『神戸・続神戸』西東三鬼/マトモでない世界の、マトモでないぼくたち(岩倉文也)

文字数 1,944文字

本を読むことは旅することに似ています。そして、旅に迷子はつきものです。


迷えるあなたを、次の場所への移動をお手伝いする「標識」。

この「読書標識」はアナタの「本の地図」を広げるための書評です。


今回は詩人・岩倉文也さんが、『神戸・続神戸』(西東三鬼)について語ってくれました。

ぼくは十五歳くらいになるまで、この世に本当の悪人なんてものはいないんだと思っていた。悪人、というのは言い過ぎかもしれないが、とにかく、その手の人間は小説のなかにしか存在しないものとばかり思っていた。ドストエフスキー、チェーホフ、シェークスピア、フォークナー、ぼくが読んできた物語には小悪党もいれば大悪党もいた。けれど、それらは全くの空想であり、ぼくとはなんの関わりもなく、一生涯目にすることのない存在であると半ば信じ切っていた。


当時のぼくの人間理解とは、その程度のものだったのだ。犯罪もなく、ときおり自殺者が出ただけで大騒ぎになるような田舎街に住んでいたぼくにとって、人間とは善良ではないまでも、およそ常識の範囲内で理解できる行いをなすだけの、言ってみれば機械のような存在だった。こちらが笑顔を向ければ相手も笑顔を返し、こちらが嫌がる行為をすれば相手も嫌がり、たとえ理不尽に自分を嫌う相手がいたとして、それはそのようにプログラムされているに過ぎないのだ、と。


もちろんそれは大きな誤りだった。十五歳のとき、ぼくはSNSにはじめて手を染めた。そしてそこに渦巻く、生(なま)の悪意、というものに驚いた。これが人間か? ぼくは疑った。まだどこか信じきれずにいた。相変わらずぼくの周囲には、やさしく、温厚で、同情的な、「常識人」ばかりがたむろしていたからだ。


二十歳を前にしてぼくは東京に出た。そして数多の「人間」たちと出会った。彼ら、彼女らは、ぼくには消化しきれない何かを常に抱えていた。ぼくには永遠に理解できない何かを、いつもむんむんと身体から発散させていた。ぼくは痺れた。


誇張して言えば、ぼくは東京ではじめて、人間が機械ではないと心から納得できたのだ。

西東三鬼による自伝的な作品『神戸・続神戸』は、そんな「人間」を発見する痺れるような悦びをぼくに思い出させてくれた。


この作品に登場する人間はみな、ことごとくマトモではない。胡散臭いのである。ホラ吹きのエジプト人であるマジット・エルバ、誇り高き娼婦・波子、闇屋を営む掃除好きの台湾人・基隆(ルーキン)、元吉原の妓楼の亭主で成り上がりのホテル支配人などなど……。数え上げればきりがない。そんな彼ら彼女らが、第二次大戦下の神戸にあった国際ホテルを舞台に繰り広げる珍談奇談の類いが本書には収められている、と一応は言えよう。


ただしこの作品を一級の文学作品足らしめているのは、そうした挿話の面白さだけではない。作中全体に横溢している「死の気配」と「自由への渇望」、その二つの要素がユニークな人間たちの生き様を通して、俳人である作者一流の観察眼によって結晶化されたときはじめて、この魅力的な人間喜劇は誕生したのである。



炎天、眼がくらむ自動車道路を、戦争と軍の嫌いな中年男二人、軍の自動車で、軍のガソリンで、細長い日本の海沿いを、自動車をとどけるというだけの目的で、西へ西へとつっ走るのであった。



これは「神戸」の中でぼくが最も好きな「第七話 自動車旅行」のなかの言葉である。主人公とその友人である冒険家の白井は、戦時下の日本をただひたすらに西へと爆走する。ろくな目的などないのである。この痛快さは、けれどほとんど虚無的である。自由を封殺された自由人の、ぎりぎりの絶叫のようなものが言葉の端々には谺(こだま)している。


そしてこの「第七話」は、神戸で白井の恋人となった娘の、空襲による悲惨な死をもって幕を閉じるのである。



この「神戸」の登場人物の大方は、戦争前後に死んでしまうのだが、これは私が特に死んだ人のことばかりを書こうとしたのではない。ひとりでにそうなってしまったのである。何故そうなったかは私には判らない。ただ一つ判っていることは、私がこれらの死者を心中で愛していることだ。



本書に悪人は登場しない。また善人も。彼ら彼女らは、容易に理解できない「人間」として、ゴロリと読者の前に投げ出される。その胡散臭さ、マトモでなさが、ぼくは「人間」の持つ、最も尊いもののひとつであると思うのだ。

岩倉文也

詩人。1998年福島生まれ。2017年、毎日歌壇賞の最優秀作品に選出。2018年「ユリイカの新人」受賞。また、同年『詩と思想』読者投稿欄最優秀作品にも選出される。代表作に『傾いた夜空の下で』(青土社)、『あの夏ぼくは天使を見た』(KADOKAWA)等。

Twitter:@fumiya_iwakura

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