〈4月7日〉 凪良ゆう

文字数 1,464文字

「おまえ、ほんとついてない女だよな」
 大吉が頰杖でつぶやき、あたしは湿気った煎餅を一口かじった。
 本当だったら今ごろ、あたしは書店大賞の授賞式に出席して、今年の大賞受賞作家として一世一代の晴れ舞台に立っていたはずだ。それが自宅で冷戦中の旦那と並んで、ぼうっとテレビを見ている。画面にはでかでかと緊急事態宣言とテロップが出ている。
 今年に入って新型コロナウイルスが世界中に蔓延し、あらゆるイベントと共に書店大賞授賞式も中止となり、さらに発表だった本日、日本史上に残る緊急事態宣言が出された。
「でかい本屋とか明日から臨時休業なんだろ?」
「うん、さっき編集からメールきてた」
「授賞式中止はともかく、本屋が閉まるんじゃ手も足も出ないな」
 ずっと応援してくれた書店の人たちの無念を思い、あたしは歯を食いしばった。
「あんたも、せっかくの正社員登用取り消しになったんでしょ?」
「さっきメールがきて、元々の派遣も切られた」
「名前に反して、あんたもほんっとついてない男だよね」
 会話が一周してしまった。というか朝からもう百周くらいしている。国も仕事も家庭もすべてが緊急事態で崩壊寸前、ここまで重なると嘆く気力もない。大酒を食らって現実逃避したいところだけれど、あいにくあたしはある事情によりそれもできない。
 我が家の夫婦仲は二ヵ月前から最悪だ。ちょうどコロナ騒ぎが本格化してきたころ、大吉が同じ派遣会社の女と浮気をしたのだ。こんなときになにやってんのよと、あたしは大吉が収集している美少女フィギュアを真っ二つに折り、長い冷戦に突入した。
「とりあえず俺、明日からバイト探すわ」
「外出自粛中だよ」
「家族が増えるんだから、ぼけっと無職やってる余裕ないだろ」
 どきりとした。大吉はあたしの膨らんだお腹を見ている。
「これは食べ過ぎただけだから」
「おまえ、俺のことどんだけバカだと思ってるんだ」
「嫁が妊娠を報告しようとしたその夜に浮気バレしたウルトラ級のバカ」
 大吉は黙り込んだ。
「……だよな。そりゃあフィギュアも真っ二つにされるわ」
 大吉はおもむろにソファから下り、床に正座をし、申し訳ございませんでしたと土下座をした。たっぷり三十秒ほど経ったあと、それでさ、と大吉が顔を上げた。
「子供の名前、ジョージにしようか」
 なんじゃそらと眉をひそめるあたしの耳に、朝から繰り返し聞いて耳にタコな「ヒジョージタイ」「ヒジョージタイ」というアナウンサーの声がきこえる。なるほど、そうきたか。非常時から常時へと、願いを込めた名前とも言える。しかし女だったらどうするのだろう。
 ほんとバカなやつ……と、あたしはお腹に手を当てて天井を仰いだ。
 世界には危険なウイルスが蔓延し、父は失業中、母の仕事も先行き不安。すべてが非常事態な世に生まれてくるジョージ。あんたも両親に似てついてないのか?
 まあ、でも、あんまり心配しすぎないでおこう。あたしたちの船は小さいけど、あんたという新しい命を乗せて、なんとか向こう岸に辿り着くだろう。未来という名の岸から岸へ、遥か昔から、あたしたちはそうして続いてきたんだから。


凪良ゆう(なぎら・ゆう)
滋賀県生まれ。「小説花丸」2006年冬の号に中編「恋するエゴイスト」が掲載される。翌年、長編『花嫁はマリッジブルー』で本格的にデビュー。2020年『流浪の月』で第17回本屋大賞を受賞。

【近著】

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