第1話

文字数 2,794文字

独特の視点で生きづらさを笑い飛ばすエッセイで大注目中の、都内某書店で働く独身女子(39歳)。だが、その隠された本性は未だ明らかにされていないのだった……。これは、ストリップなどアンダーグラウンドなカルチャーを辿りながら、著者本人の「芯」に迫っていく魂のエッセイなのである(でも、気軽に笑って読んでほしい!)。

 先日、名古屋でトークイベントがあり、空き時間に「ボンボン」という喫茶店へ足を運んだ。繁華街からは少し外れた場所にあるが、土曜の午後、席を待つ客の列は持ち帰り用のショーケースを塞ぐほどだった。地元の人に愛されているのだろう。



 私の前には、幼児を連れた若い夫婦と、夫の母親という4人家族が並んでいた。まだ席についてもいないのにお土産にケーキを買おうとする姑を、嫁が本気で迷惑がっている。「いいですいいです」と遠慮から始まり、「この前も食べきれなかったし」と遠回しな拒絶を挟み、それが効かないとなると、「そうやって無駄なお金を使うのは止めましょうよ」と諭すモードに入った。しかしおばあちゃんは聞く耳を持たない。もちろん、孫可愛さにケーキを買い与えたくなったのだろうが、もはや自分がどうしたいか、が先に立って、ただの迷惑行為になっている。


 現に孫はそれほど食いしんぼうではないようで、大きなシュークリームにも、なめらかプリンにも興味を示さなかった。夕飯を食べたあと、クリームたっぷりのロールケーキを食べたがるとは思えない。しかも行列の先頭にいて、ともすればすぐにでも席へ案内されそうなタイミングである。何をオーダーしたいのか、せめてそれを決めてからにしてくれ、と追い縋る嫁の言葉を振り切り、おばあちゃんは「あたし買ってくる」と、売店部のほうへ消えてしまった。やれやれ、嫁、ため息。だから嫌なのよ、おばあちゃんとこういうとこに来るの。幼児は「もう帰りたい」とぐずり始めている。ママだって帰りたいさ。母親の暴走も意に介さず、夫はスマホのゲームに夢中だ。


 彼女が感じているであろう日々の苛立ちは、聞き耳を立てていた私にも簡単に想像ができたし、勝手に共感すらした。


 しかし私はひとり客。ひとり暮らしでひとり身で、おまけに血縁関係者とはもう何年も顔を合わせていない。それは全て自分で選んだことで、彼女の境遇とはかけ離れている。


 実家の近くには「ボンボン」に雰囲気が似た「デン」という喫茶店があり、大きな食パンをくり抜いたグラタンパンが名物だった。家族でよく訪れていたのは、もう20年以上も前だろう。そこで私は、あとでお腹が空いても知らないよ、という母の言葉を聞き流し、ひとりだけモカソフトを頼んでは、あとでお腹が空いたと騒いでいた。あのおばあちゃんのようなふるまいは、私の得意とするところである。何が嫁に共感だ。むしろ代表して謝ります。



 タイミング悪く、空いたのが4人のボックス席で、申し訳なく座っていると向かいのボックス席に別の4人家族が案内された。まだまだ遊びたい盛りに見える若き父親は、3歳くらいの娘にせっせとプリンを食べさせている。特段愛しそうでも億劫がるでもなく、ただ当たり前に与えていた。


 ひどい偏見だが、そのヤンキー風の喋り方やファッションから、彼が品行方正な人生を歩んできたとはとても想像ができない。それでも、その瞬間の彼は、絶対的に正しかった中山可穂の小説『ゼロ・アワー』で、孤独な殺し屋が1匹の猫と人生を共にし、チーズオムレツを焼いてあげたりしていた正しさに通じるものがある。無情に人を殺すこととそれは、全く影響し合わない。


 天井はキラキラとラメのように光る砂壁で、ガラスケースに入った日本人形が飾ってある「ボンボン」の店内は、普段着の家族客でいっぱいだ。この騒がしさは「喧噪」というタイトルのBGMか。誰もが書き割りのように自然に振る舞っていて、自分だけがそこに入れない悪夢のようだ。私には、猫もいない。



 それは昔から抱いていた馴染みの感覚である。もっと具体的に言えば、私が親に言えない秘密を抱えた頃からずっと、変わらずにある。


 ここで言う秘密とは、行為としての数え切れない悪事そのものではなく、それらを自分のためではなく「親のために秘密にしている」という秘密である。それは絶望的に子供らしさを欠いた秘密であり、私の子供らしさは、1から100まで作られたものなのだ、という自覚を持っていた。 



  「子供」という役割で家族のようなことをしていても、その茶番を冷めた目で見ている自分がいる。


 そんな人間が家族でホットプレートを囲んで肉や野菜を焼いている。そんな人間が「ただいま」と言えば、家族も笑顔で「おかえり」と迎えてくれる。そういうことが、どうも上手く受け入れられなかった。



 踊り子の相田樹音さんと出会ったのは「シアター上野」というストリップ劇場だ。小さなステージで、躊躇ためらうことなく四肢を伸ばし、竜巻のように回転していた。比喩ではなく、ドレスで起きた風が顔に当たって目を細めてしまう。


 子供の頃から抱えてきた矛盾に、ようやくうっすらと埃が積もった頃だった。あの力強いターンは、それをきれいに吹き飛ばしてしまったのである。もう腹を括るしかなかった。


 観客として足を踏み入れたストリップの世界は、懐かしくて大好きな匂いがする反面、強いカルチャーショックを受けることもあった。


 女性にも人気の高いストリッパーの武藤つぐみさんは、母親が舞台を観に来たことをSNSに書いていた。お腹や背中の彫り物が美しい香山蘭さんも、業界外の友達が公演を見に来たことを素直に喜んで、一緒に撮った写真を公開していた。私が知らなかっただけで、どんな仕事にも「誇り」がある人はいて、堂々と胸を張っているのだろう。



 大和のストリップ劇場で、相田樹音さんの舞台がそろそろ始まる、という時のことだ。隣の席には、私の師匠である桜木紫乃さんがいる。長編小説を書き上げた直後で、珍しく冗談以外のことにも饒舌だった。


 「この世に生きづらくない人なんているのかねぇ」


 そんなようなことを、いつもと変わらぬ北の訛りでぽつんとつぶやいたので、ギョッとする。まさに私の書いてきたエッセイは、意図したわけではないが、その「生きづらさ」がテーマになっている。しかし舞台を向いたままの師匠の横顔には、何の他意も読み取れなかった。


 「ボンボン」でそれぞれの役割を演じていた人たちも、生きやすいですか? と問えば、そんなことあるわけない、と笑うのかもしれない。


 生きづらさを笑い飛ばすエッセイばかり書いてお茶を濁していたら、ステージと隣の席から裸の熟女が近付いてきて、ボンボンならぬポンポンを振って、私を促しているのである。



 脱げってか? 脱げってか?



 これは、私が本気でストリップするエッセイのほんの序章なのだった。

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