〈6月11日〉 井上真偽

文字数 1,417文字

どうせあの人は覚えていない


 どうせあの人は覚えていない。
 高校からの帰り道、(いち)()はしきりにそう自分に言い聞かせた。
 あの人、というのは一華が雇っている家政婦のことである。名を(はし)()と言う。母親の死後、仕事で多忙な父親が突然連れてきた家政婦で、その父も亡き今は唯一の身内といっていい(無論あくまで雇用主と使用人という、ビジネスライクな関係だが)。
 初対面の彼女はとにかく目つきが悪く、まだ幼かった一華は怖くてしばらく声もかけられなかった。その壁が崩れたのが、忘れもしない今日──この6月11日だ。
 とある店のケーキを食べて、橋田が笑ったのだ。
 父親の手土産だったが、それを橋田があまりに無表情に食べるので、一華はたまらず「美味しい?」と訊ねてしまった。すると次の瞬間、はっきりと口元に微笑が浮かんだのだ。
 この人も笑うんだ──と一華は何だかそこで安心し、それ以来普通に話せるようになった。なのでこの日が、一華が陰で名付けた「橋田の笑顔記念日」。それでサプライズのお祝いを計画していたのだが──使用人をたまには労ってやるのも、(あるじ)の務めだし──その肝心のケーキが、買えなかった。昨今の事情でお店が閉店していたのだ。
 まあ仕方ないよね。それにどうせ橋田も、そんな些細なこと覚えてないだろうし──。

「あら、お嬢様」
 自宅に着くと、玄関前に佇む人影があった。地味なひっつめ髪に白ブラウス、(くるぶし)までのロングスカート。橋田だ。買い物帰りだろうか。
「ただいま、橋田。今日の晩御飯は──」
 言いかけ、ハッと息を吞む。
「橋田……それ……」
「ああ。これですか」
 橋田は手に提げた紙箱を少し持ち上げる。
「今日のお祝いです。お嬢様が大好きな、例の洋菓子店のですよ。あそこ、今は予約注文だけで、店頭販売はしていないそうですね。先月予約しておいてよかったです」
 混乱する。どうして。どうして、橋田があのケーキを──。
「どうして……わかったの? 私が今日、そのケーキでお祝いするつもりだったって……」
「はい?」
 橋田が首を(かし)げる。
「逆になぜ、お嬢様がお祝いを? なんて、まさか覚えているとは思いませんでしたが。あの時は衝撃でしたよ。最初は頑固に無口を貫いていたお嬢様が、私がケーキを一口食べた途端、目を輝かせて『美味しい?』って──たぶんあれ、味が気になりすぎて自然と声が出たのでしょうね。本当にお嬢様は食い意地が張っていらっしゃる──」
 一華は大きく口を開けて、橋田を見た。
 橋田は澄まし顔で横を向く。だが見守るうちにも、その耳が徐々に季節外れの桜色に染まり始めた。
「まったく……雇い主の御機嫌取りも、楽じゃありませんよ」


井上真偽(いのうえ・まぎ)
神奈川県出身、東京大学卒業。『恋と禁忌の述語論理(プレディケット)』で第51回メフィスト賞を受賞。続く『その可能性はすでに考えた』『聖女の毒杯 その可能性はすでに考えた』がミステリ界から高い評価を獲得し、各ミステリ・ランキングを席捲。さらに『探偵が早すぎる』がTVドラマ化、マンガ化され話題となった。近著に『ベーシックインカム』がある。

【近著】

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