『サーカスから来た執達吏』アナザー・ストーリー

文字数 2,586文字

2019年、『絞首商会の後継人』で第60回メフィスト賞を受賞し、同年、改題した『絞首商會』でデビューした夕木春央さん


デビュー作について、有栖川有栖さん

「昭和・平成のミステリ技法をフル装備し、乱歩デビュー前の大正時代半ばに転生して本格探偵小説を書いたら……。そんな夢想が現実のものになったかのような極上の逸品。この作者は、令和のミステリを支える太い柱の一つになるだろう。」

と絶賛した、新進気鋭のミステリ作家です!


そんな夕木さんの待望の第2作目となる『サーカスから来た執達吏』が文庫化!

そこで単行本刊行時書下ろしのアナザー・ストーリーを掲載します!

【エフアラネジー】


 西洋式のキッチンの隅の小さな椅子に腰掛けたわたしは、膝のうえに家庭料理の本を開いた。西洋菓子のページを探しだすと、ユリ子のかわりに読んだ。

「たまごとお砂糖と牛乳と、それからメリケン粉ですって。そろっているかしら?」 


「ええ。そろってるわ」


 いつもどおりの、国籍不明の民族服を着たユリ子が答える。


「それから、レモンが要るみたいですけれど、あるかしら?」


「あるわ」


 ユリ子は電気冷蔵庫からひょいとレモンを掴み出した。それを、ガス台のそばにポンと置いた。


「どうしたらいいの?」


「まず、たまごの黄身と白身を分けるんですって。そう書いてあるわ」


「そう? わかったわ」


 わたしの言ったままに、ユリ子はたまごを割る仕事にとりかかった。


 お料理ならわたしよりもユリ子のほうがはるかに熟達しているし、このキッチンも普段はユリ子が使っているところだ。なのに、今日に限ってわたしが先導をとっているのは、ユリ子には文字が読めないからだった。このサーカス出身の少女は、生まれてこのかた一度も学校に通ったことがないという。


 いま作ろうとしているのは、お料理の本に載っていた『エフアラネジー』という西洋菓子なのだ。わたしもユリ子も、作り方はおろか、そんなものは聞いたこともなかった。たまたまお料理の本の中にみつけて、どんなものだかたしかめてみようかしらという気になったのである。


 器用にたまごの黄身を掬いあげるユリ子を横目に、わたしは戸棚を開けて、お砂糖のラベルの貼られたびんだとかを探した。それから、ちょうど良さそうな鍋を選んだ。


 ユリ子の調理器具や食器などは、二年まえの大地震のあとに東京を引きはらったおうちからもらってきたものがほとんどで、上等でしっかりしているけれども、古くて少し傷のついているものが多い。


 さて、つぎはどうするのだったかしら? ふせていたお料理の本を取り上げるわたしに、ユリ子は言った。


「これってどこの国のお菓子かしらね」 


「さあ、どこでしょうね。西洋にはちがいないのでしょうけどね。西洋菓子のところに載っているんですから」


 前後のページをパラパラめくってみるけれども、この謎のお菓子の素性は何にも記されていない。


 文中からヒントを探そうとするわたしを、ユリ子はまるで異国の奇妙な風習を観察するみたいに、興味しんしんで眺めている。


「文字ってふしぎねえ。しゃべったひとがいなくて、言葉だけがあるんでしょ? へんなおはなしだわ」 


「幽霊みたいにおっしゃるのね。べつに変だってことはないのじゃないかしら? 便利なものよ」


「ええ、便利でしょうねえ」


 ひとごとみたいにユリ子は言う。 


「あら、ユリ子さんだってわたしに小説を朗読させたりするでしょう? それに、むかしの文明のことがわかったりするのだって文字のおかげだわ」


「そうねえ。でも、あたし文字って垢みたいなものだと思うわ。みんながぽろぽろ撒き散らすから、世界中がだれのかもわからない文字まみれになっちゃってるもの」


「──まあ、そんな風にも考えられるかもしれませんわね」


 小説を書いているわたしには、ちょっと耳の痛い話でもある。


「ですけど、垢ならどうせそのうち腐ってなくなってしまうでしょう? そんなに気になさることないわ」

「ええ。あたし気にしないわ。でも、文字って考えたらなんだかおかしいわ。八百屋さんで、柿をならべたところに『柿』って書いた札がついてるんでしょ? みたらわかるのに。あたし読めないからいいけど、もし読めたらおかしくて笑っちゃうと思うわ。

 あたしも文字が読めたらいいのにって思うことあるけど、できないことってしかたないもの。鞠子ちゃんにやってもらうわ」


 ユリ子はわたしにそう言った。 


「それはもちろん、文字を読むくらいはお安い御用ですけれどね」


 わたしはあらためてお料理の本に目を落とした。


「つぎは──、ユリ子さんは白身を泡だてて下さる?」 


「ええ」


 ユリ子が白身をカシャカシャとかきまわすあいだに、わたしは黄身とメリケン粉とお砂糖を混ぜ合わせる仕事をした。


 それに牛乳を加えようというとき、わたしはふと、混ぜたものをスプーンですくい、舐めてみた。


 たちまち、自分がじつにつまらない失敗をしたことに気がついた。


 わたしは、ずっとお砂糖と思い込んでいた、白いもののはいったびんを、ユリ子に差し出した。


「ねえ、このお砂糖のラベルって──」


「あら! それ、砂糖って書いてあるの?」


 やっぱりだ。


 キッチンの調度品はもらってきたものなのだ。文字の読めないユリ子が、お砂糖のラベルのついたびんにお塩をいれていたって不思議はない。それを、うっかり文字が読めるばっかりに、わたしはお砂糖と思い込んでいたのである。


「でも、砂糖も塩もよくみたらわかるのよ。粒のかたちがちがうわ」


 気抜けしたわたしに、ユリ子はのんきに言った。


〈参考文献〉

『経済で滋養ある日々のお惣菜』秋穂益実 鈴木書店

(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/955439)

密室から忽然と消失した財宝の謎。
14年前の真実が明かされる
怒涛の30ページに目が離せない。
『方舟』で注目される作家・夕木春央の本質がここにある!


「あたし、まえはサーカスにいたの」
大正14年。莫大な借金をつくった樺谷子爵家に、晴海商事からの使いとしてサーカス出身の少女・ユリ子が取り立てにやって来た。返済のできない樺谷家は三女の鞠子を担保に差し出す。ユリ子と鞠子は、莫大な借金返済のため「財宝探し」をすることにした。調べていくうちに近づく、明治44年、ある名家で起こった未解決事件の真相とはーー。

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