『失楽園のイヴ』文庫刊行記念! エッセイ『騎士の脚にご用心』/藤本ひとみ

文字数 6,167文字

藤本ひとみさんの『失楽園のイヴ』は、フランスのワイン蔵で謎の死をとげた日本人教授の教え子が、帰国後野望を胸に国内有数の進学校に潜り込み、数学の天才・上杉和典に近づいていくが――……というワインが絡む物語。


ブルゴーニュ・ワイン騎士団の騎士(シュヴァリエ)でもある藤本ひとみさんが、騎士叙任式での出来事を描いたエッセイ「騎士の脚にご用心」(『パンドラの娘』【2002年 講談社刊】収録)を『失楽園のイヴ』文庫版刊行を記念して、特別全文掲載します!

※写真はイメージです。(写真/アフロ)

騎士の脚にご用心   藤本ひとみ・著


騎士になりたい


 幼い頃から私は、騎士に憧れていた。君主に絶対の忠誠を誓い、諸国を旅して剣一本で自分の身を守りつつ、運命に挑戦する騎士とは、なんと素敵な人種なのだろうと思っていた。


『ロランの歌』や『ニーベルンゲンの歌』、はたまた『アイバンホー』『タンホイザー』『エルンスト公』、そして『アーサー王と円卓の騎士たち』などなどの騎士物語を読みふけり、胸の底まで痺れていたのである。自分も、将来はぜひ、こんな生き方をしてみたいと思っていた。


 ところが、私の周りの女の子たちは皆、

「やだ、ひとみちゃんったら、へん。騎士になって苦労するより、騎士に守られて、すべてを捧げられるお姫様になったほうが、絶対にいいに決まってるじゃない」

 と言った。でも私は、消極的なのは嫌いだ。自分で戦った方が、守られているだけより、どれほどおもしろいかしれやしない。事と次第によっては、私が守ってやってもいいくらいだ。


 だが悲しいことに、日本という国には、騎士になる術がなかった。私がこれほど熱い思いを捧げているというのに、騎士の資格試験とか、騎士の免許取得のための学校とかが、日本には、全然ないのだった。


 近いものとして、剣士というものが、あるにはある。しかし、騎士のように諸国を放浪する剣士といえば、どうしても宮本武蔵のイメージがあり、自分がああなるのかと思ったら、私は、すごく嫌だった。もう少しきれいでいたい。


 加えて、自分の父が剣道の有段者だったので、あまりにも身近すぎて、私には剣士にロマンを抱けなかった。


 やはりロマンティックで、強くありたい、そう考えて私は、そのラインにそった武道に走った。小学校高学年から、「八光流」という護身術の道場に入門したのである。護身術というのは、動きがとてもしなやかできれいだったので、私は、かなり慰められた。


 ここからさらに高じて、空手の道に足を踏み入れ、実は、少林寺拳法にも少々、浮気をした。それもこれも皆、騎士になる方法が見つからないための、代償行為であった。


 ところが、である。今年の四月に、私は、ついに騎士になった。履歴書を書く時、「身分、騎士」と書いてもよくなったのである。


 ブルゴーニュ・ワイン騎士団


 つい四年ほど前、私は、こんなお誘いを受けた。


「フランスの古城で、ご一緒に、狩りをしませんか」


 どちらの古城ですか、とうかがうと、なんと、

「シュヴェルニーです」

という答え。るんっ!


 シュヴェルニーというのは、ロワール河流域に並ぶ古城群の中でも、かなり有名な城の一つである。


 今日に残るフランスの城館の多くは、たいてい部分的に建てなおされているため、建築様式がバラバラで、統一感を欠いているのが普通のこと。ブロワ城などは、その典型で、実に十三世紀から十七世紀までの建築様式が、渾然一体をなしている。


 しかしシュヴェルニーの城は、十七世紀前半の三十年間に建造され、外側は、そのまま保存されているため、当時の流行の先端の様式で統一されている。厳格なほどの左右対称や、中央棟の両側に翼棟をつけるなど、典型的なルイ十三世様式なのである。


 そしてこの城館以上に有名なのが、領地内にある猟犬の犬舎。イングランドのフォックスハウンド犬とフランスのポワトゥー犬を掛け合わせた百頭弱の猟犬が、昔のままに飼われており、現在の城主シュヴェルニー氏が、これらを使って毎年、大がかりな狩りをすることは、広く知られていた。


「実は僕、彼と知り合いで、誘われているんですよ」


 まあ、素敵。


 狩りとは、騎士のスポーツである。フランスの田舎を訪れると、時々、馬に乗った人々が、猟銃を小わきに次々と森に分け入っていくところに出くわす。昔ながらの光景に、思わず見とれてしまうのだが、私にも、ついにそのチャンスが訪れたのだった。


 これを逃してはならない。私は固く決心し、本場の狩りのための準備を始めた。まず乗馬、そして射撃である。腕を磨いて、今年の狩りには必ず、参加してみせる。


 と思いつつ、三ヵ月ほどたった頃、はっと気がついた。なにを隠そう私は、生き物を殺すのが、苦手なのだった。


 だから、小学校の頃も、夏休みの課題の昆虫採集ができなかった。生きているかぶと虫や蝶の背中に、針を刺して薬を流しこんで殺すなんてこと、とてもできない。今もって蚊も蜘蛛も、ゴキブリでさえも殺せない。バシッと叩いた時、つぶれて液体が出るかと思うと、背筋がゾクゾクするほど気持が悪い。


 狩りの獲物は、兎や鹿や猪である。体液の量にしても、蚊や蜘蛛やゴキブリの比ではない。小昆虫でさえビビっている私に、いったい狩りができようか。


 それで、あきらめたのだった。そしたら、くだんのお方は、こうおっしゃった。


「では、ブルゴーニュ・ワインの騎士団にお入りになりませんか」


 私は、目が真ん丸になってしまった。騎士団、騎士団! なんと輝かしい響き。


「騎士になれるんですか」


 息をはずませて私が聞くと、その方は、お答えになった。


「ええ。この騎士団には、四つの階位があります。グラン・オフィシェ、オフィシェ・コマンドゥール、コマンドゥール、シュヴァリエです。一番下の位がシュヴァリエで、日本語になおせば、騎士です」


 ああ、一生、一番下でいい。こんなところで少女期の夢が叶おうとは、思ってもみなかった。


「ただ、審査があります。申請書を出して、日本支部の評議会を通り、かつフランス本部の審査を通らないと、騎士として認められないのです」


 かくて私は、この二回にわたる審査を、神妙な面持ちで待ち受けることとなったのだった。


夢は実現するか


「ブルゴーニュ・ワインの騎士団」とは、正式名称を、ラ・コンフレリー・デ・シュヴァリエ・デュ・タートヴァンという。ブルゴーニュのワイン畑の中に建つ十六世紀シトー会の修道院シャトー・デュ・クロ・ドゥ・ヴージョを本部とし、現在、世界中に一万二千名余の騎士を擁する団体である。


 私の手元に、この騎士団から送られてきた雑誌があり、メンバーの写真が載っているが、まあ、きらびやかなこと。各国王家の人々や大統領、俳優、デザイナー、音楽家、科学者と、豪華多彩である。はたして私は、この中に交じることができるのであろうか。


 危惧を抱いて待つこと十ヵ月。なんとか合格の返事をもらえたのが、夢のようだった。


 ついては、二年以内に本部のシャトーに出かけなければならない。ここで騎士叙任式に参列し、総裁の手から騎士としての位を戴かなければならないのである。


 ああ、すぐにでも出かけたい。だが、クロ・ドゥ・ヴージョの城は、あまりに遠い。なにしろフランスのド・田舎、それもブドウ畑の真ん中である。しかし、二年以内に行かなければ、資格は取り消しとなる。ここまできて、そんなことにでもなったら、泣いても泣ききれない。といえども、クロは、あまりに遠い。


 逡巡しつつ、私は、その二年が切れるギリギリの去年の四月、ようやく時間を作って本部に向かった。叙任式参加の許可状が、出発の二日間というあわただしい時期に届いたため、封も開けずにスーツケースに突っこんで、出かけたのである。これが、後々、後悔のタネとなった。


叙任式の悲劇


 許可状さえあれば、城に入れてもらえるし、叙任式にも参加できる。私は、気楽にそう考え、式当日まで許可状の封を切らなかった。日本支部の方から、叙任式の日時を聞いていたので、中を見る必要もないと思っていたのである。さて当日の午後、シャワーを浴び、身支度をし、いよいよ出かけるという段になって、初めて封筒を開けて、青ざめた。なんと、ドレス・コードがあったのである。


 ドレス・コードというのは、服装指定のこと。その許可状には、はっきりと、ブラック・タイが指定されていた。


 ブラック・タイ指定とは、黒いネクタイをしてこいということではない。タキシードを着てこいということである。そして男性がタキシード指定を受けた場合、女性は必ず、爪先まですっぽり隠れるフルレングスのドレスを着なければならないことになっている。


 持ってこなかった!


 その時私には、膝丈までのスカートしかなかったのである。さあ、どうする。買いに行くといっても、その日は、土曜日で、市内の店は、全部休み。大都市ディジョンまで出ればなんとかなるかもしれないが、そんなことをしていたら、叙任式の時間に遅れてしまう。


 やむなく私は、膝丈スカートをはいた。入城を拒否されるかもしれない、とは思ったが、他にないのだから、どうしようもなかった。


 夕闇せまるブドウ畑の中、車を走らせること一時間半。修道院の名残をとどめたクロ・ドゥ・ヴージョの城の前までたどり着いた時、私は、いっそう青ざめた。


 そこには、たくさんの車が集まってきていた。観光バスも、次々とやって来て止まった。そして、それらから続々と降りてくる人々は皆、タキシードか、フルレングスのドレスだったのである。


 四月とはいえど、春は名のみの風の寒さや。私は、丸出しの自分の脚の間を吹き抜ける風を、冷たく感じた。後で聞いたところによると、その日、クロ・ドゥ・ヴージョに集まった人々は、六百五十人弱。フランスはもちろん、イギリス、アメリカ、ドイツ、アラブなどからいろいろな人々がやって来ていたが、その中で、ただ一人私だけが、脚を出していたのであった。


 城門をくぐり、出入口まで行って、許可状を出すと、幸い、入城を拒否されることはなく、叙任式の行われる大広間に行くように言われた。この日、叙任される騎士は、五十名前後。一人一人を壇上に呼び上げての叙任ということだったので、私は、初めこそ、熱心に見つめている参列者も、そのうちには飽きるだろうと踏んだ。そうすれば、いちいち服装をチェックすることもなくなるにちがいない。


 少しでも後の方で呼ばれるように。と祈りながら、私は、できるだけ目立たないように広間の隅に隠れていた。やがてファンファーレの音と共に、時代衣装の狩着を身につけた楽団が現れ、さらにホルンのメロディにのって総裁が登場した。後ろに数人のグラン・マスターが続く。


 緋色に金の縁取りをした帽子をかぶり、床まで届く赤と金の礼服に身を固め、ブドウの太い枝を片手に握った総裁は、長い挨拶をした。そして名簿を開き、これから叙任式を行うから、名前を呼ばれた人は、この壇上にのぼるようにと言った。大広間につめかけていた全員が固唾を呑んで、総裁の口からこぼれる最初の名前を待った。そして総裁は、言ったのである。


「イトミ・フジモト」


 私は、一瞬、目の前が真っ暗になるような気がした。せっかく隠れていたのに、なにも真っ先に呼ぶことはないじゃないのお……。しかたがないので、集まっている人々をかき分けかき分け、前に出て段の上にのぼったが、あの時ほど、自分の脚に皆の視線を熱く感じたことは、かつてなかった。


騎士は疲れる


「ブドウの木の父ノアにより、酒の神バッカスにより、ブドウ栽培者の守護神、聖ヴァンサンにより、我々は、あなたを我々の騎士団に迎え入れる」


 そう言って総裁は、私の左右の肩をブドウの木で叩いた。それからグラン・マスターが私にキスをし、銀のタートヴァンを首にかけてくれた。さらに羽ペンを渡され、騎士団の名簿にサインをするように言われた。厚さが二十センチ以上もあるような名簿に、私は、日本語でしっかりと自分の名前を書き入れた。


 これで私も、ついに騎士となったのである。幼い頃の夢が実現したのだった。後は、日々、腕を磨き、強くなって、この騎士団のためにつくすのみである。スカートの一件さえなかったら、どんなにかうっとりとできたことだろう。


 八時から始まった晩餐会は、あふれるほどのワインと共に、いつまでも続いた。翌日の一時半になっても、私は、まだデザートまでたどり着けなかった。


 途中で、「ブルゴーニュの兄弟たち」と呼ばれる男性合唱団の歌が入り、また騎士団の音楽家が次々と壇上にのぼって、ピアノをひいたり、アリアを披露する。参列の各国大使に感謝状が贈られたり、またその大使が長い長い演説をして席を沸かせたり、興にのった人々がナフキンを振り回したりと、大騒ぎの中で晩餐は進むのだった。


 生きる歓びをかみしめること、それがこの会のモットーである。しだいに私も、スカートのことなど忘れ、楽しい夕べというか、真夜中というか、朝方までをすごした。


 さて、日本に戻ってきて、間もなく騎士団の日本支部の総会が招集された。これもブラック・タイ指定である。私は、今度こそは恥をかくまいと思い、しっかりとフルレングスで出ていった。


 しかし、なぜフルレングスという形式のドレスは、脚についてはストイックすぎるほどにおおい隠しながら、上半身については、ほとんど丸出しなのであろう。私の服も、背中部分がウエストまで開いていた。だが、胸部分がウエストまで開いているよりはましなので、妥協することにしたのだった。


 だが、よく考えてみると、ただ肌が出ているだけでは、少しもおもしろくない。やはり、ここに生きる歓びを加味したいものだと思い、私は、出ている部分にホログラフィック・ジェルという名の光る糊を塗り、さらに金粉をまぶしてみた。なかなかおもしろくなって、満足だった。


 さあ、これで心ゆくまでワインを飲みふけり、生きる歓びをかみしめるぞと、決意も新たに家を出て、とたんに後悔した。金粉のせいで、どこにも寄りかかれない……。


 結局、総会が終わる夜の十一時すぎまで、私は、彫像のようにじいっとしていた。騎士身分とは、疲れるものである。


藤本 ひとみ(フジモト ヒトミ)

長野県生まれ。西洋史への深い造詣と綿密な取材に基づく歴史小説で脚光を浴びる。フランス政府観光局親善大使を務め、現在AF(フランス観光開発機構)名誉委員。パリに本部を置くフランス・ナポレオン史研究学会の日本人初会員。ブルゴーニュワイン騎士団騎士。著書に、『皇妃エリザベート』『シャネル』『ハプスブルクの宝剣』『皇帝ナポレオン』『密室を開ける手』など多数。

『失楽園のイヴ』 藤本ひとみ・著


イヴの異称を名前に持つ女、上田絵羽。絵羽はある野望をもち、日本国内の超進学校に潜り込む。そこには数学の天才児・上杉和典が在籍していた。絵羽は己の目的を達成するために、自分が目を付けた優秀な人間に扇情的な言葉を投げかける。絵羽からの荒唐無稽な要望に強い拒絶感を感じる一方で、強く惹かれる和典。しかしその裏に見え隠れする、得体の知れない闇に危険を感じ、それが何なのかを探り始める。

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