『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』大前粟生/なぜ、そんなにやさしいの(千葉集)

文字数 1,669文字

本を読むことは旅することに似ています。そして、旅に迷子はつきものです。


迷えるあなたを、次の場所への移動をお手伝いする「標識」。

この「読書標識」はアナタの「本の地図」を広げるための書評です。


今回は、千葉集さんが、『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』(大前粟生)について語ってくれました。

やはり表題作の話をしましょうか。

十九歳の主人公・七森は、京都のある大学でぬいぐるみサークルに属しています。サークルの主な活動は、ぬいぐるみに語りかけ、つらさや悩みを吐露すること。

七森は、数少ない、ぬいぐるみに話しかけない会員のひとりです。といっても、つらさや悩みを抱えていないわけではありません。むしろ人一倍心優しく感じやすいせいで、いつも苦しんでいます。

ネットで目に入る陰惨な性差別やヘイトクライムのニュース、人間関係、友人たちの発する無神経な一言、ジェンダーレスな部分の大きい自分を「男らしさ」の枠にはめようとする世間の圧……とりわけ身近な問題として彼を苛むのは、大学生の日常のそこかしこにあふれる恋愛や性愛の話題です。

七森には恋愛というものがよくわかりません。


それでも周囲を眺めると恋や愛が当たり前に流通しているようで、どうも参加しないと輪から外れてしまうらしい。「自分だけ繋がれない、疎外感みたいなもの」にちなむコンプレックスと、恋愛を楽しめることへの羨望が彼を脅迫します。

そうして恋愛感情があるかどうか確信を持てないまま白城という友人に告白し、付き合いはじめてしまいます。

七森は他人を傷つけることを極度に恐れます。はっきりものをいったら相手を不快に思わせてしまうのではないか。返事するタイミングがズレたら、接触したら、告白したら相手を害してしまうんじゃないか。究極的には、自分が男性であるという事実そのものが相手を切り裂いてしまうのではないかーー。


自らの性欲にも怯える彼は、「ひとりでだいじょうぶなら僕は、ひとりでだいじょうぶでいたい」と念じさえします。


そのまま世捨て人にでも転じそうなものですが、さにあらず。彼は踏みとどまります。あくまで外部と接点を保とうとします。つながりこそが彼を不安にしているのに。

見たくないなら見なければいい。聞きたくないなら聞かなければいい。

ネットのどこかで火の手があがるたびにささやかれる常套句です。

孤立こそは、あなたを救ってくれる唯一の出口。自分が自分でいるための最後の楽園。


ほんとうに?


作家のレベッカ・ソルニットは「孤立のイデオロギー」(『それを、真の名で呼ぶならば』岩波書店)と題したエッセイで、「孤立とはいいことである。自由とは断絶である」とするアメリカ人好みのアイデアに異を唱えました。

望もうと望むまいと、われわれは生態系や社会といったネットワークの一部なのであり、その相互的な関わりから逃れることではできない。孤絶の行き着くさきは、「事実の実在」の否定である。なぜなら事実も系統的なネットワークの上に成り立つものだから。ネットワークから断絶した自由の半歩向こう側には真実の捏造がある、とソルニットは主張します。


孤立の空間では、世界的な危機を眼前にしたとしても、その実在を否定できるのです。実際に滅びを迎える、その際までは。

滅びたくないのなら真っ向から挑むしかない。ところが現実はあまりに広漠で鬱々としていて、直視するにたえません。そのネガティブな質量に気圧された大多数の人間は眼をそむけて、こうつぶやきます。しょうがない。そういうものだ。いまさら何ができる?

しかし、七森はたくましい。「どんな被害もどんな加害も自分と無関係ではない」と、ときにわかりあえない他者を憎みそうになりながらも、今にも砕け散りそうになりながらも、とり乱しながらも、関わりあうことは放棄しません。人を好きになることも諦めない。世界を誠実につなごうとします。


そのやさしさが、まぶしいほどに強靭で、ちょっとうらやましくなっちゃうな。

千葉集

ライター。はてなブログ『名馬であれば馬のうち』で映画・小説・漫画・ゲームなどについて記事を書く。

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