大坂冬の陣完全ガイド⑥

文字数 1,497文字

日本の歴史に残る有名な合戦を活写&深堀りして大好評の矢野隆さんの「戦百景」シリーズ

第7弾は、戦国時代の終焉を飾る大合戦を描いた『戦百景 大坂冬の陣』です!


「戦百景」シリーズとは…

第1弾『戦百景 長篠の戦い』は「細谷正充賞」を受賞!

第2弾『戦百景 桶狭間の戦い』

第3弾『関ヶ原の戦い』

第4弾『川中島の戦い』

第5弾『本能寺の変』

第6弾『山崎の戦い』


と、有名な合戦を深堀りしてリアルタイムで描く矢野隆さんの人気シリーズ!


第7弾はついに大坂冬の陣!

大坂冬の陣トリビアコラムの第3回は、大坂冬の陣で豊臣方が和議に応じた原因と言われる「大砲」の真実に迫ります!


これから読む方にも、読んだ方にもおすすめの、物語をより楽しむための作品ガイドです!

《なぜ大砲が勝敗を決したのか》


大坂冬の陣で豊臣方が和議に応じたのは、徳川方の砲撃のおかげだったことはよく知られている。


城近くの備中島から放たれた砲弾が淀の住まう櫓に命中。侍女8人が死亡し、事実上の城主である淀は戦意を喪失。真田丸の戦いで真田信繁が善戦したにもかかわらず、豊臣方は急速に和議へと傾いたのだった。


さて日本史を動かした、当時の大砲とはどういうものだったのか。家康は戦が始まってすぐ、イギリスからカルバリン砲4門とセーカー砲1門を購入している。しめて1400両。カルバリン砲は18ポンド(ボウリングの男性用の球は13ポンドくらい)の弾を飛ばす中口径大砲で、有効射程距離は500メートル程度。セーカー砲は5ポンドの弾で小口径大砲。有効射程距離はもう少し長い。


家康は国産の大砲・芝辻砲も大量発注していて戦の3年前に完成、実戦に300門以上を配置したという。これに対して、大坂城に備えられていたのはフランキ砲。日本に最初に伝来した大砲で、有効射程距離は300~400メートルほど。秀吉は積極的に大砲を活用しようとしたが、歿後は誰も関心を持たず、城の大砲は古いままとなった。


両軍のそんな大砲事情のなかで砲撃戦が始まる。徳川方が大砲を置いた備前島から大坂城天守までは約500メートル。カルバリン砲のギリギリの有効射程距離だったことになる。逆に大坂城から備前島にはフランキ砲は届かない。籠城戦が成り立たなくなったのだ。


牢人10万人に1800億円を用意したとされる豊臣方が、1門300両(3000万円ほどか)のカルバリン砲に目を付けていたら歴史は変わったかもしれない。

▲現在の大阪城砲台(フランキ砲ではありません)

戦国時代の終焉を飾る大合戦。

徳川vs豊臣、そして真田信繁、伊達政宗、上杉景勝、松平忠直らの戦場内外での陰謀や思惑を深掘り!

慶長16年(1611年)。関ヶ原の戦いから11年が経っていた。徳川家康は、後水尾天皇即位を口実に孫婿でもある豊臣秀頼を上洛させ二条城での会見を果たす。70歳になった家康は、19歳の秀頼に我が身の老いを思い知らされ、また世継ぎで二代将軍の秀忠との器を比較して心の闇に囚われてしまう。なんとしても豊臣家を滅ぼさねば。このときすでに、真の意味での大坂の陣ははじまっていたのだ。そして3年後の慶長19年(1614年)、豊臣家が家康を呪ったとされる「方広寺鍾銘事件」が起こる。なんとか東西の手切れを食い止めようとした、秀頼の傅役・片桐且元の奔走も空しく、徳川と豊臣の両勢力は戦への道を突き進んでいった。豊臣恩顧の武将たちも代替わりし、浅野や蜂須賀など豊臣のもとに参じる武将は皆無。他方、大坂城内は関ヶ原で敗れた西軍くずれの牢人たちで溢れていた。その中には真田信繁や後藤又兵衛の顔もあった。かくして天下の決着をつける大戦の火蓋は切られた……。

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