だ。


討ち取られ晒しものにされた将門の首が京の都から飛んで来て、現在の首塚の場所に落ちた時、大地は鳴動し太陽は光を失い、人々は恐怖に畏れ慄いた。慌てて首塚を建てたのみならず、近くにあった神田明神にその霊を合わせ祀ったところようやく祟りは収まった、という。


そう。元々の神田明神は今の首塚の場所にあったんですね。

それが徳川家康が江戸に入府し、江戸城を整備する時あまりに目の前にあったので、他へ移すことになった。まず慶長8(1603)年に神田台に。次いで元和2(1616)年には現在地に移された。


実は今の神田明神の位置、江戸城から見ると鬼門の方向に当たる、という。鬼門とは「艮=丑寅」、北東を指し我が国では古来「鬼の去来する方角」とされ忌避される。そこに将門を祀る神社を置いた。つまりやって来る鬼=災いに対し将門に江戸を守ってもらおう、という意志が見えるわけですよ。祟り神を守り神へ、という逆転の発想ですね。


ただし、首塚だけは移せなかった。そこまでやってしまうと祟りが怖い。つまり首塚は前回に述べた大蔵省やGHQだけでなく、徳川幕府すら震え上がる存在だったわけです。

看板に偽りなし。今度はちゃんとバスに乗ります。

そんなわけで大手町から、神田明神に移動します。


例の北斗七星で言うと、この場所。またも端から順番に辿ることにはならないけど、由来からして首塚の後はやっぱりここへ行くべきでしょ!


最寄りの「神田橋」バス停から、都バス「東43」系統へ。出発地である東京駅丸の内北口からたった2つ目の停留所なんだから、さすがに時刻表通りに来るだろうだと睨んだんだけど、なかなか来なかったなぁ。天気はいいが風が冷たくて、あんまり外にたたずんで嬉しい日でもなかったんですけど。これも一つの祟りかなぁ。まぁ最初に首塚にお参りしたんだから、それはない筈だと思いたい。


結局、5分遅れでバスが到着。これ、東京駅前から東大の前を通って田端を抜け、荒川の河川敷まで行ってしまう私の中でも大好きな路線の一つなんだけど、今日はそんなには乗れない。3つ目の「御茶ノ水駅前」バス停で下車。


バスを乗り継いで神社の目の前まで行けなくはないけど、そっちの方が時間がかかってしまいそう。神田川を見下ろす道を、ぶらぶらと歩きました。じっと立ってると風が冷たいけど、動いている分にはそうでもありませんでしたからね。


ずっと以前に行った記憶を辿って、湯島聖堂を回り込むように歩いてみました。ただ後で調べたら、聖橋の立体交差で階段を上がって行った方が早かったみたいですね。まぁ、しょうがない。

邪推を繰り広げた結果、江戸っ子の心意気に胸打たれました。福岡生まれだけど。

そんなわけでやって来ました、神田明神。銅板葺きの鳥居からして存在感ありまくり、ですよねぇ。おまけに参道の奥に見える楼門がまた、荘厳そのもの


ただし今回は、楼門の脇に用があります。お宮の由緒を記した説明版。


「御祭神」として一の宮「大己貴尊=大国様」、二の宮「少彦名命=恵比寿様」、そして三の宮として「平将門」を挙げてある


確かに社伝によれば神田明神は天平2(702)年、武蔵国豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が、大己貴命を祖神として祀ったのが始まり、とある。大己貴は大国主命の別名ですから、出雲系の祖神であることは間違いないですね。 

ただねぇ。これまたずっと以前、神田明神に来た時たまたま祭神のご開帳日で、ありがたく拝ませてもらったんだけどやっぱりそれ、平将門の像だったんですよ。木像のように見えたけど、遠くから拝むしかなかったのでそこは明言はできない


前回も述べましたが関東を統治して京の天皇に刃向かった将門を、徳川幕府は尊重した。神田祭りは「天下祭り」とも言われ、神輿が江戸城内に入るのを許され将軍が上覧までしてた、というんですから。どれだけ大切にされていたかが伝わります。


ところが対して明治政府は、「朝敵」将門を何かと目の敵にしたんですね。それでも祟りのせいで、首塚を移すことは叶わなかったんですけど。そんなものを祀った神田明神を、明治政府は許せなかった。社格を格下げにしてしまった。幕府のことも憎かったから、それが崇敬してた神社ということで恨みを買った面もあったのかも知れません。


だから祭神である将門を、3番目まで落とすしかなかったんじゃないでしょうか。私にはそう思えてなりません。ただ、そんな目に遭ってもなお、ちゃんと氏神として将門の名を明記している。そこに江戸っ子の心意気を感じますよねぇ。さすがは「江戸の総鎮守」の面目躍如


そんな風に思ってお宮にお参りすると、ありがたさがまたひとしお、です。また立派な拝殿が、青空に映える映える。ここもまた首塚と同様、参拝客も多かったですね。


ただしこの内のどれだけが、ここの神様は実は将門、と承知してるんだろうか。ちょっと不安にもなりました。特に境内には、楼門をくぐったすぐ左手に大黒様の石像があり、その前で記念写真を撮っている姿が多かったし。うーん、まぁいいですよ。確かにこの神社の由来はこの神様に始まるし、祭神の一の宮にも挙げられてるし……

なんだかんだで時代を超えた「聖地」。いずれ立つか『ラブライブ!』の碑。

まぁいつまでもモヤモヤしてても始まらない。


実はこのお宮、更なる名物があるんです。

それが、これ。「銭形平次の碑」。若い人には、「聞いたことはあるけどよく知らないなぁ」って人も多いんじゃないですかね。「『ルパン三世』の銭形警部なら知ってるけど」なんて人も。


私らの小さい頃は大川橋蔵主演のテレビドラマで、大人気だったものですよ。子供はみんな平次のマネしてコインを投げ(話では逃げる悪人に銭を投げつけて捕らえるのがお約束)て、親から怒られてた(笑)。


その主題歌の歌詞に「なんだ神田の明神下で〜」とあった通り、平次の自宅は神田明神の立つ台地の下、という設定になっていた。だから所縁の地として、ここに石碑が立つことになったんですね。


笑うのが石碑がちゃんと、平次の投げる「寛永通宝」の上に立っていること。おまけに脇にも小さいのがあるのでよく見ると、これ子分の八五郎(通称「がらっ八」)の碑なんですね。


こうして見てると「がらっ八」が「親分てーへんだ、てーへんだ〜」と平次宅に駆け込んで来る姿が、浮かんで来るよう。返す返すも粋なところだなぁ、とつくづく感じます。


ただ、境内を歩いているとあちこちに可愛いアニメの絵が飾ってあって、何だこりゃ? と思ってたんですけど。後で調べたらこれ『ラブライブ!』という人気アニメで、神田界隈が主な舞台であり、この神社も何度も出て来てファンの間では「聖地」の一つになってるんですって。あぁ、そういうことかぁ。


若い参拝客も多かったから、そっちの興味で来ている人もいたのかも知れないですね。いえ、いいんですよ。色んな方向からとにかくここに興味を持ってもらって、参拝しに来てくれるのはいいことに間違いない。


ただねぇ。そしたらますます、「実はここは将門が」の意識が薄れて行ってしまうような……まぁそういう意味では、銭形平次も一緒、っちゃぁ一緒かーー


何だか「将門魔方陣」から離れて行ってしまいましたね。気を取り直して、次。いよいよ北斗七星の先端、鳥越神社に行ってみましょう!

書き手:西村健

1965年福岡県生まれ。東京大学工学部卒業。労働省(現・厚生労働省)に入省後、フリーライターになる。1996年に『ビンゴ』で作家デビュー。その後、ノンフィクションやエンタテインメント小説を次々と発表し、2021年で作家生活25周年を迎える。2005年『劫火』、2010年『残火』で日本冒険小説協会大賞を受賞。2011年、地元の炭鉱の町大牟田を舞台にした『地の底のヤマ』で(第30回)日本冒険小説協会大賞、(翌年、同作で第33回)吉川英治文学新人賞、(2014年)『ヤマの疾風』で(第16回)大藪春彦賞を受賞する。著書に『光陰の刃』、『バスを待つ男』、『目撃』、「博多探偵ゆげ福」シリーズなど。

西村健の「ブラ呑みブログ (ameblo.jp)」でもブラブラ旅をご報告。

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