Nagori/関口涼子

文字数 3,877文字

文芸誌「群像」では、毎月数名の方にエッセイをご寄稿いただいています。

そのなかから今回は、2019年4月号に掲載された関口涼子さんのエッセイをお届けします!

Nagori


 昨年秋、フランス語で17冊目の著作になる『Nagori』をパリの出版社、P.O.L社から出版した。日本の「名残」の概念から出発し、気候による季節感の違いとそれを表す言葉、季節を意のままにしたいという願望がどのように文学に書かれてきたか、俳句の功罪、線的時間と循環する時間、料理における名残、旬の感覚が料理文化によっていかに異なるか、複数の季節を同時に生きること、などをテーマに書いたエッセイだ。フランス語での著述活動を始めてもう20年ほどになるが、日本語の題名にしたのは今回が初めてだ。


 自分はフランスに住み、フランス語を創作言語とする日本人作家ではあるが、これまで、日本のイメージを利用するタイトルはつけずにいた。翻訳を生業とする者にとっては、日本語でなければ表せない単語があるという考えに賛同はできないし、安易なオリエンタリズムに加担したくもない。いわゆる「ラ・ジャポネーズ」として、日本文化コメンテーターの役割を担うつもりはなかった。ただ、今回は、「Nagori」という単語をフランス語の中に移住させ、ここでNagoriが移民としてどのように暮らしていくのかを観察してみたい、という気持ちがあった。


 嬉しいことに、この小さな移民は意外にすんなりとフランス語の文章の中に受け入れられた。「Jʼai un nagori (直訳すると、『わたしは名残を持っている』)」という表現を耳にし、Nagoriはフランス語では男性名詞扱いなんだな、と発見したりもした。


 今までにも『Lʼastringent (渋み)』、『Fade (味気なさ)』など、味覚や知覚をめぐる比較文化論的な本を何冊か出したが、『Nagori』は、一冊まるごとを使って「名残」という単語の定義をフランス語で試みた本だとも言える。ひとつの言葉は、そのニュアンスを余すことなく伝えようとしたら、時に本一冊を費やす必要があるということ。だからこそ、この単語が日本語で残される必要があった。


 だからと言って、フランス人が「名残」の感覚を持っていないわけではない。


 翻訳が難しい言葉の中には、その感覚、風習、概念などがそもそも翻訳先の言語に存在しない場合(19世紀末に日本に輸入された「自由」、「社会」などの概念はその好例だろう)、ものとして存在しない場合(畳、こたつ、おでんなど)がある。また、存在したとしても感じ方が異なる場合があり、例えばフランス語において「もっちり、もちもちした」という食感を表す単語は「gluant(粘つく)、collant (ネチャネチャした)」とネガティブな意味合いを持っている。つまり同じ食感が、日本語においては心地よいものと表現され、フランス語では避けるべき食感として伝えられてしまうということだ。

「名残」の場合は、それに類した感情は翻訳先の文化にも存在するが、それを指し示す単語が存在しない、というケースだと思われる。

『Nagori』を読んだ読者が、これは「最後のトマト」、「最後の無花果」に当たる感情だ、と言ってくることがあった。この「最後の」というのは、その果物の季節の終わりという意味で、まさに名残の感覚だ。また、夏はフランス人にとってもっとも重要な季節だが、ヴァカンスの終わりを名残惜しく思う気持ちが強い季節でもあり、「ヴァカンスの最終日に日没を眺めつつ生じる感情」というと「ああそれか!」とすぐに理解されることが多い。もちろん、これらは日本語での「名残」の意味野をすべて包括するものではないが、フランス人にも通じる、普遍的な感覚であることは間違いない。


 日本特有だと日本人が思い込んでいる感覚は、その多くは、言葉を尽くせば共有されうるものだ。本書では、「名残」と関連して「お見送り」についても書いているが、フランス北部にサイン会に行った時に、多くの読者から、この地域では客人が見えなくなるまで名残を惜しんで手を振る、まさにお見送りの風習があるのですよ、と言われた。ただ、それを表す言葉はないのだそうで(あえて言えば「別れの手を振る」くらいかなあ、と皆は答えていた)、自分たちは知らない間に「omiokuri」をしていたんだね、と言って笑いあった。


 これは日本にしかない概念、感覚ですよ、外国人のあなたたちにはわからないでしょうけど、という語りは、現在は全く意味を持たない。和食であれ、日本語であれ日本文学や映画であれ、日本以外の文化にも通じる要素があるからこそ現在このように海外にも広まったのだと思うし、「日本人にしかわからない」ことなど何もない、と、翻訳者としては思いたい。その意味で、一見理解が難しく思われる単語をも、一冊を費やして丁寧に伝えることで、言葉で「翻訳可能」であり、共感も可能だと示すことも執筆の目的の一つにあった。


 本書では、日本での「二十四節気」「七十二候」ブームについても多少苦言を述べている。日本人は、季節に頼りすぎているように見える。循環する時間としての季節と、後戻りできない生物としての線的な時間を二重に生きているのが人間だとしたら、日本人は、循環する季節の時間が浄化してくれるものに寄りかかりすぎ、人間が主体として作り出す、線的な時間としての歴史的意識に欠けているのではないか。特に東日本大震災後の様々な言論を見ていると、自らの行動を歴史的時間の中で考える責任感に欠け、自然に任せる物言いが多すぎるように思う。自然と共に生き、季節に対する感受性を育ててきたことには何の異論もないが、そういった物言いが増している(「二十四節気」「七十二候」に関する出版物はこの十年ほどで急増している。それに加えて、古代中国に由来する季節区分方法を、あたかも日本特有の文化であるかのように紹介していることが多い)裏には、自然や循環的時間が支えきれなくなっている現実の環境を直視したくない、という子供じみた願望もあるのではないか、と思えてならない。


 これまで、日本についてばかり書いてきたわけではない。自分の著作の主要テーマに、死、何かの終わり、その後に残されるものの問題があり、特に東日本大震災直後に『Ce nʼest pas un hasard(これは偶然ではない)』という本を出版してからは、亡霊、死後残される身体としてのミイラ、かつて生きていた人の仕草の記譜としてのレシピ、「声は現れる」(『文學界』2017年3月号所収)のテーマである死者が残した声の録音などについて考え続けてきた。死後の生や死者との交流を信じているわけではないので、いきおい、これまでの著作はどこか、不在や消失に彩られていたと思う。季節論として書き始めた『Nagori』が、やはり失われたものの残り香について性懲りも無く語っていると気がついたのは、本書執筆の半ばになってからだった。しかし出版後、多くの読者に、これまでとは異なり明るさに満ちている本だというコメントをもらった。


 確かに名残は、別れや消失に対するノスタルジアには違いないが、決定的な別ればかりではなく、希望も残されている。生の一瞬ごとをかけがえのないものと捉えることで出てくる感情でもあると思う。日没後に数分残るブルーモーメントは、日光の名残ではあるが、太陽自体の消失を表すわけではない。名残は、存在と不在とにきっぱり分けられない、二つの世界の間にある状態だとも言える。今まで自分が亡霊というテーマで死の枠から語ってきたものを、「名残」を通して生の方から眺めようとしたのかもしれない。


 失くしたものに自分の心の一部を預ける行為が名残なのだとすれば、その残された心が、失われた物や人をかろうじてこの世界の方に引きとどめることがあり得る。アーティストのクリスチャン・ボルタンスキーと話していた時、彼は、消失と絡めてワインコレクターの例を出した。年代物のワインは、栓を抜かない限り眺めるだけだから存在しないのと同様だし、一旦開けてしまえば飲んでなくなってしまうから、どちらにしてもないのと同じだ、と。それに対してわたしは、瓶が開けられていない間は、味についての想像を膨らませることができるし、飲んだ後には、味の記憶が残されるから、いつでも何かが残っている、と答えた。


 ボルタンスキーは、それは言葉を使っているからだね、と、少しうらやましそうに言った。言葉が、名残そのものとして、完全な消滅から救ってくれる、それが文学なんだろうね、と。

関口涼子(せきぐち・りょうこ)

翻訳家、詩人、作家、1970年生まれ。近刊に『ベイルート961時間(とそれに伴う321皿の料理)』。

カタストロフを生き抜く食の力と、心揺さぶる街の記憶。五感のアーカイブとしての料理を描く珠玉のルポルタージュ・エッセイ。


「料理の話をしてください」。戦争の傷跡が色濃く残る街で、翻訳家・作家の著者は人々が語る食べ物の話を聞く。多彩な声と仕草で語られる物語は、万華鏡のように街の肖像を描き出す。異なる民族、宗教、文化をもつ人々が一堂に会する理想の食卓は可能なのか。ベイルート、パリ、東京を往還しながら紡ぐ、多様性に満ちた「食」の思考。フランスで刊行され高く評価された作品を著者自ら邦訳した待望の書。


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