『光をえがく人』文庫化記念書下ろしエッセイ

文字数 1,772文字

私がアジアの現代アートを短編小説にしたわけ /一色さゆり


 2015年前後に、私は香港に留学していた。

 いわゆる「雨傘革命」と呼ばれる、学生主体の民主化運動が起こった直後だった。私が在籍していたのは、「雨傘革命」の本拠地の一つだった香港中文大学だったので、お世話になった先生や友人は熱く議論を交わしていた。しかしそこには、諦めのムードがつねに漂っていた。日本の若者は政治に無関心とよく言われるが、香港で感じた諦めは、日本の若者だった私にもどこか身に覚えのあるものだった。


 留学する以前、大手画廊で働いていた私は、香港に真逆のイメージを抱いていた。アジア最大のアートフェアが開催され、欧米の有名ギャラリーが支店を構える活気にあふれたハブ的都市――でもそれは外国からのイメージに過ぎず、地元で暮らす人たちにとっては、むしろ呪いのように作用していた。彼らは猫の額のようなアパートで高い家賃を払い、権力から強いられるダブルスタンダードに翻弄されていたからだ。


 そんな経験で感じたことを、私はずっと書きたかった。でも長いあいだ、書けなかった。なぜ日本人である自分が書くのか? 香港の人たちの気持ちの、なにがわかるのか? やっと本作のなかの一篇「香港山水」の構想を思いついたとき、私は気がついた。自分が書きたかったのは、香港に限らず普遍的に存在する、分断や息苦しさだったと。


 帰国後、私は都内の美術館に学芸員として就職し、アジアの現代美術をあつかう展覧会を担当した。そこでふたたび、同じテーマについて、とくに東南アジア諸国の美術史から深く考えざるをえなくなった。国籍や民族が違っても、現代アートには、普遍的な問題が横たわっていた。もちろん、日本にも通ずる問題が。


 たとえば、ミャンマー。私は展覧会で、実際にミャンマー政府から投獄された過去を持つアーティストを扱い、彼に長いインタビューをした。ミャンマーの混沌とした情勢については言わずもがなだが、当事者の口から語られる真実には大きな衝撃を受けた。物語にするのには、相当な覚悟を要した。それでも私は、書きたかった。彼の語ったことは、日本人の自分にも他人事ではないと感じられたからだ。それが、本作の最後に収録された一篇「光をえがく人」である。


 この短編集でなにかが変わるとも、変えたいとも思っていない。私の目標は、読んで面白いものを書くこと。ただそれだけ。だからこそ、自分が経験してきた、アジア諸国での圧倒的な諦めや息苦しさを書きたかった。そうしたテーマの、読ませる力の強さを信じているからだ。


 一人でも多くの人に、この短編集と出会ってほしい。

一色さゆり(いっしき・さゆり)

1988年、京都府生まれ。東京藝術大学美術学部芸術学科卒。香港中文大学大学院修了。2015年、『神の値段』で第14回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞して作家デビューを果たす。主な著書に『ピカソになれない私たち』、『コンサバター 大英博物館の天才修復士』からつづく「コンサバター」シリーズ、『飛石を渡れば』など。近著に『カンヴァスの恋人たち』がある。

東アジアのアートが照らし出す五つの物語。その一つ一つが大切な人との繋がりを浮かび上がらせる。世界の「今」を感じさせる小説集!


【ハングルを追って】
ハングルが書き込まれたアドレス帳を拾った美大事務職の江里子は、油画科の親友に相談し、ソフィ・カルにちなんで韓国へ行ってアドレス帳の持ち主を探すことに……。
【人形師とひそかな祈り】
伝統の御所人形を作り続ける正風は子どもにも弟子にも恵まれず、そろそろ工房を畳もうと考えていた。そんな折、フィリピンからの留学生を紹介され心を開いていく……。
【香港山水】
現代水墨画家の成龍は、コレクターたちのパーティに駆り出される。そこで本土の実業家の夫人・彩華と出会い、デモ隊と警察が衝突する混乱のさなかに二人は再会し……。
【写真家】
有名な写真家だった父が、記憶をなくして海外から帰国。娘は世話をしながら、母から写真家としての父の話を聞き、生涯を辿ることになる。知らなかった真実がそこに……。
【光をえがく人】
ミャンマー料理店の店主に、自国の政治犯についての話を聞くことになった。学生のころ反政府運動に加わって投獄され、劣悪な監獄生活のなかでの奇妙な体験とは……。

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