第3話 麒麟が翔ける夜に出逢い。

文字数 2,571文字

 一晩中降り続いた雨が朝の訪れとともに()み、濡れた草木の輪郭(りんかく)を水滴が(すべ)る。(かすみ)がたなびき、そこにあるいのちたちが不鮮明になるこの時が好きだ。世界がレースカーテンのような薄いベールを身に(まと)うと、その内側にいる私のいのちは重さを手離す。湿気を(はら)んだ白が脳や心臓や肺に(めぐ)り、身体(からだ)中がぼうぼうとして、さっきまでしっかりと地面についていた足から力が抜けて浮遊する。()(じゅん)しているようだが、重さを手離すと深い呼吸ができた。

「はじめまして」
 もともと目が細いことも相まってか伏し目がちに挨拶をされたせいで、目が合っているのか合っていないのかわからなかった。その辺に黙って座っていられると、眠っているように見えるほどの(きつね)()(そう)(しん)とまではいかないが、すらりとした身体に小さな顔、変声期を迎える前のようにあどけなく、不安と緊張を隠し切れないような彼の声音は、ふわふわと宙を浮遊して私の耳に届いた。
(子どもみたいだなあ……)と思った。とうに成人しているはずだが、頭の小ささや顔のパーツもさることながら、まだ大人としての芯がしっかりしておらず、身体の中心で所在を求めて揺らめいているように見えた。

 平成三十年の四月、彼は桂浜水族館に入社し、主に魚類を担当するチームに仲間入りした。水辺で暮らす昆虫「水生昆虫」が大好きで、一番好きな昆虫は「ナベブタムシ」だと言った。いつか自分が採集したナベブタムシを桂浜水族館で展示し、この水族館を水生昆虫だらけにしたいとホームページのブログに(つづ)っていた。
 この日から、個性豊かな先輩飼育員達に翻弄(ほんろう)される彼のハマスイライフが始まる。

 桂浜水族館では魚類班が担当するイベントに、水槽の中で泳いでいるカクレクマノミたちとふれあうことができる「にもっちんぐ」というものがあった(現在中止中、再開未定)。このイベントは、桂浜水族館ならではのトレーニング方法でカクレクマノミたちを人に慣らしており、軽く握った(こぶし)を水槽の中にそっと入れた瞬間に、鮮やかな(だいだい)色と横断歩道の白の部分のような縞模様が特徴の魚の群れが一斉に集まってくることから、他の施設では体験できない上に、写真映えすると老若男女から人気があった。入社してすぐのゴールデンウィークに、彼はこのイベントを担当することになった。ブログには「テンション高く、皆さまの思い出づくりのお手伝いをさせていただきます」と綴られていたが、この頃の彼の「笑顔」はまだ作りものだったように思う。
 
 彼が入社してから約二カ月が経とうとする梅雨に、魚類班は毎年恒例のカエルの展示を始めた。魚類担当の飼育員がひとりひとつ水槽をレイアウトし、身近にいるものから珍しいものまで五種類のカエルを展示する。彼が担当したのは「二ホンアマガエル」の水槽で、カエルを採集してきた田んぼをイメージしてレイアウトしたそうだ。本人としては納得のいく出来だったみたいだ。そして彼は、カエルの展示場に「ヒル」の水槽を(もう)け、桂浜水族館初ヒルの展示を始めた。そのヒルは「ウマビル」という鮮やかな緑色の体に黄色のラインが入ったとても綺麗ないのちで、「ウミウシが海の宝石と呼ばれるなら、ヒルは田んぼの宝石だね」と、先輩と二人盛り上がっていた。ヒルと言えば血を吸うイメージがあるが、ウマビルは人の血を吸うことはなく、貝や水生昆虫などを食べて生活している。手に乗せてヒルを(いと)しんでいる彼の姿は、子どもがダンゴムシやカタツムリを捕まえて遊んでいる様子を思わせた。
 彼はきっと童心の中に生きているのだろう。いつもゆらゆらと揺らめく彼の芯は、型ができあがってしまった大人のそれとは違い、柔軟に形を変える。型にとらわれないという点で、彼はこの水族館と相性がいいのかもしれない。その揺らめきが未来に(つな)がるかもしれない。そんな風に思った(せつ)()、灰色の空から無数の光が落ちてくるのが見えた。光たちは草や花だけでなくプールの柵や水槽、通路や観覧席に溶けるようにして消えた。



 ある日彼は、「ハリセンボン」をモチーフにした生態解説のポエムを作り、曲をつけ、イベントと称して水槽の前でおもちゃのマイクを握って歌った。初めての試み、斬新さゆえに客ウケはお世辞にもあまりいいとはいえなかったが、子どもじみた発想の中に、彼の本当の形が見えた気がした。揺らめいているのは芯そのものではなく、確固たる芯が纏っている童心なのかもしれない。大真面目に歌いきった彼が、そこにいたお客さんに向かって少し照れ臭そうに「どうでしたか?」と言った。居合わせたお客さんも照れ臭そうに「面白いと思います」と答えた。
 ポエムは一作に留まらなかった。「ハリセンボン」の次は「ミノカサゴ」の生態解説ポエムが生まれた。だけど彼はもう歌わなかった。初めて水槽の前で自作のポエムを歌ってからずっと設置したままのおもちゃのマイクは、水槽の前でもう一度彼が歌うのを待ち続けている。

 彼が桂浜水族館の飼育員になってから初めての八月、夏休み限定のワークショップとしてストーンペイントを開催した。いろんな形の石に、参加者が好きなイラストを描いて世界にひとつだけのオリジナルストーンを作るというものだ。本来は小学生を対象とした子ども向けのイベントであったが、大人にも人気で、ワークショップは親子や中高生のカップルで全日 (にぎ)わっていた。ワークショップを開催するにあたり、彼はお手本の作品を作った。石の形に合った魚や、ヒルや昆虫を描いた。その中でも彼が傑作だと言ったのが、七個の石を使って描いた私だった。戦隊モノのロボットのように顔、胸、腰、手足が別々の石でできていて、七個くっつけて初めて「おとどちゃん」になるというものだ。戦隊ヒーローが好きな彼らしい作品だと思った。 

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続きは小説宝石3月号(2021年2月22日発売)でお読みください!

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