七月/日

文字数 4,579文字

1日1冊、3年で1,000冊の本を読み、月産25万字を執筆し続ける小説家・斜線堂有紀。


謎めいた日常はどのようなものなのか――

その一端が今ここに明かされる。


毎月第一・第三月曜日、夕方17時に更新!

夕暮れどきを彩る漆黒の光・”オールナイト”読書日記が、本日も始まる。

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7月/日

 Audibleで楽しんでいたカズオ・イシグロ「クララとお日さま」を読了──聴了? する。物語がAF(人工親友・いわゆるアンドロイド)であるクララの一人称で進んでいくので、まるでクララが思い出話を聞かせてくれているかのような気持ちになってとても良かった。Audibleで聴くのにとても適している本というのがあって、個人的にはフィリップ・マーロウのシリーズもそうだと思う。マーロウが語ってくれているようで耳馴染みがよく、『大いなる眠り』と『さよなら、愛しい人』を購入した。紙の本で持っていても欲しいタイトルがある。(個人的にマーロウは『さよなら、愛しい人』が一番好き。私は愛に殉じる人間が好きなのだ)


 「クララとお日さま」は、先ほどの言ったようにAFを主人公にした物語である。購入者は賢く利発だが病弱な少女・ジョジー。クララとジョジーは少しずつ交流を深めていく。本書の三分の一までは、聡明であるのにどこまでも無垢なクララの目を通した瑞々しい世界が描かれており、聴いていて幸せな気持ちになる。


 だが、中盤になってくると、この物語での社会は「向上処置」なるゲノム編集処置が大きな役割を担っていて、向上処置を受けられた人間と受けられなかった人間で、明確な格差があるというシビアなものだと明かされる。そして、ジョジーが人よりもずっと病弱なのは、その向上処置の副作用であるということも。


 明るく優しいクララの目を通して描かれるから気づきにくいが、本書の世界はゆるやかに進行の進むディストピアだ。そのことに音声を通して徐々に気づかされる体験は、唯一無二だったように思う。逆に言えば、このクララの目と澄んだ声さえあれば、この世界であろうとも光に満ちたものに思わされてしまうということに衝撃を受けた。


 そんなわけで、話としても構造としても面白い一冊だったのだが、何より印象的なのは、クララが段々と独自の宗教概念を獲得していくところだ。死に瀕するジョジーを救う為、クララはお日さまと交渉をしようとする。こうしてみると荒唐無稽な話なのだが、クララの思考を追って行くと、確かにお日さまというものは意思を持ち、人々の願いを聞き入れてくれる存在のように思えてくる。お日さまにはそんな機能は無い、クララの努力は明後日の方向を向いている、という気持ちと、人智を超えたAFだからこそ真理を理解しているのでは? という狭間の緊張感が、この小説独自の読み味を醸し出していく。やわらかくて、とても怖い。


 Audibleで一冊を聞き終えた後は寂しい気持ちになる。お風呂に入っている時や、家事などをしている時にずっと傍にあった物語だから、別れを強く感じる。今度は同じカズオ・イシグロの『夜想曲集』か、オルハン・パムクの『わたしの名は赤』にしようと思っている。どちらの方がよりシャワーの音と合うだろうか。



7月☆日

 7月17日に円居挽先生とのオンラインミステリトークイベント『円居塾』が開催される。というか、この日記が更新される頃には開催されて終わっている。このイベントではミステリに関する話とともに『デビュー前に読んで自分もこれを書きたい! と思った憧れの一冊』を紹介することになっている。私はそのお題にワクワクしながら二冊をセレクトしたのだが、なんと二冊とも入手困難だということで、急遽別の作品を紹介することになった。


 けれど、円居塾の為に読み直したこの二冊の本がどうしても紹介したいので、ここで取り上げてしまうことにする。両方とも大切な本なので!!


 一冊目がリチャード・フラナガンの「グールド魚類画帖」だ。これは孤島に流刑されたグールドという画家が描いた魚の絵と共に彼の生涯を追っていく連作短篇集で、本の中にはグールドが実際に描いた魚の絵がフルカラーで載っている上に、本文の文字色も作中で使われている素材によって違うのだ。(カンガルーの血の赤褐色や、鉱石の青、ウニの棘を磨り潰して作った紫など)この時点で、この本がどれだけ憧れの本か分かると思う。


 満潮になる度に水でいっぱいになり、天井まで浮かび上がる劣悪な独房で必死に絵を描くグールドの苛烈な日常は、フラナガンの美しい文章で極限まで中和され、どこか穏やかな印象さえ与えてくる。『──魚が一匹死ぬたびに、世界からはその生き物の分の愛の量が減るんだろうか?』


 ピカレスクロマンでもあり、空想と現実の境目を描くマジックリアリズムの物語でもある『グールド魚類画帖』は、ジャンルを自由に横断する作家を志向する私にとっては、理想の物語でもあった。あの切なく美しい結末が忘れられず、人生の一冊になっている。


 二冊目がティツィアーノ・スカルパの「スターバト・マーテル」。孤児院で育った少女・チェチリアは天才的な音楽の才能を持っているが、それが正しく見出されることはなかった。しかし、アントニオという神父と出会い、彼女の運命は大きく変わっていく。


 一言で言ってしまえば才能の話で、もっと言ってしまえば才能の為にどれだけ自分の人生を捧げるべきかという物語でもある。チェチリアは求婚者を見つけ、ただの女として幸福になる道を提示されているが、アントニオ神父は彼女の才がむざむざと埋もれゆくのを良しとしない。それと同時に、アントニオ神父は神から与えられたチェチリアの才に隠しきれない嫉妬の念を抱く。嫉妬とは、相手の才を正しく理解しているからこそ湧き上がる感情であり、焼け付く思いは愛情に似ている。そのことを深く感じさせてくれたのがこの一冊で、だからこそ円居先生におすすめしたい本でもあった。


 アントニオ神父のモデルはかの有名なヴィヴァルディであり、随所の描写にそれが表れている。私はこの小説からヴィヴァルディをよく聴くようになり、その音楽の裏にチェチリアの影を見ている。私が歴史を題材にした小説を好きな理由も、この小説の影響が大きい。


 この二冊のどちらかが取り上げられたら嬉しかったのだが、なかなかそうもいかなかった。よければ是非、アーカイブなどでどんな本が紹介されたかを見て欲しい、と思う。



7月◎日

 機会に恵まれて、新型コロナウイルスことCOVID‑19のモデルナ製ワクチンが打てることになったので行ってきた。ワクチンは嬉しいものの注射が死ぬほど怖いので、ナーバスな気持ちで接種会場に向かった。こういう時はとっておきの一冊と一緒に頑張ろうと思い、エリック・マコーマックの「パラダイス・モーテル」を携えて行った。


 母親を殺害した父親の手によって、母親の死体のパーツを身体に埋め込まれたマッケンジー四兄妹。彼らはこの事件がきっかけでそれぞれ孤児院に引き取られることになったが、彼らがその後歩んだ人生もまた、奇妙でシュールなものだった……という物語。奇妙な事件から離ればなれになった彼らの道程を、語り手が運命に似た偶然で辿っていくのだ。なので、読み味としては「隠し部屋を査察して」に近い。


 四人の子供たちは、誰もが劇的な人生を送っているのだが、特に好きなのは三番目に紹介されるエスター・マッケンジーの物語。身体に串を刺すという演目を行う大道芸人<アグハドス>の妻兼アシスタントの<アグヘレアドレス>になったエスターは、月に一度、彼の身体に二十本以上の串を通す。彼女の手元が狂えば死んでしまう危険な芸を、二人は順調にこなし続ける。


 自分の腹を裂かれて、代わりに死んだ母親のパーツを埋め込まれたからなのかもしれない。エスターはとても正確に串を通す。本の帯に書いてある通りブラックでグロテスクでシュールな芸なのに、それが途方もない愛の行為だとされていて、そのことがひしひしと伝わってくるのがすごい。そうしてエスターが迎えた結末も凄絶だ。


 だが、これを注射の前に読むというタイミングが凄かった。内容を何も知らなかったのに、待機しながら串を通す描写に行き当たってしまう恐ろしさよ。私の中で注射針が鉄串になる。


 そんな風に迎えた注射の瞬間だったが、なんと痛くなかった。周りの大人が『針が細いから痛くないよ』と言っていたのを全く信じていなかったので驚いた。大人の『痛くない』は絶対に痛いものなのに。全部この針がいいよ。


 幸いなことに副反応も殆ど出なかった。インフルエンザのワクチンの時のように、注射したところが少し腫れただけだ。小指と人差し指を揃って埋め込まれたくらいの腫れ具合だった。私もマッケンジー兄妹に名を連ねることが出来る。



7月。日

 ホラーに関する依頼が来たので、怖いものについて考える。私が怖いものといえば、死と地獄と拷問であるが、それを並べたてたところで他人と恐怖のシェアが出来るわけではない。怖いって難しいな、と思う。パッと思いつく恐怖小説だと古市憲寿「奈落」(人気絶頂の歌姫が舞台から転落し、全身不随になって味わう地獄を描いた小説)とかになってきたしまう。ホラーの引き出しが少ないのだ・ミステリを書く時はミステリを大量に読んだし、SFを書く時はSFを読んだので、ホラー小説を読むことにした。


 ということで、岩井志麻子「ぼっけえ、きょうてえ」を読む。言わずと知れた名作だが、怖がりなのでまだ読んでいなかったのだ。


 表題作は遊郭の女郎が、悲しみに満ちた半生を語る物語。貧しい寒村での体験や、遊郭に売られたばかりの頃の話、そしてそこで起こった事件は染み渡るような恐怖と悲しさを与えてくれる。恐怖よりもやるせなさの方が際立った話で、なるほどこういう形のホラーも作れるのか……と思った。


 あと、これを絶対に伝えておかなければならないと思ったのだが、叙情的な文章で女性と女性の関係性が語られるので、そこもとても良かった。このくだりは、ある意味で感情に彩られたホワイダニットでもある。


 こうしてホラー経験値を細々と溜めているのだが、ホラー映画の方はよく観ている。好きなホラー映画五選を上げるなら「回路」「ソウ」「イット・フォローズ」「キャビン」「エルム街の悪夢」である。趣味がとても分かりやすいというか、明るいホラーが好き。怖いとはなんだろう。ホラー小説を書き続けたらわかるのかもしれない。


 そういうわけで、ホラー小説を書く機会をお待ちしています!!


「大人の『痛くない』は絶対に痛いものなのに」わかります……。


次回の更新は8月2日(月)17時です。

Written by 斜線堂有紀 

小説家。2016年、第23回電撃小説大賞にて“メディアワークス文庫賞”を受賞。受賞作『キネマ探偵カレイドミステリー』でデビュー。著作に『詐欺師は天使の顔をして』(講談社)、『恋に至る病』(メディアワークス文庫)、『ゴールデンタイムの消費期限』(祥伝社)などがある。2021年、『楽園とは探偵の不在なり』(早川書房)が本格ミステリ大賞にノミネートされ、注目を集める気鋭の書き手。

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