『人生のサバイバル力』/佐藤 優

文字数 6,449文字

2018年、「学校では教えてくれない本物の知恵を伝える白熱授業」と題して、佐藤 優さんが「島の教育は島全体で応援する」との考えの下「久米島高校魅力化プロジェクト」を名づけた教育改革を行っている沖縄県・久米島で特別授業を行いました。その講義記録を基にして作成した本『人生のサバイバル力』が文庫化になりました!

佐藤 優さんの『人生のサバイバル力』、紹介&試し読みです!

撮影/森 清

佐藤 優(サトウ マサル)

1960年、東京都生まれ。作家、元外務省主任分析官。同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。在ロシア日本国大使館勤務などを経て本省国際情報局分析第一課に配属。主任分析官として対ロシア外交の分野で活躍した。2005年『国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて』で作家デビューし、2006年『自壊する帝国』で大宅壮一ノンフィクション賞、新潮ドキュメント賞を受賞。ほかの著書に『獄中記』『私のマルクス』『母なる海から日本を読み解く』『十五の夏』『埼玉県立浦和高校ー人生力を伸ばす浦高の極意』ほか多数がある。

はじめに


 1960年1月生まれの私は、もうすぐ60歳の還暦を迎えます。そろそろ人生の終わりに備えて、自分の仕事を整理しなくてはならないと考えています。その過程で、教育に対する関心が私の心の中でとても強くなっています。


 21世紀に入って、新自由主義的な競争原理が、教育にも入ってきました。「選択と集中」によって、都市部の富裕層の子弟とそうでない子どもたちの機会の平等が著しく損なわれています。そういう状況で、沖縄本島の西100キロメートルにある久米島が「久米島高校魅力化プロジェクト」と名づけた興味深い教育改革を行っています。


 約10年前、久米島高校は存亡の危機に直面しました。

 久米島高校には現在、「普通科」と「園芸科」が設置されていますが、平成21年、沖縄県教育委員会より、園芸科の生徒募集を平成26年度をもって停止するとの提案を受けたのです。


〈久米島のような離島にとって、園芸科の廃科は単に一つの科がなくなるというだけには収まりません。基幹産業である農業の担い手不足を招くだけでなく、子どもたちの学びの選択肢が狭まることで、島外進学を選ぶ生徒が増える可能性があります。それにともなって一家転住が増え、人口減少が加速し、島の衰退にもつながりかねない、島の将来を左右する問題です。


 この問題に対処するため、行政や教育委員会、町商工会、地域住民有志などによる「久米島高校の魅力化と発展を考える会」を発足。本格的に高校魅力化プロジェクトが始まりました。


 園芸科の存続を求める署名運動や住民大会、町長や町教育長、町議会議長による働きかけなどのかいあって、園芸科廃科はいったん延期に。


 しかしその後も、「島の教育は島全体で応援する」との考えの下、オール久米島で高校魅力化プロジェクトを進めています〉


──久米島高校魅力化プロジェクトHP


 私は、2018年6月2~3日、久米島に出かけ、久米島高校の生徒を相手に特別講義を行いました。その講義記録を基にして作成したのがこの本です。講義では吉野源三郎『君たちはどう生きるか』などをテキストにして、勉強にどういう意味があるかについて、生徒たちと一緒に議論し、考えました。知識の定着をチェックする小テストも行いました。生徒たちは講義内容をよく理解していました。


 久米島高校の教育内容は、過去数年で飛躍的に向上しています。「離島留学制度」によって全国から集まった生徒と、島内出身の生徒が共に学ぶことで、互いの価値観に触れ、刺激し合って学びを深めています。進学実績でも琉球大学の医学部を含む各学部、公立名桜大学、早稲田大学などに合格者を出しています。またハワイのコナワエナ高校への短期留学制度があり、留学費用の9割を久米島町が負担しています。


 久米島町は、東京工業大学出身の若手を久米島高校魅力化事業嘱託員に雇って学校と連携を図り、町営塾「久米島学習センター」では早稲田大学などを出た若手6名が3年契約で久米島に住んで講師をしています。町営塾では就職希望者も対象に、生徒の進路と適性に応じたきめ細かい教育を行っています。また島外生のための町営寮では、海外でも経験を積んだ優秀な女性がハウスマスター(寮母)をつとめています。能力が高く、情熱のある若手の教育専門家が久米島に集まっているのです。


 離島でさまざまなハンディがあっても、人々の熱意と努力によって、優れた教育を行うことができるという久米島高校の経験から、多くを学ぶことができます。


 今、日本の教育は大きく変わろうとしています。2020年の大学入試改革により、これまでの偏差値重視の入試が転換し、「自分の頭で考える力」が問われるようになります。今回の特別講義では、久米島高校の生徒たちに、数値だけでは計れない、これからの時代を生き抜くための知恵、人生をサバイバルする力を伝えたいと願いました。


 私の講義を熱心に聞き、積極的に討論に参加してくれた生徒たち、このプロジェクトを支援してくださった久米島高校、久米島町役場の関係者、講義を傍聴して、本書の編集の労をとってくださった講談社の見田葉子さんに深く感謝します。


2019年6月20日

佐藤 優

もくじ


第1部 何のために勉強するのか  13

人生で役に立つ知識とは/「悪」について知っておこう/つらい過去には向き合わなくていい/医者と弁護士がゴールではない/「入学歴社会」が終わるとき/偏差値の導入で何が起こったか/AO入試でも数学を捨ててはいけない理由/アクティブ・ラーニングの誤解/論理の力を身につける/論理をめぐる二つの考え方/知っておくべき「大学とお金」の話/自分が嫌いなことは覚えられない


第2部 歴史から何を学ぶか  45

母が経験した沖縄の戦争/学校では教えない歴史がある/時間について――クロノスとカイロス/歴史は解釈によって変わる/消えた「英雄」のエピソード/差別はなぜ生まれるのか/サバイバルに必要なのは「総合知」/久米島の歴史が教えてくれること


第3部 君たちはどう考えるか  69

ものの見方について――『君たちはどう生きるか』を読み解く①/地動説と天動説をどう考えるか/パラダイムとは「ゲームのルール」/二つの「ものの見方」を行き来しよう/ラブレターを書いたらポストが気になる/人間は無意識に動かされる/AI時代に何を勉強するか


第4部 これからの時代を、どう生きるか  93

人間の結びつきについて――『君たちはどう生きるか』を読み解く②/人類史はどのように発展してきたか/文明は後戻りできない/資本主義の基本的な構造を知る/贈与、相互扶助、労働力の商品化/賃金はどうやって決まるか/日本に急増する「アンダークラス」/税金と福祉の関係――アメリカ型とヨーロッパ型/経済の論理に対抗する、新しい可能性/理解し合うために必要なこと

撮影/福岡 要

第1部 何のために勉強するのか


 人生で役に立つ知識とは


佐藤 こんにちは、佐藤優です。今日はよろしくお願いします。

 さてみんな、なんで勉強するの?


生徒 将来のためとか、好きなことを極めるためとか、新しい世界を知るためとか……。


佐藤 模範解答だけど、みんな、将来やりたいことは決まっている?

 今日の授業では、それを考えるための情報を提供して、みんなのメニューを少し広げて、将来、自分の可能性を生かせる道に進む手助けができればいいなと思っています。

 この教室には、大学進学を希望している人もいれば、就職を希望している人もいる。それから、久米島出身の人もいれば、東京や大阪や東北から、離島留学で来た人もいる。これは理想的な環境だと思います。若いうちに、いろんな立場の人や考え方の違う人と出会うことは大切です。進学する人も就職する人も、試験のためだけじゃない、これからの人生で役に立つ知識を、ここで身につけていってください。

 やりたいことを見つけるためには、失敗を恐れず、いろんなことにチャレンジしてみること。若いうちに何回か失敗しておくのは非常にいいことです。インフルエンザの予防接種と同じで、予防接種を打っておけば、ひどい症状にはならない。逆に人生で一度も失敗せずに育っていくと、後ですごい失敗をしてしまうことがある。だから失敗というのは絶対に経験しておいたほうがいい。そのときに大事なのは、失敗を失敗と認めることです。

 魯迅という中国の作家が1921年に書いた、『阿Q正伝』という小説があります。村人たちから馬鹿にされている「阿Q」という男は、ケンカに負けても、いつも心の中で都合よく合理化して、自分が勝ったと言い続けている。そうするうちに最後には無実の罪で処刑場に引き立てられて、銃殺されてしまう。こういう小説を読んでおくと、失敗を見つめない人間はどうなるのかがわかります。


 もう一つ、この話は阿Qという一人の男のことを書いただけじゃなくて、当時の中国が置かれていた状況を描いている。清王朝が倒れて中華民国に替わる時代の中国人たちが、自分たちは失敗していない、自分たちは偉いんだと言っているうちに、どんな悲惨な状況に追い込まれてしまったか。それを阿Qの運命に重ねて書いているわけです。小説を読むことで、そういう歴史の知恵を知ることができます。


佐藤 それから、学校の教育では「悪」を教えません。だから大人になって、知らずに悪にひっかかってしまうことがある。残念ながら社会に出ると、悪い人はたくさんいるからね。そういう人にひっかからないためには、悪について知っておかなければいけない。


 でも、べつに自分が実際に悪を経験して知る必要はないんだよ。そのために、小説とかノンフィクションとか、本が重要になる。本を読むことで、自分が経験するんじゃなくて、人に経験してもらう。これを代理経験といいます。


 世の中には、4通りの人間がいるんです。「能力が高くて倫理観も高い」、「能力は高いけど倫理観は低い」、「能力は低いけど倫理観が高い」、「能力も倫理観も低い」。この中で、最低なのはどれだと思う? 能力も倫理観も低い人じゃないよ。倫理観が低くて、能力が高い人なんだ。そういうやつは、うまくウソをついたり、人を言いくるめたりして、よい人のふりをする悪人になる。


 みんなも毎日ニュースを見ると、成績優秀なはずの政治家や官僚たちがセクハラをしたりウソをついたり、変な事件がたくさんあるでしょう。人間性と成績は関係ないんだ。そういう人間を見抜くために必要なのが、小説を読むこと、ノンフィクションを読むこと。本を通じていろんな人間や世の中の危険を知って、悪の代理経験を積むことです。

撮影/福岡 要

つらい過去には向き合わなくていい


佐藤 君たちの中には、中学生の間に嫌な経験があった人もいるかもしれない。いじめもあるかもしれないし、学校へ行きたくなくなったり、いろんなつらいこともあったんじゃないか。そういうとき、人生を一回リセットするのにいちばんいいのは、「場所を変える」ことです。それも中途半端に変えるんじゃなくて、ドカンと大きく変える。そういうことって、ものすごく重要なんだ。


 もう一つ、自分の人生でつらいことがあったとき、よく「過去に向き合え」というけど、あえて言えば、向き合う必要はない。嫌な思い出なんて忘れちまえ、フタしておけ。それで今は、自分の力をつけるんだ。自分のやりたい夢を追いかけて、自分にある程度の力がついたところで、おのずから自分の過去に向き合うことになる。そういう順番のほうがいいと思う。


 私が尊敬する政治家で、前原誠司さんという人がいます。以前に外務大臣をやった人だけど、彼が中学2年生のある日、お父さんが鉄道に飛び込んで自殺した。それから母子家庭になった彼は奨学金をもらいながらアルバイトをして、高校から京都大学まで、全部自力で出た。私も京都の同志社大学を出ているけど、京都でお金のない男子学生がよくやるバイトは魚市場なんだ。これは朝の3時半から始まって8時に終わる。ものすごくきついけど、時給が高い。それに余った魚をもらえるから、タンパク源を確保できるわけ。あるとき前原さんとご飯を食べに行ったら、生ガキを食べない。「実は学生時代にアルバイト先からカキを持って帰って、食べたら当たったことがあって」と。そのトラウマで今もカキが食べられないんです。


 彼が言うには、自分は母子家庭出身で、がんばって勉強してはい上がってきたけど、父親の自殺の問題に向き合えるようになったのは40代の後半、政治家になって、ある程度の経験を積んでからだった。みんな自分の問題に向き合えと言うけど、それは違う。自殺で親を亡くした家族には、どうしても向き合えない現実があるんだと。


 私は今、彼と一緒に、社会の分断をなくしていこうという勉強会をしています。東京のど真ん中に生まれて親の年収が5000万円あろうが、地方に生まれて母子家庭であろうが、子どもたちはみんな同じ可能性を持たないといけない。だから教育は高校までは完全に無償化して、大学は国公立大学の授業料をうんと下げて、力のある子たちが経済の負担を感じないで行けるようにしよう、そのかわり税金は上げる。そういう形で日本の国のあり方を変えられないかという話をしています。


 きっとみんなも一人一人、自分の中にいろんな問題を抱えていると思う。でもその問題は取りあえずカッコの中に入れて、きちんと勉強していくことで、将来、問題は解決できるんだと考えてほしい。

医者と弁護士がゴールではない


佐藤 では勉強して、どんな将来をめざすのか。これまで、医者や弁護士はエリートだと思われてきたよね。今、大学の医学部の定員は年間9500人くらいだから、医師になれるのは毎年1万人弱です。じゃあ、日本の医学部でいちばん難しい東大の理科Ⅲ類の、医師国家試験の合格率は何%だと思う? 約90%です。一学年100人のうち、毎年10人ぐらいは医師国家試験に落ちる。ところが順天堂大学や横浜市立大学の医学部生は、ほぼ100%受かっている。なぜ東大ではそういうことになるのか。


 これは大人になるまで挫折しなかった人間によくある問題で、1番目は、大学に入ったら遊びほうけて、勉強を完全に忘れてしまう。2番目は、心の病気になってしまう。3番目が、完璧主義、物量主義の人。大学入試までは物量主義ですべての教科書と問題集をこなして、それを覚えればよかった。ところが、医師国家試験とか、国家公務員試験とか、外交官試験とか、そういう試験は完璧主義では時間切れになる。だから総合的に状況を判断してヤマを張る、すなわち総合マネジメント能力がないと受からないわけです。


 それから、弁護士になるには司法試験という試験に合格しないといけない。司法試験の合格者は、30年前までは500人だったのが今は3倍に増えたけど、毎年1500人だけです。じゃあ、弁護士の年間所得の中央値(高い順に並べたとき、中央に位置する値)はいくらだと思う? 約400万円です。決して昔のような高給ではない。中には年に10億や20億の収入がある人もいるけれど、年収が200万円に満たない弁護士もざらにいる。その上、法科大学院へ行くには700万~800万円かかる。場合によってはそれだけの借金を背負わなきゃならない。そこまでして弁護士になっても、毎年300人から400人が辞めていく。理由は色々あるけど、弁護士は皆、弁護士会に所属する必要があって、会費が年間50万~100万円かかる。その会費を払えないことが理由で辞める人もいるんです。


 だから、弁護士になれば大丈夫という時代は終わっているわけです。


※この続きは『人生のサバイバル力』佐藤 優・著(講談社文庫刊)でお読みください!

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