『こちらあみ子』今村夏子/不可解な輝き(岩倉文也)

文字数 2,325文字

今週の『読書標識』、月曜日更新担当は詩人の岩倉文也さんです。

今村夏子『こちらあみ子』(筑摩書房)について語ってくれました。

岩倉文也

詩人。1998年福島生まれ。2017年、毎日歌壇賞の最優秀作品に選出。2018年「ユリイカの新人」受賞。また、同年『詩と思想』読者投稿欄最優秀作品にも選出される。代表作に『傾いた夜空の下で』(青土社)、『あの夏ぼくは天使を見た』(KADOKAWA)等。

Twitter:@fumiya_iwakura

子供時代というのは、世界の〝手触り〟そのものが快楽だった時期のことをいうのではないかとぼくは思う。玄関のドアを開けた瞬間に飛び込んでくる世界のざらついた感触。肌に触れる草のくすぐったさ。土の香り。湿ったブロック塀のつめたい佇まい。聞こえてくる音の、目に入る光の、鼻孔をくすぐるにおいの、そのひとつひとつが新鮮で何より貴重だった時代。


本書の表題作「こちらあみ子」を読んでいるときの奇妙な感覚は、たぶん子供時代を思い出しているときのそれに似ている。自分が誰かを傷つけた記憶、傷つけられた記憶。不思議と印象に残っている些細な出来事、風景、感触。生々しく、けれど現実感を欠いた世界が、感情の欠片を伴って浮かび上がってくる。

しんとしていた。さっきまで聞こえていた「七つの子」のメロディーがいつの間にか鳴りやんでいる。車の通る音さえ聞こえない。学校の廊下ほどの幅の薄暗い道に、あみ子はひとりで立っていた。…(中略)…知らないところにいる。両脇に目をやると白い塀が続いていて、その塀に沿って何枚もの立て札が地面に突き刺さっていた。ハナトルナ! ハナトルナ! ハナトルナ! すべての札に黒いインクでそう書かれていたのだが、花はどこにも咲いていなかった。


(『こちらあみ子』より)

迷子になったあみ子の前に現われる「ハナトルナ!」の立て札。

デザートのいちごを食べていると、「あみ子さん、ありがとう」と、突然母が礼を言った。

「なにが」

「あみ子さんはやさしいね。孝太さんもやさしいね。お父さんも、みんな」

「そうかねえ」言いながらあみ子はべろの表面に貼りついたいちごのへたを指でつまんで口からだした。「やさしいかねえ」


(『こちらあみ子』より)

べろに貼りついたいちごのへた。こうした物の、一見物語の流れとは無関係に見えるようなリアルな質感が入口となり、読者はあみ子の世界に絡めとられていく。言葉自体の、叙述自体の心地よくしなやかな手触りに導かれ、あみ子の生きているやさしくも残酷な現実を追体験していくうちに、思ってもみなかった場所に立っている自分に気がつく。こんな小説を読んだのは始めてだし、自分がいま何を読み、何を感じているのか、正確につかむことができなくなる。


本作の主人公・あみ子は無垢な存在である。と取りあえず言ってみる。本作はそんなあみ子の、叶うことのない片恋の物語である。とまた言ってみる。しかしそう言ってみたところで、何の解決にもならないことをぼくはすでに知っている。


あみ子は何もわかっていない。自分がやさしいことも、残酷なことも、誰かを傷つけたことも、自分が傷つけられたことも。


本を読む人はいくつかのツボを持っている。そこを押されるとつい反応してしまう、そんなツボを。「詩」のツボ、「悲劇」のツボ、「自然描写」のツボ、「会話文」のツボ、「伏線」のツボ……。人はそれぞれ自分だけのツボを持ち、そこを巧みに押されると、アッと声をあげて喜びたくなる。


「こちらあみ子」を読んでいて、ぼくは確かにツボを押されるのを感じた。途中なんども読書を中断し、にやにやと笑みを浮かべてしまうこともあった。それほど嬉しかったのだ。物語の内容がおかしかったのではない。ぼくの持つ未知のツボをこの本が押してくれたことが、得体の知れない感動をぼくに与えてくれたことが、嬉しかった。


得体の知れなさ。それが本書のキーワードではないかと思う。あみ子を通して、人の持つ得体の知れない何かが、顕現している。愛とは、無垢とは、やさしさとは、痛みとは、孤独とは、祈りとは、ぼくたちが普段考えているようなものでないのかもしれない、という疑惑。

「どこが気持ち悪かったかね」

「おまえの気持ち悪いとこ? 百億個くらいあるでー」

「うん。どこ?」

(中略)

 笑っていた坊主頭の顔面が、ふいに固く引き締まった。それであみ子は自分の真剣が、向かい合う相手にちゃんと伝わったことを知った。あらためて、目を見て言った。

「教えてほしい」

 坊主頭はあみ子から目をそらさなかった。少しの沈黙のあと、ようやく「そりゃ」と口を開いた。そして固く引き締まったままの顔で、こう続けた。「そりゃ、おれだけのひみつじゃ」


(『こちらあみ子』より)

あみ子の持つ気持ち悪さ、得体の知れなさは、しかし同時に、人間の持つ最も美しい何かと繋がっていた。だからそれを覗き込もうとしたあみ子の同級生は、ふと、言葉を失ってしまう。


本作を読んでいると、人に対する、小説に対する、無垢に対する、あらゆる先入見がぽろぽろと剥がれ落ちていくのを感じる。~ではない、~ではない、~ではない……。


そうして否定を続けた先に、いったい何が残るのか? 


人間が。ただありのままであるという痛みを負った人間の、不可解な輝きが、必然のように、冗談のように、奇跡のように、ぼくたちの前には残されるのである。

『こちらあみ子』今村夏子(筑摩書房)
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