和田 竜・司馬作品との出会い 「司馬遼太郎」

文字数 1,620文字

 


司馬遼太郎の小説でいうと、『竜馬がゆく』が別格である。僕の名前が坂本龍馬にちなんだものであり、大学2年のときはじめて読んだ司馬作品がこれだったからだ。

 僕は小学生ぐらいのころから男の子の生き様というかモラルのようなものを漫画の主人公やヒーローアニメ、アクション映画に求める傾向があって、大学生になってもそんなものばかり読んだり観たりしていた。

 ところが、大学も2年生にもなると何だか生き様を求めるには、それらのものでは足りない(今考えれば、もっと別ジャンルのものを読んだり観たりすればいいだけの話だったかも知れないが)ような気がして、夏休みに暇を持て余したとき、手に取ったのが『竜馬がゆく』であった。

 言うまでもないことだが、これが本当に面白い。

 しかし、話の構造は、僕がこれまで読んできたヒーロー漫画と同じである。たいていのヒーロー漫画が初回から自らの異能を発揮するのと同様に、坂本龍馬も、自らの能力(背がでかい、喧嘩が強い、女にモテる、やたら人に好かれる、物怖じしない、実は聡明等々)を獲得するのに目立った苦労をすることもなく、それらを駆使して難局を乗り越えていく。また龍馬には、褒めてくれる他人(武市半平太や西郷隆盛など)が絶えず存在していて、龍馬がそれらの人々に評価される言葉を聞いて、読者はまるで自分が褒められているかのような錯覚を覚える。

 こういったヒーロー漫画の構造は、僕が自ら抽出した秘訣だと思っていたのだが、漫画編集者の間では常識らしい。主人公が褒められる回になると、読者アンケートの順位が際立って上がるのだという。逆に、主人公が逆境に陥り、そのままその回が終わったりすると順位は一気に下がる。

 司馬遼太郎は、現在でも漫画編集者が使うコツを何十年も前に取り入れていたわけだ。取り入れたというよりも、読者を飽きさせずに物語を続けようと思えば、このような形に収斂していくのかも知れない。

 加えて『竜馬がゆく』には、ヒーロー漫画にはほとんどないファクターがある。それが史実をベースにしているという点だ。

 歴史小説の成り立ちを知らなかった僕は、小説の全部が全部、事実に基づくのだと思い、坂本龍馬もスーパーヒーローそのものだと信じ、熱狂した。そして今もって僕の坂本龍馬像は『竜馬がゆく』の坂本龍馬のままだ。多くの日本人にとってもそうなのではないか。

『竜馬がゆく』以降、むさぼるように読んだ小説の中で、司馬遼太郎は様々なヒーロー像を提示してくれた。

『燃えよ剣』の土方歳三では、残忍さがヒーローらしさにつながっていくという不思議な主人公像を、『花神』の大村益次郎では、究極の変人がヒーローという、ほとんど二十一世紀のものかと思わせられるような主人公像を、『義経』の源義経では、復讐に燃えた、人間としては欠陥だらけの、現在の映画のマーベル作品を思わせるようなヒーロー像を、それぞれ僕が生まれるか生まれないかの頃に書いている。

 現在、映画では昔なじんだコミック等のヒーローを現代風に解釈し直して、今の観客の鑑賞にも堪えるような人物像にするといった動きがたくさん見られる。ヒーローだけれども異常にわがままとか、ヒーローだけれども異常に暗いとか、その他さまざまな要素を主人公に盛り込み、複雑化して既存の主人公を生まれ変わらせる。

 だが、僕たちはとてもヒーローとは思えない人物像をもってヒーローとし、主人公とした物語を、司馬作品を通して知っている。僕はそれらの映画を観るとき、何だか懐かしいような思いがするのである。

 僕自身の小説にも、不届きな主人公や登場人物がぞろぞろ出てくる。これは映画や漫画の影響もさることながら司馬作品の登場人物像の影響が相当大きい。

「小説現代特別編集二〇一九年五月号」より

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み