〈5月15日〉 竹本健治

文字数 1,350文字

 5月15日はストッキングの日だそうだ。
 だからというわけじゃ全然なく、あたしは先週買った、とっておきのストッキングを穿()いて家を出た。
 アテなんかない。ただ、家にじっとしていられなかった。外出自粛なんて関係ない。マスクのことだって頭をかすめもしなかった。
 空は嘘みたいに真っ青だ。街は人通りがほとんどなくて、それも嘘みたいだった。そんななかをあたしはぐるぐると歩きまわった。しばらくすると今まで見たことのない風景になって、それでもかまわずに歩き続けた。
 やがて遠くに観覧車が見えてきた。あたしは引き寄せられるようにそちらに向かった。こんなときだからきっと休園だろうと思ったけど、着いてみると遊園地はあいていた。ただ、なかはまるで貸し切り状態だ。あたしはそのまま観覧車のところまで行って、ほかに誰も乗っていない籠のひとつに乗りこんだ。
 ぐわらん、ぐわらん、ぐわらん、ぐわらん。
 観覧車ってこんな大きな音がしたっけ。あたしはぼんやりそう思った。
 籠はゆっくりゆっくりあがっていく。
 あたしは自分の膝に眼を落とした。穿き心地のいい黒のストッキング。よく見ると濃い紺色に少し紫が混じっている。それが光の角度によってキラキラと虹色に輝く。その輝きに魅せられて、ちょっと値が張ったけど、いつかの特別の日のために買ったのだ。
 だけどそのときはもう来ない。昨日彼に電話で別れを言い渡されてしまったから。もう終わりにしよう、こんなときだからちょうどいいだろ、なんて言葉で。
 何も言えなかった。涙も出なかった。あのときあたしは壊れたのだ。
 ぐわらん、ぐわらん、ぐわらん、ぐわらん。
 あたしはいきなりストッキングに爪を立て、両脚ともビリビリに引き裂いた。穴だらけになったところで手を止め、じっと見つめた。ズタズタのストッキングはあたしの胸のなかをそのまま映したようだった。
 そのとき突然アレが来た。周期はずれの、特別ひどいやつだ。あたしはそれがじわじわとシートにまで染みひろがっていくのを感じていた。
 サ・イ・ア・ク──。
 あたしは自分だけじゃなく、何もかも壊れてしまえ、炎に焼かれて崩れ落ちてしまえと思った。そんな願いで頭がはちきれそうだった。
 ぐわらん、ぐわらん、ぐわらん、ぐわらん。
 そうするうちにあたしはふと気づいた。地上の風景が頭の上にひろがっていることに。
 シートもさかさまだ。天井に貼りついたシートから血がぼたぼたとしたたり落ちて、もうあたしは血まみれだった。
 そして分かった。そうだ。何もおかしいことはない。
 あたしはいつのまにか――もしかしたらずっと前から、違ったところに来てしまっていたのだから。


竹本健治(たけもと・けんじ)
1954年兵庫県生まれ。大学在学中にデビュー作『匣の中の失楽』を探偵小説専門誌「幻影城」に連載し、1978年に刊行。日本のミステリ界に衝撃を与えた。『涙香迷宮』で「このミステリーがすごい!」2017年版国内編第1位、第17回本格ミステリ大賞に輝く。近著に『狐火の辻』など。2020年7月に『これはミステリではない』刊行予定。

【近著】

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