八月◆日

文字数 4,570文字

1日1冊、3年で1,000冊の本を読み、月産25万字を執筆し続ける小説家・斜線堂有紀。


謎めいた日常はどのようなものなのか――

その一端が今ここに明かされる。


毎月第一・第三月曜日、夕方17時に更新!

夕暮れどきを彩る漆黒の光・”オールナイト”読書日記が、本日も始まる。

前回の日記はこちら


八月◆日

 阿津川先生とのトークイベントが行われた。競作企画「あなたへの挑戦状」がメフィスト特別号として会員限定配布されたのを受けて催されたイベントである。


 まだ読んでいない人に向けてネタバレ無しでトークイベント……ということなのだが、大丈夫かな……? と、始まる前は恐々としていたのけれど、始まってしまえば楽しかった。というか、本好きが本の話をするだけでお祭りなのだ


 競作の話をするのも、阿津川先生との競作のきっかけや、おすすめの挑戦状ミステリについて話したりするのも楽しかった。読者の方との質疑応答も、盛り上がってくれて嬉しかった。壇上にいたのでコメントは見られなかったけれど、盛り上げてくれたことに感謝している。皆さんのおかげで成り立っているイベントです!


 その中で「ミステリ初心者におすすめのミステリは?」という質問があった。こういう時にパッとあれこれ思いつかない人間なのでちょっと焦りつつ、私が推したのはジャン=ジャック・フィシュテルの『私家版』である。


 これは、人気作家の友人を殺す為に、本を凶器とする完全犯罪を目論む男の話だ。選んだ理由は「そう長くはない物語であること」「引きが強い物語であること」「文章が読みやすいこと」の三つを満たしていたからだ。持論として、あらすじとオチが数年経っても忘れられないもの──こうした場でもすっと記憶の引き出しから出てくるものは、人に勧めるのに適している。これを読んだのはもう十年近く前になるが、未だに忘れられない小説だ。


 またこうして阿津川辰海とイベントをする機会に恵まれたらいいな、と思う。ただ、その時もまた、私は緊張するだろう。よく考えてみれば、私はどれだけイベントの場数を踏んでも、阿津川辰海と相対する時は緊張するだろう。何故なら、私は阿津川辰海をライバルとして敬愛しているからだ。この愛情がある限り、私はずっと阿津川辰海に対してひりつくような熱を抱き、緊張を覚えるのだろう。願わくば。数十年後も同じ緊張を覚えていたい。



八月☆日

 味噌汁を飲んでいる時期は体調が良いな、と思ったけれど、正確に言えば味噌汁を作れるくらい生活に余裕があると体調が良いということなのだろう。料理を作っていると、ロアルド・ダールの「味」(「あなたに似た人」(新訳版)所収)という短編を思い出す。これは美食家達がワインの銘柄を当てるゲームをするという物語だ


 絶対に銘柄を当てられないと請け負う主人に対し、客は当てられたら娘と結婚させてほしいと、とんでもない条件を提示する。数多あるシャトーの中から銘柄を当てるなんて出来るはずがないと主人は高を括っているが、客は自信満々に推理を披露していく……。タイトルからの連想だからだろうが、特に煮え立つ鍋を見つめていると思い出す一作だ


 そんな中でイリナ・グリゴレ『優しい地獄』を読む。これは、社会主義政権下のルーマニアに生まれ、川端康成の「雪国」に魅せられて来日し、そこで人類学者となった著者の自伝的エッセイである。社会主義が解体されるのを傍で見つめ、チェルノブイリ原子力発電所の事故によって傷んだ身体の手術を淡々と描く。自分の住んでいる村が放射線マップ上で赤く染まっているのを見て、脱皮に失敗して庭で死ぬ天道虫と自身を重ね合わせる。


 日常の些事も国に揺れ動く自分自身も、イリナにしか書けない独特の感性と筆致で綴られているので、深く感じ入らされる。一つ一つの言葉が美しくて、詩を読んでいるような気持ちになるのだ。「雪国」を読んだ時に、私がしゃべりたい言語はこれだ、と思ってくれたことが嬉しい。やりたいことをやろうと決めたイリナが──「これからは、自分の身体が透明になるまで開いていく」と表現してくれた時、私の心も言葉の世界に開いていった心地がした。


 この本は、折に触れて読み返すことになるだろう、と思った。特別な一冊だ。


 タイトルの「優しい地獄」は、イリナの娘が、ダンテの神曲で描かれた地獄について聞いた時に呟いた言葉だ。


「でも、今は優しい地獄もある、好きなものを買えるし好きなものも食べられる」


 イリナはこれを資本主義の皮肉だと取ったけれど、私はもっと普遍的な真理のように感じている。それは私が資本主義の中に生まれ、育ってきたからだろうか?



八月/日

 眠る前に大事に大事に読んでいたルシア・ベルリン『すべての月、すべての年』を読み終えた。前回の『掃除婦のための手引き書』が大好きなので、とっておきのクッキーのように大切に読み進めていたのだ。十九の短編はどれも粒揃いのものだった。特に好きだったのは、母親の死や身体を苛む癌、それに夫の裏切りなどのありとあらゆる不幸に襲われた妹と、彼女を慰めるべく傍にいる姉を描いた「哀しみ」である。一口に姉妹愛とも言いづらい歪ないたわり、慰めの為だけに捏造される記憶など、不幸よりももっと奥にあるざらつき。


 あとは「笑ってみせてよ」も好きだ。人を見る目に自信があると豪語する弁護士の主人公は、ジェシーとマギーのカップルに出会い、彼らの弁護を引き受けつつ彼ら自身に惹かれていく。人が仲良くなり、絆を育んでいく過程をこう描くのか、と小説家視点で興味深く思った。


 私は「仲良くなった」ということを示す為に、区切りとしてイベントを起こそうとしてしまいがちなのだが、ちょっとした会話と空気感だけで、仲良くなったことが分かるのだ。これは文章力のなせる技なのだと思う。


 ルシア・ベルリンが世を去るまでに遺した短篇の数は七十六編だ。これでその内の四十三篇が訳されたことになる。残りの短篇も読める日を心待ちにしている。

 


八月◯日

 雑誌の定期購読登録を成功させてから、ぼーっと生きていても雑誌が届くようになって便利である。今日も小説現代が届いた。九月の小説現代も面白かった。なんと真梨幸子『さっちゃんは何故死んだのか?』は全篇掲載


 広告会社近くのカフェでノマドワークをしている女性・公賀沙知が、ある日公園のベンチで殺される。何故彼女が殺されたのか、という謎もさることながら、それよりも強く読者を引き込むのは、彼女がどうしてホームレスになったのか? という謎であるそこから、様々な人間が公賀沙知の人生を追っていくこととなる


 この彼女の転落が……──さっちゃんはあなただったかもしれない、という冒頭のキャッチが示すように、他人事ではない生々しさを感じさせるものなのだ。少しの躓きが人生を取り返しのつかない沼へと変貌させてしまう恐ろしさ。


 割の良いバイトがあるという言葉に惹かれた結果、熱海のコンパニオンとして連れて行かれるくだりは、真梨先生がエッセイ「おひとりさま作家、いよいよ猫を飼う」で、実体験として語っていたことだったので、少しふふっと笑ってしまった。真梨先生は間一髪のところで逃れられたが、沙知は逃げることも出来ず流されていく。


 何がいけなかったのか、というのを一口に言うのは難しい。沙知は致命的な失敗を犯したわけではない。痛々しい見栄を張りつつ、人生を少しだけマシな方向に押し上げようと奮闘する沙知の生き様や、そんな彼女に色々な文脈や解釈を加えて、自分の人生を補強する材料に仕立て上げる周りの人々は、どれも身に覚えのある手触りで、居心地が悪くなる。ここでこのオチを持ってくるのも凄いな……と感嘆しきりだった。さっちゃんは、私だったかもしれない


 芦花公園『終の棲家』も、とても素晴らしい短篇だった。というか、単純な感想を言ってしまうと、怖かった……。


 「人が死ぬと良いことがある」という教えから、死者が出ると喜ぶ習慣のある家に生まれた「美和子さん」は、日々「またついてくる」と叫び、恐慌状態に陥る。彼女の様子をおかしく思ったヘルパーは、美和子さんの話を聞くのだが……。


 幼い頃に遡る奇妙な習慣を追っていくにつれ、嫌だなあ……という気持ちが強まっていくところ、その人の身に何が起こっているかを解明していくことが恐怖に繋がっていくところが、嫌だ……。人を嫌な気持ちにさせるホラーは良いホラーである。


 この日は、小説現代と一緒にトーマス・ジーヴ『アウシュヴィッツを描いた少年 僕は銃と鉄条網に囲まれて育った』も読んだ。これは当時十三歳だったトーマスがアウシュヴィッツに送られて過ごした日々を、彼の直筆の絵と共に語った記録である。


 アウシュヴィッツについて綴られたノンフィクションは数あるが、少年といっていい程の年齢の彼がどのように過ごしていたか、どうやって生き延びたかが克明に記されているのはなかなか無いように思う。


 ピッチャーに入ったコーヒーに砂糖をたっぷり染みこませ、後で漉して砂糖を精製したり、担当医師と協力することでビタミン剤を確保したり、どんな状況下でも人は協力し合い、生存という一つの目的に向かっていくことが出来るのだ


 一方で、収容所ではドイツ人・ポーランド人の囚人達に向けて当局が映画の上映会を行っていたという記述に驚いた。トーマスは運良く入場券を譲ってもらい、映画を観る。てっきりプロパガンダ映画が上映されたんだろうと思ったのだが、家庭内での情事を描いたものだったらしい。トーマスはこの時のことを、あまりに自分の生活とかけ離れていて蜃気楼のように感じた、と語っている。


 トーマスはアウシュヴィッツにいる間に白黒のスケッチを描き続けていた。彼は収容所で描き溜めたスケッチを回収出来ないまま撤退することとなったが、描いた絵はトーマスの記憶に強く残り、収容所を出た後にこうして再現することが出来ている。この絵を現代の私達が見られることに感謝している。


 こうして雑誌や本がどんどん送られてくる日々は楽しい。本当は全てのものが自動で送られてきてほしい。今日も家の中で本と映画を楽しめるようになってくれて嬉しい。この間、ウーバーイーツでクレープが頼めることに気がついて衝撃を受けた。クレープって家の中でぬくぬくしていても食べられるのだ……。ありがとう現代。ありがとう宅配。クレープは私の夢の城だ。


「あなたへの挑戦状」(阿津川辰海・斜線堂有紀)が、会員限定小説誌「メフィスト」初の単独特別号として発行

さらに、9月29日(木)単行本として発売決定いたしました!


次回の更新は、9月19日(月)17時を予定しています。

Written by 斜線堂有紀 

小説家。2016年、第23回電撃小説大賞にて“メディアワークス文庫賞”を受賞。受賞作『キネマ探偵カレイドミステリー』でデビュー。著作に『詐欺師は天使の顔をして』(講談社)、『恋に至る病』(メディアワークス文庫)、『ゴールデンタイムの消費期限』(祥伝社)などがある。2021年、『楽園とは探偵の不在なり』(早川書房)が本格ミステリ大賞にノミネートされ、注目を集める気鋭の書き手。

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