第5話「玄関で熊に雨の降る音がする」

文字数 1,779文字

毎週日曜更新、矢部嵩さんによるホラー掌編『未来図と蜘蛛の巣』。挿絵はzinbeiさんです。

 *

 山へ出掛けていった二人は十二時過ぎまで帰らないらしい。
 大人の居ない家の中では誰かが埃を掃く音がする。
 眠れない夜だった。胸が苦しくて堪らなかった。時計の秒針がいつもより引っ掻き気味に聞こえ、わざわざ持ち込んだ熊の縫製も毛先が固くて邪魔にしてしまった。雨が降っていたけれど雲のせいで外は明るくて、しかしカーテンを閉めてしまうときっと暗すぎるという予感がした。色んなことが綺麗にはまらない、どうしたらいいか判らない夜だった。
「眠れないの」マレーグマのララバイが話しかけてきた。一瞬驚いて八つ当たりしそうになった。寝てると思ったから起こさぬよう我慢してたのに、嘘寝だったのか、起こしてしまったのか。「大丈夫?」
「ごめんごそごそして」癖で謝ると息苦しさが少し減った。「誰かと寝るの苦手なんだ。寝る時じっとしてられないんだ」「そうなんだ」
「起こしちゃうから上で寝るよ」空いているベッドに行こうとすると横で寝ていいとララバイにいわれた。二段ベッドの下の段には獣の臭いが充満していて、毛皮に触れると触れた場所が痛んだ。
 誰の船出も許さないような、よく出来た雨が窓の外で降っていた。
「もう十二時を過ぎた?」
「まだなってないみたい」
「早く明日になって欲しい?」
「ずっと明日が来ないで欲しい」
「二人の帰りを待ってるのじゃないの。二人はまだ帰らないのかな?」
「二人には早く来て欲しいけど二人が帰ったらその後明日が来てしまう」
「未来はそういうものだよ。待ってることと待ってないこと」
「二人とも帰ってこなくていいから明日も来ないでくれないかな?」
「そういうものとは未来は違うよ」
「明日学校で嫌なことがあるんだ。大勢の前で恥を掻くんだ」
「やったね」
「どっかに逃げれないと思う?」
「痕跡があれば逃げたって見つかるよ」
「二人は本当に帰ってくるのかな?」
「捨てるものを全部捨てたら帰ってくるよ」
「この家に残っているものの方を捨てたんじゃないか?」
「そりゃそうかもね」
「いつまでも逃げてたいな」
「嫌なことから?」
「出来ないと思う?」
「考え方次第だと思う」
「本当は立ち向かいたいよ。いつだって歯を食いしばりたい」
「ふふ」
「熊のような歯に生まれたかった。強い顎、強い皮膚」
「熊の中にも経済はあるよ。確かなことは不安くらいだよ」ララバイが寝返りを打つと目の前に鼻と眼球が現れた。「山で寝る熊を考えてみて。熊の巣穴を見たことがある? やかましい山に今は孤独で、その熊に雨が降っているんだ。巣の中で熊は雨には当たらないで、寂しいという言葉もまだない、音階のないどろどろした気分で、記憶と一緒に息をしている」
「やったじゃない」
「熊にだって家族くらい居る時は居るだろうけれど」熊のことなど知らないようにいいララバイは足下の布団を引き上げた。「もう寝よう」
「明日が来ないで欲しいよ」
「そうだね」
「あと何回こんな思いを飲んでいかなきゃいけないんだろう」
「死にたいの?」
「選びたくないって話じゃないの?」
「確かなことなどどこにもないよ」ララバイが距離を寄せてきたので寒かったのかとそれで気付いた。「もう寝よう。明日には明日も来なくなってるかも」
 家の外部で降る雨の音が玄関の方で鮮明になった。二人黙って耳を澄ますと、雨に混じって小さなノックが聞こえた。
「帰ってきたんだ」思わず身を起こした。
「行っちゃ駄目だ」ララバイが押さえつけてきた。「あれは二人じゃない」
「二人だよ。十二時になったんだ」
「二人なら鍵を持ってるはずだ。車の音もしなかった」
「じゃあお兄ちゃんが一人で逃げ帰ってきたんだ」
「あの傷じゃ無理だ」
「じゃあ誰が来たの? 玄関に居るのは誰?」
「熊だよ!」
 雨に濡れる知らない熊のノック音が大人の居ない家の中に響いた。時計を見るとまだ明日になっていなかった。腕を振り切り軋むベッドを飛び出すと、背後で熊の縫製が小さい悲鳴を上げた。



本文:矢部嵩
挿絵:zinbei

最終話「未来予想図」は十二月二十日公開予定です。

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