Day to Day〈4月1日〉〜〈4月10日〉#まとめ読み

文字数 12,095文字

2020年の春、ここtreeで、100人のクリエーターによる100日連続更新の掌編企画『Day to Day』がスタートし大きな注目を集めました。この2021年3月25日、その書籍版が発売されます。


>通常版

>豪華版


treeでは、それを記念し、『Day to Day』の原稿を10本分ごと(10日分ごと)にまとめて、一挙に読みやすくお送りいたします。それでは……珠玉の掌編をお楽しみください!

〈4月1日〉今日からはじまる物語



 四月一日が、今年はなくなるらしい。

 エイプリルフール。去年、お母さんたちから聞いた、一年で唯一、嘘をついてもいい日。

 大翔(ひろと)は子供部屋の絨毯にうずめていた顔を上げて、涙で熱くなった目の周りをぬぐう。さっきまで自分を慰めていた母の姿はもうなかった。

 今日から、クラスメートの将矢と遊べなくなった。将矢(まさや)の家はおばあちゃんたちと一緒に住んでいるから。今、怖い病気が流行っていて、それにかかると大変なのだということは知っていた。だけど、それがどうして将矢と遊べなくなることにつながるのか、大翔にはわからなかった。

「仕方ないの」と母が言った。

「万が一、将矢くんが家にウイルスを持って行ってしまったら大変だから」

 お母さん同士が相談してそう決まったらしい。

 毎日、放課後は習い事や塾で埋まっていても、大翔は一年生の時から文句を言ったことがない。将矢と遊べるのは土日だけだったけど、その土日がとても楽しいから、我慢してきた。学校が休みになってからは会えるのも減って、だけどたまに遊べるのがやっぱりすごく嬉しかった。いつもいつも──いっつも頑張ってきたのに、たったそれだけでいいと望んだ時間が奪われてしまうなんて、信じられなかった。

 静かな部屋に、雨の音がしていた。その音を聞くと、気持ちがだんだんと静かになった。雨なら、いい。将矢と遊べたとしても、どうせ外には出られなかったろうから。だから悔しくないし、悲しくない。

 今年はエイプリルフールがなくなるらしい。大人たちが話していた。こんな時に嘘を吐くなんて、周りを混乱させるし、"ふきんしん"だから。

 ふいに──暗い部屋の奥から、光を感じた。まばゆい、まばゆい光。雨粒が無数に流れ落ちる窓から顔を光の方に向け──そして、息を呑んだ。

 大翔の本棚が、光っていた。えっと思う。なにこれ? と混乱する。それから、むくむくと、ある感情がこみあげてくる。

 これって、ひょっとして、あれじゃない?

 よくアニメとかで見る、なんかの、入口。冒険の旅とか、どっかの"王国"とか、異世界に招かれたり、タイムスリップとかしたりして、主人公が活躍する──。

 マジか、と思う。すっげ、そういうこと、オレにも本当にあるわけ? でも、もし、冒険の扉が開くなら、こんな最悪な気分の時が似合ってる気もした。

 涙が乾き始めた目をこすり、大翔は自分の本棚の前に立つ。光っているのは一冊の本だった。去年の誕生日、親戚のおじさんがくれたけど、字ばっかりで絵がほとんどないから、一度も開かずにしまっていた本だ。その時、そのおじさんが言っていた。本を読むのは、すごくいい。本は君にたくさんのものを与えてくれる。中でもこの本のある一文を読んだ時に、オレの人生は変わったんだ──。

 嘘つけ、と大翔は思っていた。

 大人がそう語る時、なんだか全部が胡散臭くて、偉そうで、嘘っぽく聞こえるのはどうしてなんだろう。

 だけど──。

 今年はエイプリルフールがなくなるらしい。だったら。

 ──いっか、嘘でも。

 光る本に手を伸ばす。手に取り、ページを開くと、大翔の気持ちも体も時間も、すべてが一気に、その中に吸い込まれていく。

 この四月一日だからはじまる、未知なる嘘の、これが幕開け。

辻村深月(つじむら・みづき)

1980年2月29日生まれ。山梨県出身。2004年、『冷たい校舎の時は止まる』で第31回メフィスト賞を受賞し、デビュー。『ツナグ』で第32回吉川英治文学新人賞、『鍵のない夢を見る』で第147回直木三十五賞を受賞、『かがみの孤城』で第15回本屋大賞第1位となる。その他の著作に『スロウハイツの神様』、『ハケンアニメ!』、『朝が来る』、『傲慢と善良』、『小説 映画ドラえもん のび太の月面探査記』などがある。

〈4月2日〉掟上今日子のSTAY HOLMES



 2020年4月2日、僕(隠館厄介)は、忘却探偵・掟上今日子と共に、ある殺人現場にいた。無論、冤罪王――もとい、冤罪体質であるこの僕にかけられたあらぬ容疑を、今日子さんに晴らしてもらうためだ。さすがは『どんな事件も一日で解決する』最速の名探偵、既に意外や意外の真犯人は特定されたのだが、しかしながら、まだ謎は残されていた。

「今日子さん。犯人はなぜ現場の扉を、無作法にも開けっぱなしにしたんでしょう? オートロックですし、それだけで簡単に、密室殺人事件にできたのに……」

「密室だからこそ、ですよ」

 今日子さんはさらりと答えた。そして左手でカーディガンの長袖をまくり上げる――その右腕には太いマーカーで、次のように書かれていた。

『×密閉』。

「嫌ったのでしょう。密閉状態を」

「……では、凶器に槍を使用した理由は? しかも長さ2メートルにもわたる、まさかの長槍を」

「ソーシャル・ディスタンス」

 言って今日子さんは、タイトなロングスカートを上品につまみ上げる――すると、左脚のむこうずねにこう。

『×密接』。

「な、なら、そんな慣れない凶器で、単身犯行に及んだ理由は? あの犯人の人望なら、いくらでも共犯者を募れたはずなのに――」

 名探偵は最早語らず、黙ってブラウスの裾をからげる。くびれた胴体に書かれていた文字は、確かに言うまでもないそれだった。

『×密集』。

「一同を一堂に集めた解決編を自粛することは、探偵としてやや切なくはありますが――殺人犯でも避ける3密を、我々が忘れるわけにはいきませんからねえ」

 眼鏡の奥でウインクし、今日子さんは軽快に踵を返して、殺人現場を後にする――慌ててその背を追いそうになって、僕は辛うじてソーシャル・ディスタンスを保ち、そして「あの……、今日子さんは、これからどうなさるんです?」と尋ねた。謎解きが名残惜しく、反射的に訊いてしまっただけだが、実際、気にせずにはいられなかった。

 今日子さんには、今日しかない。

 だとすれば変わりゆく2020年の、明日からの月日を、いったい彼女はどのように生きていくのだろうか。

「決まっているでしょう」

 去りゆく足を止めることなく、ただ少しだけ振り向いて、白髪の名探偵は飄々と答える――最後に左袖を、大胆にまくり上げながら。

「STAY HOLMES。おうちで推理小説を読みます」

西尾維新(にしお・いしん)

1981年生まれ。『クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い』で第23回メフィスト賞を受賞し、デビュー。同作に始まる戯言シリーズ、アニメ化された『化物語』に始まるシリーズ、TVドラマ化された『掟上今日子の備忘録』に始まる忘却探偵シリーズなど著書多数。漫画原作者としても活躍し、代表作に『めだかボックス』『症年症女』がある。2019年に著作100作目となる『ヴェールドマン仮説』を刊行した。

〈4月3日〉



 文旦が届いた。夫の郷里である高知からだ。春先にとれる柑橘類の一種で、見た目や大きさはグレープフルーツに似ている。食べ方は夏みかんと同じだが、小袋からすんなり離れるので食べやすい。

 私が初めて文旦を知ったのは結婚後のこと。すでに三十年以上も前になる。当時は札幌市内の社宅に住み、短い夏や長い冬に心細い思いを味わっていた。そこに、高知の義母からたびたび段ボール箱が届いた。文旦もそうだが、他には塩漬けした山菜や畑でとれた空豆、インゲン、手作りの味噌や梅干しなどなど。

 東京に生まれ、典型的なサラリーマン一家に育った私には、盆暮れの帰省も田舎から届く荷物にも経験がなかった。水を何度も替えながら山菜の塩を抜き、空豆の殻を外し、梅干しの酸っぱさに驚く。味噌こしを使って大豆のつぶつぶが残る味噌をこす。初めてのことばかりだ。

 野菜から出る水分でしっとりした手紙には、「こちらは元気でやっている。心配しなくていい。あなたたちはあなたたちでしっかり暮らしなさい」というようなことが書いてあった。私の親からは、北海道は遠すぎる、いつ帰ってくる、誰それさんちの娘さんは親の近くに住んでいて親孝行だと、何度となく責められた。なんたるちがい。

 働き者の義母は自分にも人(嫁)にも厳しく、私にとって付き合いやすい人ではなかったけれど、情の厚さはよく知っている。数年前に亡くなり、このたびのコロナ騒ぎにやきもきしてるだろう。生きていればせっせとマスクを作ったにちがいない。縫い物も編み物も上手だった。

 文旦を送ってくれた長兄夫婦は、母の丹精込めた畑で今でも野菜を作っている。ナスやトマトの実る頃に行ってみたい。夏にはコロナも落ち着いているだろうか。もっとかかるだろうか。

 長引けばよさこい祭りに支障をきたすのではないか(注・四月二十七日に中止が決定)。はたと気づいて暗くなる。オリンピックだって延期になったのだ。あり得ないことが次々起こる。

 こんなときは空の上から叱咤激励してほしい。でも「子どもみたいなことを言ってないで、あんたが励ます側にまわりなさい」と怒られそう。土佐弁で。

大崎 梢(おおさき・こずえ)

東京都生まれ。元書店員。書店で起こる小さな謎を描いた『配達あかずきん』で、2006年にデビュー。近著に『本バスめぐりん。』『ドアを開けたら』『彼方のゴールド』などがある。

〈4月4日〉知らない道を歩く



 どこか遠くへ行きたい。
 いつも焦れるように思いながら暮らしている。
 そうかといってお金もないし、仕事もないし、遠くになんてそうそう気軽に行けるもんでもない。それにもしかしたら、私が焦がれている〝遠く〟って物理的な距離の〝遠く〟ではないのかもしれない――なんてこのごろは考えている。パリにいてもソウルにいてもマラケシュにいても、あらかじめGoogleマップにしるしをつけておいた観光スポットやショップをめぐり、ガイドブックに書いてあったとおりのおすすめメニューを注文する。まるきりiPhone奴隷。それってほんとに"遠く"なんだろうか。
 四月の最初の土曜日、ほしい本があったので都心にある大型書店まで運動不足を解消するため散歩がてら出向いたら、不要不急だの外出自粛だのあれだけテレビで騒いでいるのもなんのそのといった様子の人出で、まあそんなことを言ったら私だってこうしてのこのこ街まで出てきているわけだからおたがいさまなんだけど、さすがにちょっと怖くなって人のいないほう、人のいないほうへと進んでいたらいつのまにか人気のないオフィス街に入り込んでいた。
 まだ少し風が冷たくて、買ったきりどこにも着ていくあてのなかった春物のスカートをばっさばっさと捌きながら、普段めったなことでは近づかない一角を通り抜ける。外壁にモザイクタイルで社名の書かれた渋ビルを見つけて写真を撮り、純喫茶のおもてに貼りだされた日に焼けたメニュー表を、異国の地のメニューを覗くみたいな好奇心と驚嘆でもってしげしげと眺める。コーヒー360円。オムライス630円。まだ陽も高いというのにひっそりと営業するベルギービールの店。コロナ騒ぎが終息したら飲みにこよう。
 なんてことのないオフィス街だとばかり思っていたけれど、よく知っているつもりだった人の知らない一面を見せられたみたいだった。こんなことぐらいで旅の中にいるような高揚感を得られるなんてずいぶんお手軽だけれど、私の中の世界地図が拡張された気がする。iPhoneではたどりつけない新大陸を発見したのだ! ……とか言いながらiPhoneがなかったら生きていけないんだけど、それはそれとして、明日も私は知らない道を歩く。

吉川トリコ(よしかわ・とりこ)
1977年生まれ。2004年「ねむりひめ」で女による女のためのR-18文学賞大賞・読者賞受賞。著書に『しゃぼん』『グッモーエビアン!』『少女病』『ミドリのミ』『光の庭』『マリー・アントワネットの日記 Rose/Bleu』『女優の娘』『ベルサイユのゆり』などがある。
〈4月5日〉トムめ


×月×日
 真夜中、枕元でふんふん荒い鼻息がする。ちょんちょんヒゲが当たる。目を開けるとゼロレンジでトムさんが伸び上がってこちらを覗いている。真っ黒お目々で起きろ起きろとせがみ、ついていくと先導するようにこちらを振り向きながらリビングのおやつストッカーへ。小腹が減ったのでおやつを出せ。時間は午前三時である。トムめ、可愛いトムめ。
×月×日
 毎度午前三時に起こされ睡眠不足につき、今日は無視すると強い心で就寝。ふんふんを無視すると枕元に飛び乗り、枕をふみふみ。寝たふりを決め込んでいると間違った振りをして五回に一回顔を踏む。根負けして起きる。トムめ、可愛いトムめ。
×月×日

 今日こそは起きぬ。強い心で就寝。ふんふんを無視。ふみふみも無視。トムさん撤退。今日は安眠が訪れたと思ったら突然「ピヨピヨ! ピヨピヨ!」と電子音の鳥の音(ね)。振ると鳥の鳴き声がするオモチャである。人間を起こすためのアラームとして使いよった。天才か。トムめ、可愛いトムめ。

×月×日
 負けぬ。ふんふんを無視。ふみふみも無視。ピヨピヨも無視。再び枕元に飛び乗った。ふみふみはもう効かぬ。顔の上に四つ足でまたがった。腹の毛がこちらの鼻に触れるか触れないかの高さで静止してさわさわ。起きるしかねえわこんなもん。トムめ、可愛いトムめ。
×月×日
 負けてはならぬ。ふんふん、ふみふみ、ピヨピヨ無視。腹毛攻撃は横を向くことで回避。トムさん撤退。リビングで「ピヨピヨ! ピヨピヨ! ピヨピヨ!(以下略)」と狂ったような鳥の音(ね)が。ぶち切れて聞こえよがしに鳴らしている。怒りに任せたロックなビートが睡魔をかき消す。トムめ、可愛いトムめ。
×月×日
 ふんふん無視、ふみふみ無視、ピヨピヨ即座に取り上げて布団の中に隠す。腹毛回避。トムさん枕の逆に回り込み、こちらの顔にデコをすりつけて激しくスクリュー。ここへ来てクソかわいい媚態。無視したらもう二度とやってくれないかもしれない。損得勘定により起きざるを得ない。トムめ、可愛いトムめ。
×月×日
 睡眠時間が足りないので昼寝。トムは網戸の窓辺で日光浴。と、突然毛を逆立ててソワソワ騒ぎはじめた。見ると窓の外にかわいいお客。「あら、かわいいちゃんだね~」と話しかけると、トムがすごい形相でこちらを見上げる。目は口ほどに物を言う。「何言ってんねんお前……!」トムめ、可愛いトムめ。
 網戸に桜の花びらがひらひら吹きつけた。よそのかわいいちゃん、それを潮に引き揚げ。
 借景の桜、本日散り初め。

 トムさんは猫である。
 2020年、世界は核の炎に包まれてはいないが、まあまあ大変なことになっている。
 だが、今年もジンチョウゲが咲き、モクレンが咲き、桜が咲いた。
 来年も春の花は咲くであろう。
 そして、来年もトムさんと私は夜中の攻防を繰り広げている。

有川ひろ(浩)
高知県生まれ。2004年『塩の街』で電撃小説大賞大賞を受賞しデビュー。同作と『空の中』『海の底』の「自衛隊三部作」、「図書館戦争」シリーズをはじめ、『阪急電車』『旅猫リポート』『明日の子供たち』『アンマーとぼくら』など著書多数。
〈4月6日〉「映像の世紀」風に、コロナ禍を振り返ってみる



 あれは、2020の冬のことだ。

 オリンピックイヤーを迎えて、日本はどことなく浮ついていた。
 隣の国で、謎の風邪が流行っている。そんな声が聞こえてもきたが、まだ、呑気な日々は続いていた。
 が、それはあっという間だった。
 白が優勢のオセロが、終盤、みるみる黒に変わるように、世界は、謎の風邪に飲み込まれた。
 それでも、楽観的な政治家やコメンテーターたちは言った。
「イースターまでには、収束する」
「ただの風邪だ。慌てるな」
「マスクなど、することはない」
 が、オセロの黒の攻勢は続いた。3月に入ると、ヨーロッパ、アメリカの都市が次々と陥落。日に日にカウントされる、大量の死者。
 絶望の声が、ネットに溢れる。
 もうおしまいだ。耐えられない。助けてくれ!
 人々は、恐怖の虜になった。
「感染者を晒せ!」
「感染者を監視しろ!」
「感染者を封じ込めろ!」
 人々は、躊躇しなかった。この恐怖から逃れることができるなら、自由も人権もプライバシーも差し出していい、……そんな風に思うようになった。
 あのヨーロッパが。あのアメリカが。
 自由、人権、プライバシーを勝ち取るために、先人たちは多くのものを犠牲にして戦ってきたはずだ。その成果は、謎の風邪の前では、あまりに脆弱だった。
 そして、日本でも、緊急事態宣言が決定。4月6日のことだ。そして、その翌日、発令。
 今思えば、あれが、すべてのはじまりだった。分岐点だった。
 あれから、80年。 
 今、私たちは、何不自由なく平和に暮らしている。
 少しでも熱があれば、主治医から連絡がくる。働く必要もない。月々、必要最低限のお金が口座に振り込まれる。悩みがあればAIが解決してくれ、犯罪も、AIが未然に防いでくれる。
 人は、この世界をユートピアという。
 が、私には少し、違和感がある。
 部屋には監視カメラが取り付けられ、体にはGPSチップが埋め込まれ、外に出れば、監視ドローンがあちこちに飛んでいる。
 これが、ユートピアというものなのだろうか?
 私には、暗黒郷(ディストピア)にしか見えない。

(2100年、ある小説家の没収された日記より)

真梨幸子(まり・ゆきこ)
1964年宮崎県生まれ。2005年『孤虫症』で第32回メフィスト賞を受賞しデビュー。2011年に文庫化された『殺人鬼フジコの衝動』がベストセラーに。他の著書としては、『人生相談。』『5人のジュンコ』『おひとりさま作家、いよいよ猫を飼う』『初恋さがし』『三匹の子豚』など多数。最新刊は『坂の上の赤い屋根』。

〈4月7日〉



「おまえ、ほんとついてない女だよな」
 大吉が頰杖でつぶやき、あたしは湿気った煎餅を一口かじった。
 本当だったら今ごろ、あたしは書店大賞の授賞式に出席して、今年の大賞受賞作家として一世一代の晴れ舞台に立っていたはずだ。それが自宅で冷戦中の旦那と並んで、ぼうっとテレビを見ている。画面にはでかでかと緊急事態宣言とテロップが出ている。
 今年に入って新型コロナウイルスが世界中に蔓延し、あらゆるイベントと共に書店大賞授賞式も中止となり、さらに発表だった本日、日本史上に残る緊急事態宣言が出された。
「でかい本屋とか明日から臨時休業なんだろ?」
「うん、さっき編集からメールきてた」
「授賞式中止はともかく、本屋が閉まるんじゃ手も足も出ないな」
 ずっと応援してくれた書店の人たちの無念を思い、あたしは歯を食いしばった。
「あんたも、せっかくの正社員登用取り消しになったんでしょ?」
「さっきメールがきて、元々の派遣も切られた」
「名前に反して、あんたもほんっとついてない男だよね」
 会話が一周してしまった。というか朝からもう百周くらいしている。国も仕事も家庭もすべてが緊急事態で崩壊寸前、ここまで重なると嘆く気力もない。大酒を食らって現実逃避したいところだけれど、あいにくあたしはある事情によりそれもできない。
 我が家の夫婦仲は二ヵ月前から最悪だ。ちょうどコロナ騒ぎが本格化してきたころ、大吉が同じ派遣会社の女と浮気をしたのだ。こんなときになにやってんのよと、あたしは大吉が収集している美少女フィギュアを真っ二つに折り、長い冷戦に突入した。
「とりあえず俺、明日からバイト探すわ」
「外出自粛中だよ」
「家族が増えるんだから、ぼけっと無職やってる余裕ないだろ」
 どきりとした。大吉はあたしの膨らんだお腹を見ている。
「これは食べ過ぎただけだから」
「おまえ、俺のことどんだけバカだと思ってるんだ」
「嫁が妊娠を報告しようとしたその夜に浮気バレしたウルトラ級のバカ」
 大吉は黙り込んだ。
「……だよな。そりゃあフィギュアも真っ二つにされるわ」
 大吉はおもむろにソファから下り、床に正座をし、申し訳ございませんでしたと土下座をした。たっぷり三十秒ほど経ったあと、それでさ、と大吉が顔を上げた。
「子供の名前、ジョージにしようか」
 なんじゃそらと眉をひそめるあたしの耳に、朝から繰り返し聞いて耳にタコな「ヒジョージタイ」「ヒジョージタイ」というアナウンサーの声がきこえる。なるほど、そうきたか。非常時から常時へと、願いを込めた名前とも言える。しかし女だったらどうするのだろう。
 ほんとバカなやつ……と、あたしはお腹に手を当てて天井を仰いだ。
 世界には危険なウイルスが蔓延し、父は失業中、母の仕事も先行き不安。すべてが非常事態な世に生まれてくるジョージ。あんたも両親に似てついてないのか?
 まあ、でも、あんまり心配しすぎないでおこう。あたしたちの船は小さいけど、あんたという新しい命を乗せて、なんとか向こう岸に辿り着くだろう。未来という名の岸から岸へ、遥か昔から、あたしたちはそうして続いてきたんだから。
凪良ゆう(なぎら・ゆう)
滋賀県生まれ。「小説花丸」2006年冬の号に中編「恋するエゴイスト」が掲載される。翌年、長編『花嫁はマリッジブルー』で本格的にデビュー。2020年『流浪の月』で第17回本屋大賞を受賞。
〈4月8日〉静かな緊急事態生活

 世界中大騒ぎになっているようだけれど、僕はもともと人と会わない生活をしているため、変化は皆無。マスクも必要ない。毎日犬と遊んで、模型飛行機や庭園鉄道で遊んでいる。15年ほどまえから完全にテレワークだし、1年間にせいぜい10人程度しか他者と会わない。電車やバスには一切乗らない。人と食事をすることもなく、家族とも食事は別の場合がほとんど。買いものにも出かけない。さすがに2月くらいから、通販で届いた段ボール箱を2日ほど放置するか、消毒してから開けるようにしている。

 以前にエッセィで書いたとおり、都会の満員電車は病原体を培養する装置といえる。大学に勤務していたときも、僕は自動車や自転車で通勤した。誰にも会わずに自分の研究室に籠もる習慣だった。出張では電車に乗ったが、人混みは空気が臭う。東京で電車に乗るたびに危険を感じた。

 満員電車や人混みから逃れるため、15年まえに大学を辞めた。原子力発電所から遠い場所、水害や土砂災害のない場所へ引っ越した。以前は風邪をよくひいたけれど、田舎に引っ込んで以来、一度もひかない。

 書きたいことも言いたいこともない。依頼されたから、今これを書いている。ただ、1つだけ書いておきたい。誰か、もう指摘しただろうか。ニュースを見るかぎり、「致死率」を、死者÷感染者で計算しているようだけれど、死者÷(全快者+死者)が正しいのでは? 感染が拡大している段階では、感染者の大半は、治るか死亡するかまだわからない人数だからだ。

 僕から見ると、みんなはつながりすぎ、ソーシャルディスタンスが近すぎ、なにかというと「会」や「式」や「祭」をしすぎ、酒を飲んで騒ぎすぎだったので、15年まえに、しかたなく緊急事態宣言を自分に出した。おかげで好きなことができる毎日になった。自由と安心を得るためには、自分で考えて実行するしか手立てはない。僕は誰も非難しない。国が悪いと憤ることもない。誰にも関らず、国からも遠ざかっただけだ。

森 博嗣(もり・ひろし)
工学博士。1996年『すべてがFになる』で第1回メフィスト賞を受賞しデビュー。ミステリィ、SF、エッセィのほか新書も多数刊行。講談社タイガでWWシリーズ刊行中。最新刊は『キャサリンはどのように子供を産んだのか?』。日々のエッセィが収録されたブログ本シリーズ最新刊は『森心地の日々』(講談社刊)。著作についてなど、詳しくはホームページ「森博嗣の浮遊工作室」(http://www001.upp.so-net.ne.jp/mori/)

〈4月9日〉



「四月九日木曜日、時刻は八時になりました。お早うございます。垣島武史です」
 非常事態宣言が発出されても、ラジオの生放送は止められない。スタジオに入る時は体温チェック、さらに目の前には透明なアクリル板が設置されている。拘置所の接見室のようなアクリル板は、向こう側に座る女子アナとの飛沫感染を防ぐためのものだった。
「お早うございます。アシスタントの山口美穂です。今日の天気は晴れ、最高気温は十八度、夜には俄雨が降るかもしれません」
 そんなアクリル板があっても、ラジオのスタジオはとても狭く、防音上密閉されている。しかもこれから三時間喋りっぱなしなので、「三密」は避けられない。
「人との接触を八割減らすと言ってるけど、国と東京都の足並みが揃っていないね。都知事が具体的な自粛要請を示すらしいけど、昨日僕が入ったお店には、『当店は従業員の給料を払うために、今後も営業します』という張り紙が貼ってあったよ」
「お店の方も生活がありますからね」
「自粛している人がしていない人を非難したり、街に出てる老人と若者がいがみ合ったり、なんか殺伐としたことが多いよね」
「映画を見ているみたいで怖いですね」
 不安を煽るテレビのコメンテーター、ネットでも過激な言葉が飛び交っている。しかし生活に寄り添うラジオはそれではいけない。
「この番組は、いつも通りバカバカしくやりたいよね。笑っていれば免疫力は上がるらしいから」
 垣島が微笑みながらそう言うと、アクリル板の向こう側に可愛らしい笑顔が咲いた。
「垣島さんの言う通りですね」
 CMに入ると美穂から話し掛けられた。
「私こんな非常時には、真面目に放送しないといけないんだと思ってました。でもこんな時だからこそ、くだらない放送がいいんですよね。私、垣島さんを見直しました」
 その言葉に軽いショックを受ける。そんなに普段の放送はくだらなかっただろうか。確かにダジャレや下ネタは少なくないが。
「ま、まあそうだよ。こういう時こそ、人間の器の差が出るからね」
「ゴホン」
 その時、美穂が咳をした。
 垣島は大きく目を見開き、その目線が宙を舞う。
「俺、ちょっとトイレに行ってくるわ」
志駕晃(しが・あきら)
一九六三年生まれ、明治大学卒業。第十五回「このミステリーがすごい!」大賞・隠し玉として『スマホを落としただけなのに』で二〇一七年にデビュー。同作は北川景子主演で映画化され大ヒットした。他の著書に『ちょっと一杯のはずだったのに』『あなたもスマホに殺される』『オレオレの巣窟』などがある。
〈4月10日〉アメフラシを採りに



 ヒノシマボタモチは、熊本県の八代海にしか生息しないアメフラシの仲間だ。狩堂(かりどう)博士は、専門家でも知る人の少ないこの生物について、何十年も前から研究を重ねてきた。博士のレポートが厚生労働省を驚かせたのは、つい三日前のことだ。
 ヒノシマボタモチから抽出される「ボタG」という成分に、目下世界を恐怖に陥れているあのウィルスを減退させる力があるというのだった。送られてきた実験データを見る限り、その効果は明らかだった。だが問題が一つあった。ボタGを持っているのは、ヒノシマボタモチのうち、わずか0・1%だというのである。

博士によれば、江戸時代中期には八代海全体の少なくとも80%のヒノシマボタモチがこの物質を有していたが、世代を経るごとに淘汰されていったようだ。もし、江戸時代にさかのぼって二十匹ほど採取してくることができれば、養殖によりボタG安定供給の道が拓けるかもしれない──厚労省の役人が、わが、日本テクノロジー大学大学院・永田研究室の戸を叩いたのは、そういういきさつからだった。時空移動をテーマとする当研究室は、極秘研究の成果として、昨年末、ついに時空スーツを完成させていたのだ。

 そして今、私、天比栄一(あまびえいいち)は永田研究室を代表し、深夜一時の八代海に浮かぶ船の上で、時空スーツを着込んだ狩堂博士と向かい合っている。
「ばってん、こんスーツはどぎゃんやろ。ウロコんごたる、びらびらと」
「すべて必要なパーツです。ご理解ください」
「角ばったゴーグルも口ばしんごたるマスクも髪の毛んついたヘルメットも、みんな、好かんばい」
「顔と頭を時空摩擦から守るためのものです。ヘルメットのOTプラチナファイバーは、一本でも抜けたらこの座標に戻れなくなりますので、ご注意を」
「注文、多か」
 文句を言いながらも、博士は船べりに足をかけ、海の中へ飛び込んだ。海面から顔だけを出して浮いている博士に向かい、私は念を押す。
「江戸時代の人に、絶対に見つからないように」
「わかっとる。ま、見つかったら、あんたん名前ば使うてごまかすけん」
 ざぶんと暗い海に潜っていく博士。二秒もしないうちに海中から、昼間のように明るい光の柱が上がった──。

   肥後国海中に毎夜光物出ル
   所之役人行見るニ づの如し者現ス
   私ハ海中ニ住アマビヱト申者也(後略)
    ──弘化三年四月中旬 瓦版


* 出典「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」

青柳碧人(あおやぎ・あいと)
1980年生まれ。早稲田大学教育学部卒業。早稲田大学クイズ研究会OB。『浜村渚の計算ノート』で第3回「講談社Birth」小説部門を受賞しデビュー。『猫河原家の人びと』『家庭教師は知っている』『未来を、11秒だけ』など著作多数。『むかしむかしあるところに、死体がありました。』は2020年本屋大賞にもノミネートされた。
漫画版Day to Dayはこちら

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