オンライントークイベント開催記念! 星野太『食客論』の一部を期間限定大公開!

文字数 15,976文字

星野太さんの新著『食客論』が刊行されました。


世界最古の職業――かつてフランスの哲学者ミシェル・セールは「食客」をそう言いました。友でもなければ敵でもない、曖昧な他者である「食客」=「パラサイト」という存在は、西洋では古代ギリシアの喜劇、日本では任侠映画の渡世人などさまざまに描かれてきました。


本書は美学、表象文化論を専門とする星野太さんがロラン・バルトやルキアノス、カール・シュミット、ハンナ・アーレントから九鬼周造、北大路魯山人までさまざまなテクストに潜む「食客」という形象を自在に論じた評論集です。


3月26日(日)14時から、ジュンク堂池袋本店にて『不審者のデモクラシー ――ラクラウの政治思想』などの著者で、政治思想・政治理論を専門とする山本圭さんとのオンライントークイベントを開催予定。


詳細・お申込みはこちらから!

https://online.maruzenjunkudo.co.jp/products/j70019-230326



オンライントークイベントを記念して、『食客論』の中から山本さんの『不審者のデモクラシー』が登場する「第六章 異人」を期間限定で全文公開します。


ぜひ奮ってイベントにご参加ください!

第六章 異人

 ここまでわれわれが論じてきた食客とは、いわゆる「不審者」とも相通じる存在であるように思われる。繰り返しになるが、ここでいう食客とは、友でもなければ敵でもない、ある中間的な他者のことである。さらに前章において、われわれはキケロとシュミットに抗して、古代ローマ以来の「海賊」という形象もまた、そうした「中間的な他者」のうちに含めてきたのであった。それは、伝統的に「絶対的な他者」として表象されてきた海賊をその軛(くびき)から解放し、それをわれわれの内なる─あるいはむしろ、内と外の境界にいる─他者として構想する試みであった。つまり、内にいるのでもなければ外にいるのでもない、ある近傍の存在者として。


 これら曖昧な形象は、今日であればいっそ「不審者」と言ってしまったほうが、むしろ耳馴染みがいいかもしれない。げんに、ふだんわれわれが不審者とみなすのは、空間的にはおのれに近接していながら、それとわかる明白なアイデンティティを欠いた胡乱な人間のことであろう。それは「排除された、もしくは包摂を拒むようなアウトサイダー」ではなく、われわれのすぐ傍らにいる「不気味な隣人」のことである(*1)。おそらくだれもがみとめるように、通常そう言われるところの「不審者」は、われわれの社会のいたるところで目撃され、あるいは警戒され、場合によってはしかるべき機関に報告されている。だが、そもそも不審者とはだれのことなのか。すこし考えてみればわかるように、かれら不審者を不審者として同定しうるような、共通の特徴など存在しない。あなたが任意の人物を不審者とみなすとき、そこで照らし出されるのはむしろ、当該の人物を不審者とみなす、こちらの認識の枠組みのほうであろう。いささか身も蓋もない言いかたをすれば、ある人物が不審者であるかどうかの境目は、ひとえに「時と場合による」というほかない。あなたも、わたしも、時ところ変われば、すぐさまだれかにとっての不審者へと転じる。


 われわれが「共−生」ならぬ「寄−生」とよぶものについても、これとほとんど同じことが言える。世にいう「共生」という口当たりのよい言葉は、そこに存在するはずの不均衡や不平等を、時に覆い隠してしまうことがある。だからこそ、われわれはここで─「共生」ならぬ─「寄生」という言葉を枢軸とする、あらたな共同体の姿を構想しようと試みたのだった。そうした広義の「寄生」の根幹にあるのは、「寄生するもの」と「寄生されるもの」との非対称的な関係である。あらゆる食客(パラサイト)は宿主の存立を前提とするが、この両者の関係はなんら固定的なものではなく、ひとたび異なる状況のもとにおかれれば、各々の立場はまたたく間にひっくり返る。われわれの現実的な生の様態は、AからBへの、BからCへの、CからDへの……という連鎖的な寄食構造にもとづいている。いかにおのれが「自立的な」主体であると強弁しようと、このモデルの場合、周囲から完全に自立した主体というものが、そもそも成り立ちえない。われわれは、つねになにものかに寄生しつつ、おのれの軀を養っている。その反対もまた然りであり、われわれの軀はごく即物的な意味で、ほかのさまざまな生き物に寄生されている。そのことは、たとえば「持ちつ持たれつ」といったよくある言い回しによって、日常的にも意識されていると言えるかもしれない。しかしながら、そうした穏当な言い回しが、ここで問題としているような現実と合致することはけっしてない。なぜなら、われわれはそうした全面的な寄生関係を意識するはるか前に、そのような関係を生きてしまっているからである。



ソクラテスと食客



 紀元前五世紀のエーゲ海周辺─アテナイやスパルタをはじめとする当時の主要な都市国家─にも、むろん不審者なるものは存在したはずだ。これまで見てきた古代ギリシア・ローマにおける食客の系譜学をいったん締めくくるにあたり、最後に二人の人物を取り上げたい。それは、以前にも登場ねがったソクラテス(前四七〇−前三九九)と、それに劣らぬ数多くの伝説によって知られるディオゲネス(前四〇四?−前三二三)である。


 ソクラテスとディオゲネス。この二人を並べて論じる理由には、じっさいのところ事欠かない。まず基本的な事実として、両者ともに、本人の書きものはいっさい残っていない。あまりによく知られたことではあるが、ソクラテスは生前なにひとつ書物を残すことなく、アテナイ市中で人々に問答をふっかけ、ついには若者をたぶらかした罪で死刑を宣告された。他方のディオゲネスの場合、生前の業績には諸説ある。三世紀前半に執筆された『ギリシア哲学者列伝』には、ディオゲネスは『富について』や『死について』をはじめとする数々の書物を残したという記述がある。しかしそうかと思うと、その直後の異説では、ディオゲネスもソクラテスと同様、いっさい書物を著すことはなかったと書かれている(*2)。いずれにせよ、かりにディオゲネスがなにがしかのことを書き残していたとしても、すくなくとも今日のわれわれがそれを読む手立てはない。


 また第二の事実として、ソクラテスとディオゲネスがともに、デルポイの神殿でおのれの運命を決定づける神託を賜っていたということが挙げられる。これもよく知られた言い伝えであるが、「ソクラテスよりも賢い人間はいない」という神託を人づてに聞いたソクラテスは、アテナイ市中で問答法を開始し、いわゆる「無知の知」の自覚へと至る。これこそ、以来二五〇〇年以上にわたり続く、西洋哲学史のひとつの始まりをなすエピソードにほかならない。かたやディオゲネスは、同じくアポロンから「国家に流通するものを変造せよ」という不可思議な神託を授かり、後述する通貨変造に手を染めたとされる。それにより、ディオゲネスは故郷シノペを追放され、アテナイに流れてキュニコス(犬儒派)の哲学者となった。これら「問答法のソクラテス」と「犬のディオゲネス」が、いずれもその書きものではなく、その社会的な振る舞いにより記憶されることになったというのも、奇妙な符合である。


 こうしたソクラテスとディオゲネスの鏡像関係は、これまでにもつとに指摘されてきた。かのプラトンが、ディオゲネスのことを「狂ったソクラテス」と言ったというのも有名な話である(*3)。いわばこの二人は、紀元前四、五世紀のアテナイにおける、哲学の二つのパラダイムを体現する存在なのだ。


 ところで、はじめにものべたように、われわれがここで問題としている「不審者」とは、いわゆる(類型的な)不審人物のことではない。それは、おのれの不確かなアイデンティティによって、ある空間を支配しているさまざまな法をかき乱しにやってくる、そのような効果(エフェクト)をもった人間の総称である。それをなるべく日常的なまなざしのもとで捉えるために、まずはポリスという公共空間ではなく、いまもふつうにあるような限られた範囲の集会─たとえば宴会(シュンポジオン)─に目をむけてみたい。


 それは、たとえばこんな光景である。外敵との戦争に勝利した将軍が盛大に祝杯をあげるべく、その場を共にするにふさわしい人々を宴に招待する。かれら招待客はもちろんのこと、連れ立って参加するその家族や友人も、とうぜん数に入れておかねばならない。とはいえ、数人の気心の知れた友人どうしならばともかく、それなりに大きな規模の酒宴となれば、そこにいくらか「不審な」人間が紛れ込むことは避けがたい。そうした食客の原型とも言える人物を、われわれはプラトンの『饗宴』のなかに見いだすことができる。俗にいう「招かれざる客」であるところのその人物は、のちの伝記作家プルタルコスによって「影(σκιά)」と称される。それは、いくぶん規模の大きな宴会の「招待客」の種類についてのべた、『食卓歓談集』のある一節に登場する。



 他方、われわれが影法師(スキアー)とよぶたぐいの招待客は、招待主が招いたのではなく、ほかの招待客のお供として宴会にやってくる人々のことである。さて問題は、この慣習がいつから始まったのかということだが、ある人々が言うには、これはソクラテスから始まったとのことである。つまり、ソクラテスがアガトンのところに行くさいに、招待されていないアリストデモスを誘ったのが、その始まりだというのである。そしてアリストデモスは、ある愉快なことにぶつかった。道中、彼はソクラテスが後ろに取り残されてしまっていることに気づかぬまま、アガトンの家にやってきた。つまり、彼は影法師を地で行ったわけだ。というのも、光が後ろから射すとき、影はおのずと身体の前を行くからだ(*4)。



 他人にくっついて宴会にやってくる、そのような人物をプルタルコスは「影」とよんだのだった。むろん、ここで書かれているように、そうした「招かれざる客」が当の宴会を大いに盛りあげてくれるとなれば、招待主も喜ぶこと請け合いである。その始末も含め、ここでソクラテスのお供としてアガトンのもとにやってくるアリストデモスこそ、われらが食客の遠い祖先である─あるいはそのように言えるかもしれない。通常、われわれがプラトンを通して知るソクラテスは哲学の産婆であるが、プルタルコスを通して伝えられるこのソクラテスは、むしろ食客の産婆である。


 われわれはすでに第四章において、哲学者ソクラテスとその影としてのソフィストについて、ひと通りのことを論じておいた。簡単にその概要を振り返っておくなら、そこでは「哲学者」対「ソフィスト」というお決まりの対立を突き崩すための第三者として、われらが「食客」をそのいずれでもない場に定位したのであった。もっぱらソクラテスを中心に展開されるプラトンの対話篇が、ソフィストという有象無象の影から「哲学者」ソクラテスを救い出す試みであったことはつとに知られている。しかし、そこでソクラテスの傍らにいたのは、くだんのソフィストばかりではなかった。すくなくとも先の『饗宴』におけるアリストデモスは、ソフィストとは異なるもうひとつの影として、ソクラテスにつきしたがっていた。さらにご存じのように、アリストデモスは『饗宴』において、ソクラテスの生前の姿をアポロドロスに語り伝えた当の人物でもある。かくして、哲学者やソフィストと同じく言葉によって身を立てるべき食客は、哲学誕生の原光景にしかとその姿をとどめているのである。



ディオゲネスの伝統



 ここから論じていくのは、そのソクラテスと表裏をなすもうひとりの哲学者である。かのディオゲネスこそは、内と外の境界線をいくども踏み越えながら、その内外を隔てている法にたえず揺さぶりをかける、その典型とも言える人物にほかならない。


 ここであらためてディオゲネスのことを紹介するにあたり、いったいどのようなエピソードから始めるのがもっとも適切だろうか。たとえばこんな言い伝えがある。あるときアレクサンドロス大王がやってきて、日光浴をしているディオゲネスに「何でも望みのものを申してみよ」と言った。それに対するディオゲネスの返答は、「あなたがいると日陰になるから、そこをどいてほしい」というものだった(*5)。それとも昨今では、ミシェル・フーコーの「パレーシア」という概念の出どころである、と言ったほうがむしろ通りがよいだろうか。この世でもっとも素晴らしいものは何か、と問われたディオゲネスは、「パレーシア」すなわち「公然とすべてを言うこと(言論の自由)」がそれであると言った(*6)。これらのエピソードをはじめ、今日まで伝わるディオゲネスの人となりには、権力をものともせず、おのれの言いたいことを公然と言う人物であるという印象がつきまとっている。


 このシノペのディオゲネスについて、今日われわれが知り得ることのほぼすべては、紀元三世紀に書かれたとされる『ギリシア哲学者列伝』を典拠としている。そのほかには、ディオゲネス本人の書物はもちろんのこと、その具体的な思想内容を伝える文献も、まったくと言っていいほど残っていない。にもかかわらず、ディオゲネスは西洋哲学史において、長らく特権的な地位を保ちつづけてきた。それというのも、かの『列伝』に読めるエピソードの数々が、この人物の例外性をきわめてよく伝えてくれるものばかりだからである。


 すでにのべたように、哲学史において、ディオゲネスはもっぱらキュニコスを代表する哲学者として知られている。これはもともとソクラテスの弟子アンティステネスによって創始された学統であるが、いまやキュニコスと言えば、もっぱらそのアンティステネスの弟子たるディオゲネスに結びつけられるのが常である。キュニコスをめぐって、ニーチェが「この地上で達成しうる最高のもの」と絶賛を惜しまなかったのも、具体的にはこのディオゲネスの生きざまにほかならない(*7)。


 ディオゲネスは、両替商ヒケシアスの息子として、紀元前五世紀末のシノペに生まれた。だが、アポロンの神託を誤って解し、当地で流通していた通貨を粗悪なものにつくり変えたために、故郷を追放されることとなった(このエピソードの真偽についても諸説ある)。それから各地を流れたディオゲネスは、最終的にアテナイで哲学を修めることになる。そのため、いわばこの通貨変造が「哲学者ディオゲネス」の誕生につながった、その原光景であると言うことができる。そうした理由もあり、通貨変造というこの謎めいた出来事は、過去にもさまざまな推理の対象となってきた(*8)。だが、われわれがむしろ注目したいのは、このシノペ追放後のディオゲネスをめぐる、次のようなエピソードのほうである。


 それによると、あるときディオゲネスは航海中に海賊に捕らえられ、ついにはクレタ島で奴隷として売りに出されたという。これは、メニッポスの『ディオゲネスの競売』をはじめとする─いずれも散失した─複数の文献を介して『ギリシア哲学者列伝』に伝わった、比較的信憑性の高いエピソードのひとつである(ちなみに、前にもふれたルキアノスの『哲学諸派の競売』は、この『ディオゲネスの競売』に着想を得て書かれたものであるらしい)。それが伝えるところによると、奴隷市場において「おまえはどんな仕事ができるのか」と問われたディオゲネスは「人々を支配すること」であると答えたという。そして、クセニアデスという人物をおのれの主人として「逆指名」したディオゲネスは、首尾よくその家に入り込む。しかも、もともと奴隷として買われたはずのディオゲネスは、やがてその家の教師として、むしろ子供たちを教育する立場に転じるのだ。『ギリシア哲学者列伝』には次のようにある。



 メニッポスが『ディオゲネスの競売』で書いているところによると、ディオゲネスが捕らえられたとき、お前はどんな仕事ができるかと尋ねられた。すると「人々を支配することだ」と答えた。そしてお触れ役にむかって、「だれか、自分のために主人を買おうとしている人はいるか、と触れ回ってくれ」と言ったそうである。また、そのさい坐ることを禁じられると、「そんなことはどうでもよい。魚だって、どんなふうに並べられていようと売られていくのだから」と答えたという(*9)。



 そしてディオゲネスは、おのれの買主であるクセニアデスに対して、なるほど自分は奴隷であるが、自分の言うことには従ってもらわねばならない、と言ったという。というのも、かりに医師や操舵士が奴隷であったとしても、その人の言うことには従わねばならないだろうから、と。そうして、ディオゲネスはクセニアデスの息子たちを教育し、最後はかれらに手厚く葬られたという。『ギリシア哲学者列伝』には、これと内容をほぼ同じくするもうひとつの記述がある。こちらのほうがやや詳しいため、さきほどの記述とあわせて読んでみてもいいだろう。



 ディオゲネスは、奴隷として売りに出されたときにも、まことに堂々とした様子でこれに堪えた。というのも、かれはアイギナ島への航海中に、スキルパロスの率いる海賊どもに捕らえられ、クレタ島に連れていかれて売りに出されたからである。そして触れ役が、お前はどんな仕事ができるのかと尋ねると、かれは「人々を支配することだ」と答えた。そのさい、ディオゲネスは紫の縁飾りのある立派な衣服を身に着けたコリントス人、すなわちさきほどのクセニアデスを指さして、「この人におれを売ってくれ、かれは主人を必要としている」とも言ったのだった。クセニアデスはかれを買い取って、コリントスへ連れ帰り、自分の子供たちの監督に当たらせ、家のこといっさいをディオゲネスに委ねた。じっさいかれは家事全般をひじょうにうまく取り仕切ったので、主人のクセニアデスは「よきダイモーンがわたしの家に舞い込んだ」と言いながら、そこらじゅうを歩き回ったほどである(*10)。



 このエピソードは、ともすると「主人」と「奴隷」の鮮やかな逆転を例証するものとして、いくぶん拙速に読み過ごされるおそれがある。だが、ここでディオゲネスは─さながらヘーゲルにおける「主人」と「奴隷」の弁証法のごとく─奴隷としてのおのれの立場を超克したのではない。それ以外のさまざまなエピソードにも鑑みると、ディオゲネスという人間はむしろ、奴隷から主人へ、主人から奴隷へ、といったように、おのれの社会的アイデンティティをたえずつくり変えるものである─おそらくそのように言うべきではないか。


 げんに、それ以前のディオゲネスは、ポリスでもっともよく知られた「ホームレス」であった。罪人として故郷を追われ、どこにも住むべき家をもたぬディオゲネスは、いつもひとり甕のなかで生活していた。アテナイに流れ着いたとき、すでに五〇歳を超えていたこの哲学者は、食器をはじめとする家財道具をいっさいもたず、大甕のなかで清貧な暮らしを送っていた。そうかと思えば、人々の説得におそろしく長けたこの人物は、クセニアデスばかりでなく、市中のさまざまな人間の尊敬を集める賢人でもあった。なかでも、かのアレクサンドロス大王がディオゲネスに示したこのうえない賞賛は、この人物の伝説的な評価を考えるうえで、およそ語り落とすことのできないものである。いずれにしても、ディオゲネスは市内でもっとも惨めな乞食であると同時に、エジプトからインドにまたがる大帝国を支配した王をして「ディオゲネスになりたい」と言わしめた賢人でもあったのだ(*11)。



異人と都市国家



 ここから次のように言うべきだろう。ディオゲネスの前では、ふだん人々が当然のものとしている社会的な法や規範が、ほとんどその意味を失う。さかのぼると、「国家に流通するものを変造せよ」というかつてのアポロンのお告げは、まさにこうした「社会通念」の変革を意味していた。すくなくとも『ギリシア哲学者列伝』の記述は、そのような断言とともに始まっている。



 ある人たちによると、かれは職人たちを監督する立場にあったとき、まわりに勧められてデルポイに─あるいは祖国にあるデーリオンに─おもむいて、職人たちから言われたようなことをすべきかどうか、アポロンの神に尋ねた。するとアポロンは、国のなかで流通するものを変えることを許したのだが、ディオゲネスはその意味を取り違え、通貨のほうを粗悪なものにつくり変えたのである(*12)。



「貨幣」と「社会通念」は、いずれも「国家に流通するもの」を意味する「ノミスマ(νόμισμα)」という言葉で言い表すことができる。そしてディオゲネスは、本来「社会通念」であるところのものを誤って「貨幣」と取ったために、かの通貨変造に手を染めたのだ。いささかできすぎたストーリーではあるが、結果的にディオゲネスは、たしかにこの神託を成就したのである。


 このディオゲネスのような、共同体における例外的な人物をさす言葉のひとつに「クセノス」がある。これは、基本的にポリスの外からやってきた「異人」のことであるが、場合によっては同じような意味で「客人」と言いかえることもできる(それゆえ、ここには広義の「食客」も含まれる)。さらに言うと、この「ξένος」は─たとえばフランス語における「hôte」と同じく─「主人」と「客人」の双方を意味することができる。こうした「主」と「客」の識別不可能性を体現するものとして、ディオゲネスこそは、この「クセノス」という形容に大いに似つかわしい存在である。


 それだけではない。一般的な事実としても、通貨変造のかどで故郷を追われてきたディオゲネスは、アテナイという都市国家に流れてきた異人(クセノス)にほかならなかった。また、公衆の面前での自慰行為をはじめとするそのふるまいも、市中の人々を大いに当惑させる異人のそれであった。ディオゲネスは社会のなかに完全に溶け込むことなく、たえずその常識に揺さぶりをかけ、かつそれによっておのれの軀を養っていた。げんに、ディオゲネスその人が、おのれをアテナイという都市国家そのものの食客であると考えていたふしがある。



 ディオゲネスは、食事をとるのにも、眠るのにも、話し合いをするのにも、あらゆる場処を利用した。そしてそのようなとき、かれはゼウスの神殿の柱廊やポンペイオンを指さしながら、アテナイ人は自分のために住みかをしつらえてくれる、と言ったものだ(*13)。



 ディオゲネスは食客である。ただし、かれはクセニアデスに買われたときのように、これと決めた特定の人間のもとにとどまることはしない。いましがた見たように、いつも大甕のなかで暮らしていたディオゲネスは、ひとりの人間を宿主とする食客ではなく、アテナイという都市そのものの食客なのだ。しかもこの人物は、ほとんど所有物とよべるものをもたないおのれもまた、べつの生き物を食客として養っているという自覚をもっていた。というのもかれは、テーブルのうえを走り回るネズミにむかって、「ディオゲネスもまた食客を養っている(καὶ Διογένης παρασίτους τρέφει)」と言ったとされるからである。


 では、この有数の都市国家の食客たるディオゲネスは、つまるところそこで何をしていたのか。あるいは、何をしようとしていたのか。これは無意味な問いかもしれないが、『ギリシア哲学者列伝』を読んでいると、この問いに対するひとつの答えが浮上する─ディオゲネスは、人間を探していたのだ。



真のコスモポリタン



 これについては、三つのエピソードがある。


 あるときディオゲネスは、広場で「おおい、人間ども!」と叫んだという。しかし、そこにわらわら人が集まってくると、かれは杖を振り上げて人々に迫りながら、「おれがよんだのは人間だ、がらくたなんぞではない」と言った(*15)。またあるときは、日中に煌々とランプの火をともし、「おれは人間を探しているのだ」と言った(*16)。また、ディオゲネスがオリュンポスから帰ろうとしていたとき、人はおおぜい集まっていたかね、と尋ねるものがいた。それに対しディオゲネスは、「大勢だった。しかし人間はわずかだった」と答えたという(*17)。


 これら三つのエピソードに出てくる「人間」とは、原文ではすべて「アントローポス(ἄνθρωπος)」である。ディオゲネスは、アテナイで日々「人間」を探していた。別様に考えると、かれにとって、そこらじゅうにいる人間は「人間」ではなかった。そのように言うべきだろう。


 では、ディオゲネスが考える「人間」とはいかなるものなのか。それについて、なにか具体的なことを教えてくれる文献はない。おそらくディオゲネス本人も、それをはっきりと明言したことはなかったのだろう。というのも、さきほどの三つのエピソードに共通しているのは、これらがいずれも実定的な命題ではないということにあるからだ。ディオゲネスの発言はむしろ、それを聞くもののうちに「人間とはなにか」という問いを惹起することを意図しているように思われる。


 ディオゲネスは「人間」を探していた。「人間」とはなにか。この人物によれば、それはわれわれが知るところの人間ではないらしい。ディオゲネス本人にも、その問いに答える用意があったかどうかは疑わしい。しかしいずれにしても、こうした言葉にふれるとき、われわれは「人間とはなにか」という問題について考えることを余儀なくされる。いささか逆説めいたことながら、われわれが人間という存在について真に考えをめぐらせるには、そこに含まれることのない存在、すなわち非−人間の存在が不可欠である。ヒトという生物種は、あくまでひとつの生物学的なカテゴリーにすぎない。人間とはなにか、という問いは、われわれがおよそ人間でないようなものと接したときに、はじめてひとつの問いとして結晶する。


 異人たるディオゲネスがアテナイにもたらそうとしたのは、まさしくそのような問いにほかならなかった。人間とはなにか─われわれはいまだその答えを知らない。ゆえに、われわれは人間を探さなければならない。それが、哲学者ディオゲネスが投げかけた核心的な問いであった。


 これに関連してもうひとつ、よく知られたエピソードを挙げておきたい。これが、われわれが『ギリシア哲学者列伝』から引く最後のエピソードである。



 あなたはどこからやってきたのかと尋ねられると、かれは「コスモポリテース」と言った[ἐρωτηθεὶς πόθεν εἴη, “κοσμοπολίτης,” ἔφη](*18)。



 ごく短いやりとりながら、これも、ディオゲネス伝のなかでもっともよく知られたエピソードのひとつである。ここで「コスモポリテース」というのは、今日でいうコスモポリタン─すなわち「世界市民」─のことである。このディオゲネスの発言は、時にカントの世界市民主義のルーツであると言われたりもするが、それはいささか無理があるというものだろう。というのも、この短いやりとりから、当のディオゲネスの真意を推し量ることなど到底できないからだ。


 まずはこのやりとりを逐語的に見てみよう。ここでの問いは「あなたはどこからやってきたのか」というものである。「コスモポリテース」というディオゲネスの返答は、この問いに対するものであった。ここには、ごくわずかだが、いくらかの齟齬が見られる。ここでディオゲネスはおのれの来たるところを問われているわけだが(加来彰俊はこれを「あなたはどこの国の人か」と訳している)、これに対してかれは「(わたしは)コスモポリテースである」と言うことで、その答えにかえている。


 ディオゲネスが言う「人間」がいかなる存在であるのか、その明示的な定義が与えられていないとすれば、われわれはその内実をあれこれ推測するほかない。そのさい、ポリスにおける異人としてのディオゲネスが「コスモポリテース」を自称していたという事実は、やはり見過ごすべきではないだろう。ここまでの議論を総合すると、異人であり、真のコスモポリタンであるところのディオゲネスこそ、「人間とはなにか」という問いをわれわれのもとに運び来たる不審者であった。不審者とは言っても、それはむろん身元不詳の何ものかではない(*19)。市中のだれもがディオゲネスを知っている。にもかかわらず、そのアイデンティティはけっして詳らかでない。こうした特殊な存在様態をもった人間こそ、社会にあまねく行きわたる種々の通念にとどまらず、その構成員たる「われわれ」に大きく揺さぶりをかけるところのものなのである。



この世界の異人



 はじめにものべたように、われわれが知るディオゲネスの姿は、『ギリシア哲学者列伝』に収められたわずかな断片を通してかろうじて再構築されたものにすぎない。それゆえ、ここまで見てきたような「ディオゲネス」は─「ソクラテス」がそうであるように─多かれ少なかれ、後世においてつくり出されたキャラクターであると考えるべきだろう。とりわけディオゲネスについては『列伝』以外のテクストがほぼ皆無でありながら、後世の人々の関心の高さゆえに、これまで無数の疑わしいテクストが発表されてきたという事情もある。


 ごく最近でも、かのバラク・オバマが愛読しているという触れ込みでベストセラーとなった一般書のなかで、ディオゲネスが中心的な狂言回しの役割を演じていたことは、そのひとつの証左となるだろう。そこで紹介される「ディオゲネス」は、社会通念などものともせず、アレクサンドロス大王という巨大権力を前にして一歩も退かない、英雄的な人物として紹介されていた。こうした筋書きからも予想されるように、同書における「ディオゲネス」は、ハーマン・メルヴィルの小説に登場する「バートルビー」のごとく、さまざまな社会通念に抵抗を示した神話的な人物として奉られることになる(*20)。さしあたりその是非はおくとしても、このような読みは結局のところ、ディオゲネスをあるわかりやすいキャラクターへと還元し、それをわれわれの時代における抵抗の象徴として、いくぶん軽んじることになりはしまいか。


 ここまでの内容からも明らかであるように、実のところディオゲネスは、ただ漫然と社会に抵抗していたわけではない。これは『ギリシア哲学者列伝』というテクストの性格に拠るところも大きいが、この人物をめぐる数々のエピソードは、むしろ強い一貫性を欠いた、とらえどころのない人物としてのディオゲネスをわれわれに伝えている。つまるところ、ディオゲネスは犬であり、奴隷であり、大王に一目おかれる賢人である。これとほとんど同様に、つねに主であり客である「クセノス」は、けっしてひとつのものにとどまることなく、知覚しえぬほどに複雑な様相の転換を通じて、たえずおのれの姿を変容させていくだろう。かりにそこから引き出すべきなんらかの教義があるとすれば、それはいかにも通俗的な「抵抗」の身振りではなく、根本的にはみずからが世界に対してまったく「異なるもの」であるという認識へと到達することではないか。


 われわれひとりひとりが、この世界の異人(クセノス)であるということ。それは、おのれがこの世界の食客(パラシートス)であるという自覚に、ほとんど等しい。わたしは世界を喰らい、わたしは世界に喰らわれている。そうした言いかたがいくぶん強すぎるなら、いっそ次のように言いかえてもよい。わたしは世界を甘嚙みし、わたしは世界に甘嚙みされている。わたしと他なるものとの出会いは、たんなる「喰うか、喰われるか」とも異なる、そうした口唇的なエステティクスのもとにある。


 われわれの食客論は、最後にこの存在論的口唇論によって締めくくられる。そのために、あらゆる偶然的な「出会い」を、たんなる形而上学の問題としてではなく、それを「味わう」というエステティクスの問題として示した、ひとりの哲学者に登場ねがうことにしたい。九鬼周造である。

註「第六章 異人」

*1 山本圭『不審者のデモクラシー─ラクラウの政治思想』岩波書店、二〇一六年、一七頁。同書は、エルネスト・ラクラウの政治思想をもとに、この「不審者」という形象を政治哲学の俎上に載せた数少ない試みである。

*2 DL 6. 80.(『ギリシア哲学者列伝(中)』加来彰俊訳、岩波文庫、一九八九年、一七六−一七八頁) 『ギリシア哲学者列伝』の底本には次のものを用いる。Diogenis Laertii Vitae philosophorum, Miroslav Marcovich (ed.), Stuttgart, Bibliotheca Teubneriana, 1999-2002.引用のさいはDL 1.2のように巻数と節番号を明記する。同書の日本語訳はおおむね加来彰俊訳に依拠したが、訳語や文体の統一上、適宜修正を加えている。 

*3 DL 6. 54.(一五四頁)

*4 Plutarch, Quaestiones Convivales, 7. 6.(プルタルコス『食卓歓談集』柳沼重剛編訳、岩波文庫、一九八七年、一八九頁) プルタルコスによるこの一節は、丹下和彦『食べるギリシア人─古典文学グルメ紀行』(岩波新書、二〇一二年、一七四頁)から教示を得た。

*5 DL 6. 38.(一四一頁)  

*6 DL 6. 69.(一六七頁)

*7 ミシェル・オンフレは、ディオゲネスと「食」をめぐって書かれた洒脱なエセーのなかで、このニーチェの言葉を引き合いに出している。Michel Onfray, Le Ventre des philosophes. Critique de la raison diététique, Paris, Grasset, 1989, II. « Diogène ou le goût du poulpe ».(ミシェル・オンフレイ『哲学者の食卓─栄養学的理性批判』幸田礼雅訳、新評論、一九九八年、第二章「ディオゲネスとタコの味」)

 これ以外にもオンフレは、おのれの叢書からディオゲネスにまつわる文献を刊行するなど、今日におけるディオゲネスの再発見を積極的に推し進めてきた人物のひとりである。だが、その内容は厳密に学問的なものではなく、そこには人々の耳目を集めるためのさまざまな歪曲が含まれていることは否定できない。たとえば次の文献は、オンフレみずから序文を寄せ、叢書「Universités populaires & Cie」に加えたものだが、これが「ディオゲネスの新発見テクスト」であるというのは、どのように考えても誇張か虚偽である。Diogène le Cynique. Fragments inédits, présentés et traduits par Adeline Baldacchino, Paris, Autrement, 2014.

*8 この「通貨変造」をめぐる─世界的に見ても─もっとも充実した文献のひとつが、山川偉也『哲学者ディオゲネス─世界市民の原像』(講談社学術文庫、二〇〇八年)である。同書は、現地視察を含めた綿密な調査・考証を土台としながら、ディオゲネスによるこの「通貨変造」問題について、数々の興味ぶかい仮説を示している。

*9 DL 6. 29.(一三四頁) 

*10 DL 6. 74.(一七一−一七二頁)

*11 DL 6. 32.(一三七頁) 

*12 DL 6. 20.(一二七頁) 

*13 DL 6. 22.(一二九頁) 

*14 DL 6. 40.(一四三頁)

*15 DL 6. 32.(一三六−一三七頁)

*16 DL 6. 41.(一四四頁)

*17 DL 6. 60.(一五九頁)

*18 DL 6. 63.(一六二頁)

 ペーター・サンディが言うように、この「コスモポリタン」という言葉のルーツをディオゲネスに求めることは可能であるにしても、その政治的な含意は、のちのカントにおいてはじめて示されたとみるべきであろう。それはとりもなおさず、ディオゲネスに帰される「コスモポリテース」という語彙が、『ギリシア哲学者列伝』のこの一節に登場するにすぎないからである。ちなみにサンディは、この「コスモポリテース」をめぐるやりとりが─ディオゲネスではなく─従来しばしばソクラテスに帰されてきたことを、モンテーニュの『エセー』を引き合いに出しながら示している。Peter Szendy, Kant chez les extraterrestres. Philosofictions cosmopolitiques, Paris, Minuit, 2011, pp. 59-60. 

*19 山川偉也は『哲学者ディオゲネス』において、この「クセノス(異人)」をめぐる議論を「ウーティス(だれでもないもの)」というべつの語彙へと接続している(前掲書、一四三頁)。だが、われわれの理路はむしろ、この「クセノス」と「ウーティス」を分けて考えようとするものである。ホメロスの『オデュッセイア』において、ポリュペーモスに捕らえられたオデュッセウスが用いた偽名が「ウーティス(Οὖτις)」であった。これは代名詞の「だれでもないもの(οὔτις/nobody)」を転用したものであり、この機転によってオデュッセウスは命からがら危機を脱する。このエピソードをめぐる詳しい考察については、次を参照のこと。Daniel Heller-Roazen, No One’s Ways: An Essay on Infinite Naming, New York, Zone Books, 2017, pp. 7-11.

*20 Jenny Odell, How to Do Nothing: Resisting the Attention Economy, New York, Melville House, 2019.(ジェニー・オデル『何もしない』竹内要江訳、早川書房、二〇二一年)

星野 太(ほしの・ふとし)

1983年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。現在、東京大学大学院総合文化研究科准教授。専攻は美学、表象文化論。主な著書に『崇高の修辞学』(月曜社、2017年)、『美学のプラクティス』(水声社、2021年)、『崇高のリミナリティ』(フィルムアート社、2022年)。主な訳書にジャン=フランソワ・リオタール『崇高の分析論――カント『判断力批判』についての講義録』(法政大学出版局、2020年)などがある。

傍らで食べるもの――それはだれか?

ロラン・バルト、ブリア=サヴァラン、フーリエ、ルキアノス、キケロ、カール・シュミット、ディオゲネス、九鬼周造、北大路魯山人、石原吉郎、ポン・ジュノ、メルヴィル、アーレントらのテクストに潜む、友でも敵でもない曖昧な他者=「食客」。彼らの足跡をたどり、口当たりのよい「歓待」や「共生」という言葉によって覆い隠されている、「寄生」の現実を探究する。

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