多和田葉子『変身のためのオピウム/球形時間』/あたしは眠る革命家(岩倉文也)

文字数 2,268文字

書評『読書標識』、月曜日更新担当は詩人の岩倉文也さんです。

多和田葉子『変身のためのオピウム/球形時間』(講談社)について語ってくれました。

岩倉文也

詩人。1998年福島生まれ。2017年、毎日歌壇賞の最優秀作品に選出。2018年「ユリイカの新人」受賞。また、同年『詩と思想』読者投稿欄最優秀作品にも選出される。代表作に『傾いた夜空の下で』(青土社)、『あの夏ぼくは天使を見た』(KADOKAWA)等。

Twitter:@fumiya_iwakura

頻繁に自分というものが稀薄になる。それまで積み上げてきた経験や記憶や技術や、そういった全てがふいにゼロになってしまう瞬間が存在する。


そのときぼくは真に生きている、のだと思う。つまり、そうした真空状態こそが生きることの実相なのではないかという予感が、不快な戦慄を伴ってぼくの全身を駆けめぐる。


ぼくは呆然としながら自室を隅々まで観察する(〝見る〟ことが自分を保つ唯一の手段であることをぼくは知っている)。目に付くところには本と埃しかない。喉の奥に酸っぱい唾が溜まっているのを感じる。前歯の表面を舌でなぞると少しざらざらしている(ぼくは早急に歯を磨かねばならない)。


自分が稀薄なとき、大してできることはない。田舎に住んでいた頃のぼくであれば、こうしたときは散歩に出かけた。人によって散歩とは思索の時間であるそうだが、ぼくの場合、散歩とは思考停止の時間である。周囲の風景、匂い、音、などを身体に取り込んで、より自分を虚しくする行為。向かい火のように、虚しさには虚しさをもって、立ち向かう。


けれど東京ではそんな気にもなれない。ぼんやりしていたら自転車に轢かれてしまう。東京とはどこへ行くにも目的が必要な街だ。目的のない者が出歩くには、東京は広すぎる。


広くもなく狭くもない場所。どこに居ようと例外なく訪れることのできる散歩道は、活字のなかに見出すことができる。活字によって作られた道の上を歩いてゆくことは、ときにオピウム(阿片)のように甘美な虚しさをぼくに与えてくれる。


多和田葉子の中編小説を二作収めた『変身のためのオピウム/球形時間』。特に「変身のためのオピウム」は、詩と散文の、物語と非物語の境界に築かれた白色の都市を思わせる。


本作は二十二の断章から成っており、それぞれの断章はローマ神話の女神たちと同じ名前をもつ女性たちが主人公となっている。そしてその殆どの断章に登場する〝わたし〟が、各断章をゆるく繋ぎ合わせ、ほどき、また繋ぎ合わせる。

〝わたし〟の存在は、物語の進行に従ってどんどん稀薄になってゆく。

「あなた、そこにいるの? いないの?」

わたしは、ぼんやりしていると、自分がそこにいることを忘れてしまうことがある。そういう瞬間にはわたしはどうやら透明になって光を通してしまうらしい。

「どこにいるの?」

   ポモナが呼んでいる。わたしは急いでこの世に戻ってくるが、自分がこれでありたいという人物をそこに見つけることができない。

(「第十六章 ポモナ」)

〝わたし〟は、どうやらこの小説の作者でもあるらしい。そう取れる描写が作中にはいくつも見られる。ならば本作がメタフィクション、あるいは入れ子構造の小説なのかと問われると、それにも疑問が残る。なぜなら肝心の〝わたし〟が、物語を書き終える前に作中から姿を消してしまうからだ。

わたしも又、路地を歩くのが好きなたくさんの通行人の一人だった。ある日、わたしは手袋でも失くすように、自分自身を失くしてしまった。それ以来、自分がどこを歩いているのかよく分からない。もしかしたら、わたしも、一本の路地になってしまったのかもしれない。

(「第二十章 アリアドネ」)

どこまでが内側なのか、どこからが外側なのか分からない、無国籍的、神話的な物語の切れ端が、活字となって道を作る。道は複雑に入り組んでいる。どこかに辿り着きそうで、決してどこにも辿り着くことのない、袋小路へつづく道。ときおり標識が立っている。そこには見る者をハッとさせるような、ぞくぞくさせるような、啓示を与えるような、安心させるような、陶酔させるような言葉の連なりが貼り付いている。たとえ物語の地図がなくとも、そうした言葉の輝きを見つめているだけで、本作の魅力は十分に味わえるはずだ。

「世界の物質性を重んじる作者は、比喩を使わないものです。そういう作者が、わたしの妻は白鳥です、と書いたら、奥さんは本当に白鳥なのです。」

(「第三章 ダフネ」)


「あたしは眠る革命家。だから、眠りの中にしか変革はないって、信じているの。」

(「第六章 サルマシス」)


本はネズミ捕りの罠に似ている。ネズミは情熱的な読書家である。

(「第十章 テティス」)


「人生は水平な墜落である」と言った作家は、オピウムのせいで、植物に変身してしまったそうだ。

(「第二十章 アリアドネ」)

本作は月の女神ディアナと同じ名をもつ少女が、ベッドで本を読みながら眠りに落ちる場面で終わりを迎える。この最も短い断章は、読書という行為への純一な願いに満ちていて美しい。ここが行き止まりである。そうして元来た道を引き返そうと振り向くと、そこにはもう、見知らぬ領土が広がっているのだ。

『変身のためのオピウム/球形時間』多和田葉子(講談社)
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