『匿名』冒頭試し読み
文字数 1,393文字
あと一歩のところまで来た。
屋上から眺めるスクランブル交差点はうごめいていて気持ち悪かった。人工的な光に照らされた人々が青信号に合わせてぞろぞろと動く様子は、ムカデとかダンゴムシみたいな気味の悪さを思いださせる。
夜の静けさを忘れてしまったこの街はいつもカオスな音を発していた。ギャンギャン、ジャラジャラ、ブンブンと、ちぐはぐな音が共生を強いられていて、ここにいるだけでなんだか息苦しい。
そうやってしばらく、ぼーっと見下ろしていると、ふいに街の空気が変わった気がした。
さきほどまでは、各所に設置された街頭ビジョンがこの街を照らしていたけれど、映像が暗転し、街全体を照らす光が失われた。おまけに大音量で流れていた音楽も途絶え、静寂が街をごっそり包み込んだ。それでも、通行人は動じない。その変化に気づく気配もなく、ぞろぞろと歩み続けている。その静けさのなかで、五つの街頭ビジョンがたっぷり時間をとりながら「5」と表示した。
4、3、2、1。と数字がちいさくなっていく。
「カウントダウン......」
私が思わず声を漏らしていると、ミュージックビデオらしき映像が流れはじめた。
やわらかい金色の光。そのなかに佇む女性のシルエット。いや、女性なのかどうかも定かではないくらい、逆光によってその輪郭は保たれていなかった。歌声を聴いてそう判断しただけだ。画面いっぱいに敷き詰められたLEDの金色の光の粒が渋谷を一色に染め上げた。
その光景はカオスなこの街を統制し、浄化しているように思えた。
─ すべての悲しみをひとりで背負うかのように、儚げな歌声。
─ 放っておくといつのまにか消えてしまいそうな、孤高の歌声。
─ 平和をもたらすための祈りをしているような、慈愛に満ちた歌声。
サ行の摩擦音とタ行の破裂音が心地よく鼓膜を撫でる。私の知っている日本語とちがうような発音だった。身体を抱きしめて後頭部で愛をささやかれたみたいに、一気に安堵に包まれた。このやさしい歌声を自分のなかに留めておきたい。言葉にして整理することが勿体なく思える。
街頭ビジョンジャックにすっかり慣れた都会の人々は彼女に興味を示さない。そのなかで私だけが聴いているみたいだった。いや、ちがう。彼女が私のために歌ってくれているみたいだった。きっと私と目を合わせて、私にむかって歌っている。まるで、私を引き止めるように。
映像が終わり、アーティストの名前が表示された。その声の主は「F」というらしい。
浄化された金色の渋谷と、私の語彙を超越するFの歌声に鳥肌が止まらなかった。こんなにも傷ついた私の心が、癒えていくのがわかった。やさしさに触れて、すこしずつ、すこしずつ。
気がついたときには、なぜか、泣いていた。音楽を聴いて涙を流す、こんな経験ははじめてだった。涙を拭ったことによるわずかな振動でまた涙が落ちてくる。それを無意味に繰り返した。
私は一体、なにをしているんだろう。オフィスビルの屋上で、なんで泣いてなんかいるんだろう。ここからあと一歩踏みだせば、死ねるはずだったのに。
屋上から眺めるスクランブル交差点はうごめいていて気持ち悪かった。人工的な光に照らされた人々が青信号に合わせてぞろぞろと動く様子は、ムカデとかダンゴムシみたいな気味の悪さを思いださせる。
夜の静けさを忘れてしまったこの街はいつもカオスな音を発していた。ギャンギャン、ジャラジャラ、ブンブンと、ちぐはぐな音が共生を強いられていて、ここにいるだけでなんだか息苦しい。
そうやってしばらく、ぼーっと見下ろしていると、ふいに街の空気が変わった気がした。
さきほどまでは、各所に設置された街頭ビジョンがこの街を照らしていたけれど、映像が暗転し、街全体を照らす光が失われた。おまけに大音量で流れていた音楽も途絶え、静寂が街をごっそり包み込んだ。それでも、通行人は動じない。その変化に気づく気配もなく、ぞろぞろと歩み続けている。その静けさのなかで、五つの街頭ビジョンがたっぷり時間をとりながら「5」と表示した。
4、3、2、1。と数字がちいさくなっていく。
「カウントダウン......」
私が思わず声を漏らしていると、ミュージックビデオらしき映像が流れはじめた。
やわらかい金色の光。そのなかに佇む女性のシルエット。いや、女性なのかどうかも定かではないくらい、逆光によってその輪郭は保たれていなかった。歌声を聴いてそう判断しただけだ。画面いっぱいに敷き詰められたLEDの金色の光の粒が渋谷を一色に染め上げた。
その光景はカオスなこの街を統制し、浄化しているように思えた。
─ すべての悲しみをひとりで背負うかのように、儚げな歌声。
─ 放っておくといつのまにか消えてしまいそうな、孤高の歌声。
─ 平和をもたらすための祈りをしているような、慈愛に満ちた歌声。
サ行の摩擦音とタ行の破裂音が心地よく鼓膜を撫でる。私の知っている日本語とちがうような発音だった。身体を抱きしめて後頭部で愛をささやかれたみたいに、一気に安堵に包まれた。このやさしい歌声を自分のなかに留めておきたい。言葉にして整理することが勿体なく思える。
街頭ビジョンジャックにすっかり慣れた都会の人々は彼女に興味を示さない。そのなかで私だけが聴いているみたいだった。いや、ちがう。彼女が私のために歌ってくれているみたいだった。きっと私と目を合わせて、私にむかって歌っている。まるで、私を引き止めるように。
映像が終わり、アーティストの名前が表示された。その声の主は「F」というらしい。
浄化された金色の渋谷と、私の語彙を超越するFの歌声に鳥肌が止まらなかった。こんなにも傷ついた私の心が、癒えていくのがわかった。やさしさに触れて、すこしずつ、すこしずつ。
気がついたときには、なぜか、泣いていた。音楽を聴いて涙を流す、こんな経験ははじめてだった。涙を拭ったことによるわずかな振動でまた涙が落ちてくる。それを無意味に繰り返した。
私は一体、なにをしているんだろう。オフィスビルの屋上で、なんで泣いてなんかいるんだろう。ここからあと一歩踏みだせば、死ねるはずだったのに。