善き人々の受難/早助よう子

文字数 1,715文字

文芸誌「群像」では、毎月数名の方にエッセイをご寄稿いただいています。

そのなかから今回は、2015年4月号に掲載された早助よう子さんのエッセイをお届けします!

善き人々の受難


 へそを落としました、という知人がいる。Kさんだ。年は三十半ばくらい。誰かが「端正だ」と褒めていた、おひな様みたいな優男である。

 その顔が、青ざめている。

 こういう時、わたしはしゃべっている人の目をそっと見る。

 笑っているか。

 本気なのか。

 それによってこちらの出方も変えようという、いささかセコイ、生活の知恵だ。

 果たして、Kさんは、本気の目だった。

「落としたって、どこでですか」

「自宅の、風呂場」

 シャワーを浴びていて、ふと足元を見るとへそが転がっていく。ああどうしよう、まさか、と思っている間に、大事なへそはシャワーの湯ごと、排水口へ吸い込まれてしまったらしい。

 じゃあ、今、へそ、無いんですね。半分笑いながら訊くと、うつむき加減の小さな声で「怖くて、それから、見られなくて」。

 これを噓と言うのは簡単だ。しかし、わたしはわりに、情に篤いたちである。噓でしょう、見まちがいでしょう、と言う代わりに、へそがどうしたって言うんですか。へそなんか無くてもなんとかなりますよ、と励ました。今までだって、彼女にふられても、アルバイトを切られても、高学歴だけど仕事が無くて、その代わり借金だけは何百万とあっても、博論をリジェクトされても、八方塞がりでも、何とかやってきたじゃないですか、ファイトファイト。

 さて、不思議と言えば、友人の父親の話も不思議だ。友人の父親は、夜、自宅近くの公園で、宇宙人が走って行くのを目撃したという。わたしの好きな話である。なぜ、夜目にも、走って行くのが宇宙人だと分かったのだろう。

 ところで、世の中には、ウルトラ兄弟という方々がいる。

 著名人である。

 もしかして、友人の父親が見たというのは、この一族のお人だったのか。それなら、ひと目でそれと分かっても、何の不思議もない。

 吉野弘の「夕焼け」という詩がある。教科書にも載った、有名な、美しい詩だ。


  固くなってうつむいて

  娘はどこまで行ったろう。


 宇宙からのお人は、どこへ急いでいたのだろう。火急の用事でもあったか。故郷の星を遠く離れ、地球にひとり。ご不自由もあるだろう。詩と同じに、こちらも見知らぬ宇宙人の幸を願って、祈るような気持ちになる。

 友人の父親が見たのは、茨城県水戸市、千波湖付近のことだという。わたしはそこへ一度も行ったことは無いが、星明かりに光る湖水と、うっそうとした森の陰、小路をひとり駆けて行く、孤独な背中が見える気がする。

 さて、詩はこう続く。


  やさしい心の持主は

  いつでもどこでも

  われにもあらず受難者となる。


 子ども心にもうすうす分かっていたが、ウルトラの一族も、途方もなくやさしい方々である。いくらそれが使命とはいえ、他人の星の怪獣退治に命をかけるなど、誰にでもできることではない。

 へそを落としたKさんも、甲斐性こそないが、やさしい男である。人徳があるとはこのことか。後輩に慕われ、先輩に可愛がられ、縁起物として撫でさすればご利益があると、まことしやかに噂が立つ。

 ひるがえってわたしは、性格が悪い。その証拠に、友だちが少ない。思い切って言えば、野良猫の友だちのほうが多いくらいである。

 性格が悪いので、受難者にだけは、なる心配が、無い。ああよかった。性格悪くて。そう思った瞬間、Kさんの温和な笑みが消え、ふいいっ、と声を上げて泣き始めた。どうしたどうした。と見ると、ウルトラ兄弟も、肩を震わせ、男泣き。

 ここで、はたと思い当る。そうか、わたしのためか。わたしの性格の悪さ、そのせいで招く不幸の数々、来し方行く末を、案じているのだ。詩にもこうある。


  何故って

  やさしい心の持主は

  他人のつらさを自分のつらさのように

  感じるから。


 ああ、なんてことだろう。

 ありがとうございます。


早助よう子(はやすけ・ようこ)

作家、1982年生まれ。近刊に『恋する少年十字軍』。

2022年4月号「群像」に、中篇「アパートメントに口あらば」が掲載されています。

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色